第30話 歪と花


「オオオ、オオ、オオオオオ!」

 人喰い魔女が吠える。さっきの声の正体も、今分かった。

 魔力が練り上げられて、空気の塊が出来上がる。魔女は魔法名も言わずに、咆哮だけで暴風を起こす。

 目に見える程に圧縮された風は、一瞬消えたかと思うと既に刃の魔法使いへと叩きつけられていた。

 ドンッと、壁に激しく衝突するような音を響かせ、スレイの身体が凄まじい勢いで吹き飛ばされる。


「――うォ」

 スレイの瞳が白んだ。多分、気を失った。やいばの魔法使いは広場のほぼ反対側まで到達し、力を失った抜け殻はされるがままに地面を転がり肉をり、ゴロゴロと何度も回転してようやく止まる。

 そのまま仰向けに腕を投げ出して、人形のように静まった。もうピクリとも動こうとしない。呼吸があるかさえ分からない。


 ザワリと背中が怖気立つ。彼はまだ生きているだろうか。魔女は魔法で人を殺さないと聞いていたけれど、今の一撃はトドメになっていたって不思議じゃない。


 少し目を離している間に、人喰い魔女がノソリと動いた。

 それだけで心臓はドクンと跳ね上がる。

 何をするつもりか、全く読めない。もし彼女が我を忘れて本気を出したら、どれだけの魔法が出てくるのか、予想も出来ない。


「ニ、ア」


「スゥ――……ハァ――……」


 食事の時に聞いたことのある、あの吐息。正気を失っている時の、あの恐ろしい人喰いの呼吸。

 耳をすましてそれを聞く。するとまた、魔法名も言わずに花が降り出した。花の魔力が渦を巻き始める。魔女の頭上からヘリクリサムが降り落ちて、グズグズと肉の生まれ出る湿った音がした。花の魔法からは強烈な香りがする。この時初めて、魔力に臭いがあることに気が付いた。危険を感じる香りを肺へと吸い込んでいる間に、人喰い魔女の傷は完全に塞がれていた。


「! もう治ってる……魔法の強さが増してる?」


 ただでさえ強大だった魔法が、さらに効果を高めている。いや、それも大変なことだけれど。


 他にも分からない事がある。

 どうしてニアは急に正気を失ってしまったのだろう。どうして今、ここで食欲に飲まれてしまった?


 今のわたしではちゃんと答えを見つける事はできないけれど、なんとなく予想は出来る。

 おそらく、魔力を使いすぎたからだ。


 ニアは食欲を抑えるため、夜になるとわたしのオリを食べる。それで十分正気を保っている。でもそれは、普段は大して魔力を使ったりしないからじゃないか?

 ひょっとすると、人間が激しく運動してお腹を減らすのと似たように、人喰い魔女も激しく魔力を消費するとお腹が空くのではないだろうか。


 ヘリクリサムの花は、不死の魔法だ。今さっき心臓を貫かれたわたしさえ、その魔法一つで完全に治してしまった。こんなのもう、蘇りに近い。

 けれど、命さえ呼び戻しかねない魔法は、代わりにとんでもなく魔力を使うんじゃないのか? いや、使うに決まってる。だって、不死の魔法だ。ほとんど死にかけたわたしを、あっという間に救ってしまうほどの、強力な魔法だ。


 なら、スレイの刃に何度も殺され、生き返り続けたニアは、どれほど魔力を消費しただろう。

 たった一回でも強大な効果を生み出す魔法を、何回繰り出してしまったのだろう。


 そんなの、お腹が空くに決まってる。

 人の命を溜め込むための人喰いの胃袋が、空っぽになってしまうに決まってる。



「アアッ。オ、オオオ、オオ、オオオオ!」

 天に向かって背を反らし、人喰い魔女が吠える。それだけでビリビリと空気が震えた。

 口の大きさは普通の人間と同じなのに、咆哮はまるで地面を揺らす巨獣のようにでかい。膨大な魔力がそうさせるのか、それとも自我を失うほどの食欲がそうさせるのか。

 存在感は凄まじいのに、仕草は空腹を覚えて駄々をこねる子供のようだ。


 そして吠えると同時に、異変が起きた。

 グラグラと石畳の下が揺れている。いやこれは、街全体が何かにめくりあげられるように、揺らめいている。


「うわ、うわァ」

 手に負えないものが起こる予感に、頼りない声だけが漏れる。どこにいれば安全かも分からない。そして予想は裏切られ、もっとおぞましい事が起こった。

 そこらじゅうで石を爆発させたような音が響き、建物を下からめくって破壊しつつ巨大な何かが伸び上がった。


 それは植物だった。

 太い首に支えられ、二枚の葉っぱが貝のようにカパリと開き、まつげのように鋭い歯が伸びている。

 どこかで見たことがある。たしかあれは、ハエトリグサとか言うやつだ。虫をおびき寄せて、食べてしまう草だ。

 ただし、こんな大きいものであるはずは無い。これは花の魔法が呼び出したものに違いなかった。


 巨大なハエトリグサは街のあちこちで出現し、長い牙で建物を噛み砕き街を破壊していく。

 獲物がかかるまでジッと待つ植物だった気がするけれど、今は人喰い魔女の獰猛さをそのまま引き継いだかのように積極的にうごめいている。


「まさかこれ、人間を探してる?」

 膨大な魔力で呼び出されたあれらは、巨大な口そのものにさえ思える。あれに飲み込まれて行き着く先は、人喰い魔女の胃袋なのかも知れない。

 そういえば、人喰い魔女は毎日数百人を喰うと言っていた。それは普通の人間と同じサイズの口一つで間に合うものだろうか?

