35.崩れゆく器、残る想い
深淵の霧が、ゆっくりと薄れていく。
結界に守られた空間の境界が音もなく軋み、拠点として築かれた蘆屋会の秘匿領が、まるで砂上の楼閣のように崩れていく。
「――結界が……裂けた、だと?」
呆然と立ち尽くすのは、蘆屋会の長老格のひとりだった。
中心に据えられていた柱――儀式陣の核が砕け、周囲の空間が不安定に波打つ。浮遊していた足場が歪み、霊脈そのものが自壊を始めていた。
「なぜだ、
しかし、月梅の姿はもうそこにはない。
彼は敗北を悟るやいなや、誰よりも早く姿を消していた。自分の執着――白雪を手に入れるという唯一の願いが潰えたと感じた瞬間、興味を失ったかのように。
残された術者たちは、崩壊する術域に呑まれていく結末だけを残された。
「……もう、ここまでか……」
最期の瞬間、誰かがそう呟いた。
それは敗北の言葉ではない。自分たちの道がとうに誤っていたのだと気づきながら、それでも退くことを選べなかった者の諦念の声だった。
こうして、蘆屋会は一つの終わりを迎えたのだ。
◆
光が弾けるようにして、浅葱たちは現世の結界内――土御門邸の裏庭へと戻ってきた。
体勢を崩しながら、まず膝をついたのは浅葱だった。
「……っ、戻った、んだよね……?」
「うん。大丈夫、この匂いは現実世界の空気だよ」
朔羅が浅葱を支えながら、鼻先をかすかに動かす。
白雪も後ろから軽く背に手を添えていると、紅子、琳、藍が少し離れて着地するようにして狭間から抜けてくる。幸徳井家と繋がっているのかと思ったが、静柯は敢えてここを帰路としたのだろう。
その瞬間――紅炎と颯悦が、屋敷の影からすぐさま駆け寄ってきた。
「浅葱どの!」
「ご無事で何より……!」
紅炎は即座に浅葱の霊力の乱れを見抜いて、主に手をかざした。白雪ほどの治癒ではないが、気の乱れは彼女も操ることが出来る。
体内で暴れていた外霊の力を丁寧に鎮めていくような、穏やかな術式だった。
「……思ってたより、乱暴な形になっちゃった……」
「いえ、あの場では仕方のないことだったのでしょう。この程度で済んだのは、貴方の意志がぶれなかった証拠です。……本当によく、踏みとどまりました」
白雪もその横でそっと目を伏せ、小さく一礼する。
「……主殿。そなたの覚悟、しかと拝見致しました」
その言葉は、称賛ではなく、同じ『式神』としての誇りに満ちたものだった。
浅葱は返す言葉もなく、ただ静かに頷いた。
少し遅れて、紅子が浅葱の側に膝をつく。彼女の顔には安堵と、それ以上に何か強い決意のようなものが宿っていた。
「……ありがとう、土御門くん。……変かもしれないけど、今回の事で背中を押してもらった気がする」
「それは……僕のセリフだよ。来てくれてよかった」
思わず顔を見合わせて、浅葱は少し照れたように笑った。互いに避けていた時期もあるからこその、それなのだろう。
琳と藍もまた、どこか気恥ずかしげに微笑を返す。
「……もう、終わったのかな……蘆屋会」
浅葱の呟きに、誰もすぐには答えなかった。
完全な終焉かどうかは分からない。ただ、今夜の儀式が彼らの『最後の矜持』だったのは確かだ。
そして、終わったのはそれだけではない――。
空を仰げば、早朝の光が雲の合間から差し込んでいた。
家屋の外では、土御門家の結界が静かに波打っている。拠点全体が、浅葱の帰還に呼応するように微かに光を帯びているようにも見えた。
「……ところで、浅葱さん――『賀茂浅葱』の魂は? さっき一緒にこっちに来たような気がしてたけど」
朔羅が周囲を見回しながら問いかける。
白雪はそっと目を閉じ、霊視の感覚を研ぎ澄ませた。
「……主殿へと思いを託した後、門へ還ったようだの。強い未練が消えたのであればよいが……。おそらくは、もう現世に留まることはないであろう」
「そう……」
浅葱はそれを聞いて、静かに頷いた。
きっと、あれで良かったのだ――かつての賀茂浅葱が、一番に臨んでいた通りに賽貴と共に在れる場所へ還っていけたのなら。
魂の廻りがどうなったのかまでは確認出来ないが、もしかすると肉体ごと、あちらで転機があるのかもしれない。
「……全部、受け取ったつもりだよ。僕は、僕として……これからを歩く」
紅炎と颯悦は無言でそれに頷き、式神たちの間に何とも言えない連帯感が生まれていくのを、誰もが感じていた。
そこへ、一人の影が現れた。
幸徳井家の使者――ではなく
「すみません、お邪魔でしたか?」
「……いえ。来てくださって、ありがとうございます」
浅葱が立ち上がりかけたのを、静柯は手のひらで制して穏やかに笑う。
「今はまだ、無理をなさらずに。――事情はすでに紅子から聞いています。こちら側でも、蘆屋の残党の動向は監視下に置くように手配しました。……しばらくは、活動不能でしょう」
「そう……ですか」
「しかし……惜しむらくは、あの月梅という青年のことですね。まだ執着の火は残っているようです。彼が蘆屋を見限る可能性すら、私には見える」
その言葉に、白雪が少し眉を寄せた。
彼女は彼女として、やらねばならないことが残っている。
「……あやつは、蘆屋会の者であって、蘆屋の者に非ず。これまでも、どこか歯車が噛み合っておらぬままでしたからな」
「それでも、あれほどまでに深い感情を抱いた者は、そうそう消えない。だからこそ、油断はなさいませんよう」
「心得ておりまする」
静柯の言葉は、穏やかだが冷ややかでもあった。
彼は、決して情に流されて動くことはない男だ。だが、それを踏まえた上で、浅葱たちに手を貸しに来たのだということも、誰の目にも明らかだった。
「……兄さん」
紅子が静柯に声をかける。
先ほどの戦いの中で、彼女もまた一つ殻を破った。幼さを残した少女の顔ではなく、覚悟を抱いた者の目になっていた。
「私も……土御門くんたちと一緒に、前へ進みたいと思ってます。過去に囚われるだけじゃ、だめだと思ったから」
その言葉に、静柯は目を細めた。
妹の成長を間近で感じられることは、やはり兄としては嬉しく思うのだろう。
「……紅子。お前のその言葉が、最も尊い贖いとなるでしょう。これからも励みなさい」
「はい」
そして、浅葱の方へ向き直る。
その時の静柯が、賀茂静柯で在ったころのように見えたのは、浅葱の気のせいではないのだろう。
「浅葱の名を継ぐ者よ。ここから先の道は、より困難になるでしょう。けれど、あなたなら乗り越えられるはずです」
「……はい。努力します」
はっきりとした声で答えたその姿に、静柯は初めてわずかに笑みを見せた。
「私個人としては、いつでも協力するつもりです。また、必要とあらばいつでも声をかけてください」
「ありがとうございます」
彼は振り返り、結界の外へと歩き出す。紅子もそれに続こうとしたが、浅葱に向かってふと振り返った。
「……あの、また話せますか?」
「うん、もちろんだよ。……あ、琳、家まで一緒に行ってあげて」
「承知しました」
その一言に、紅子は少しだけ頬を染めたようだった。藍が紅子の肩口で「ふふ」と小さく笑ったのは、なぜなのだろう。今はまだ、見えてはこない思いだ。
――慌ただしくもあったがこうして、静かに一連の戦いの幕が降りた。
数刻の後。
土御門邸の屋根の上で、朔羅と紅炎が並んで腰を下ろしていた。
「……終わったね」
「あぁ。だが、それは一つの区切りでしかない」
「まぁ、確かにね。……浅葱さんの物語は、ある意味ではこれから始まるんだろうな。僕はこのまま、彼に添うよ」
「そうだな。主殿の『覚悟』を受けて、我々もまた、ただの式神ではいられなくなった。……かつての浅葱殿は、賽貴の元にたどり着けたのだろうか」
「きっと、さっきみたいな魂だけの姿じゃなくて、彼が望んだとおりの姿で、幻妖界に降り立ったと思うよ」
そう言う彼らの表情には、寂しさも浮かんでいた。
賀茂浅葱は、いつか現世で再び会えるとどこかで思っていた。蘆屋会の異常な執着さえなければ、ことはもっとスムーズに進みなんらかの形で彼を呼び戻せただろう。
時代の流れ、その過酷さと無常さが、身に染みているのかもしれない。
どこかでやりきれない気持ちを抱えながらも、それでも彼らは今を生きていくものとして、主と同じように前を向いて歩いていくしかないのだ。
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