 おそらく間に合わない。きっと、襲撃のたびにあのハエトリグサを呼び出して、たくさんの人々を飲み込んできたのだ。


「ダメだよ、ニア。もう人間は食べたくないって、言ったじゃん……あんなに苦しそうにして、ずっとオリだけ食べて、我慢したのに……」

 街の人たちは逃げているはずだけど、どれだけ遠くに離れたかは分からない。むしろ刃の魔法使いが街を守っていたのだから、近くに待機場所があるかも知れない。

 もしほとんどの人が街の近くにいるのだとしたら、人喰い魔女にとって彼らは格好の餌食そのものだ。


 嫌だ。見たくない。それだけはダメ。

 他には誰も居ない。今ここでわたしが踏み出さないと。きっとたくさんの人間が喰われる。


 そしてニアはもっと苦しんでしまう。何よりもそれが一番イヤだ。


「ニっ……ニアァッ!」

 少し舌がもつれて、でも声は届いた。

 ピタリと動きを止めた人喰い魔女が、こちらへと顔を向ける。


 そのギラギラとした赤い瞳に込められたものは、わたしの予想と違っていた。

 てっきり、こちらを値踏みするように視線を注ぎ、どう食べようかと悩んだり。またはわたしが人喰いだと知っているから、マズイ食材だと気付きがっかりしたり。とにかく、どちらかの反応をすると思った。

 でも、どれも違った。全く予想できない表情だった。


 呼びかけに反応してわたしの方を向きながら、人喰い魔女は泣いていた。

 苦しげに眉をひそめて、怖がるように目を見開いて、垂れた目尻から涙さえ流して。噛み付くために開いてゆくアゴの力と、閉じるために食いしばるアゴの力が競り合って、カチカチと小刻みに震えている。

 彼女は食欲を堪らえようと、必死に歯を食いしばっている。人喰いをやめようと必死にもがいている。

 瞳はわたしに向かって「助けて」と訴えかけている。


 ひょっとすると、人喰い魔女の百年はずっとこうだったのだろうか。

 人間を食べたくないんだと心の中ではずっと願っていて、それでも食べずにいられない。人喰いだから。人間の美味しさが分かってしまうが故に、止められない。もとが弱い普通の人間だったなら、魔法使いに殺してもらえたかも知れないのに。なまじ魔法使いの人喰いとして生まれてしまったが為に、力が強くて勝ってしまう。しかも魔力が高まって、不死の力まで発現して、どれだけ傷ついたって殺してもらえない。

 どころか、立ちはだかる魔法使いさえ食べ尽くし、力はどんどん強まっていく。絶望は深まっていくばかり。


 そういえば彼女は人喰いになったその日、十万人の魔法使いを食べたと言っていた。ということはつまり、本気になれば一日十万人、食べてしまうほどの力があるってことだ。

 なのに今は一日数百人。桁違いに少ない。それがなぜかは、今の表情を見れば明らかだった。


 ずっと我慢していたからだ。今みたいに歯を食いしばって、食べる数を減らそうと、ずっと堪えていたからだ。彼女が堪えるのをやめれば、一日十万人が犠牲になってしまうから。だから、堪える事をやめるわけにはいかない。毎日十万人を食べてしまえば、それこそ世界が食い尽くされてしまうから。


 どれだけ苦しくても。どれだけお腹が減ろうとも。

 人喰いの本性は「もっと食べろと」と彼女を急き立てて。人間としての、魔法使いとしての彼女は「食べたくない」と耐え続けて。でも正気を失う程の美味は、結局彼女を人喰いへと駆り立てる。力の及ばない自分自身に打ちひしがれて。人間を一人食べるごとに、何度も何度も叩きのめさたに違いない。


 それでも、歯を食いしばる事をやめなかった。百年間も耐え続けた。人喰い魔女の暴走は終わりさえ見えない。永遠に続いてもおかしくない孤独な戦いの中、心をすり潰すことさえ許されずに。

 誰も彼女の心の内は知らない。世界中は当然、彼女を最悪の人喰いだと敵視し恐れる。それはそうだ。味方になる人間なんて居るわけもない。


「でもそんなの……酷すぎる」

 あれほど我慢してるのに。あんなに辛そうなのに。ずっと孤独なのに。そんなの、ニアが可哀想過ぎる。

 彼女が前に「この世は地獄でしかない」と、そう語った意味が今なら分かる。

 いや、少しだけ分かる。きっとわたしでは想像が追いつかないから。こんな子供じゃ、彼女の苦しみを十分に分け合うことさえ出来そうもない。


 そうして人喰い魔女はしばらくわたしを眺めると、フッと街の方へ向き直した。きっと、人間を食べる為に。


「まッ」

 待って! と言葉に出るより早く、足は勝手に駆け出していた。

 そして、自分でも馬鹿だとしか言えない考えが浮かぶ。


 人喰いの魔女は、強い。強いし、怖いけど。わたしは弱いけど、それでも。


 左手を胸に当てて、ニアに編んでもらったローブをギュッと握って思い出す。

 胸には温もりがあった。ニアがずっと注いでくれたお陰で手に入れた、大事な温もりだ。

 それはさっき、貫かれた心臓を彼女が治してくれたという意味だけではなくて。もっともっと奥のところに、たくさん温かいものをもらった。


 だから、わたしからもそれを渡したい。ほんの少しでいいから返したい。百年続いた孤独できっと、彼女の内側は氷でいっぱいになっているはずだから。

 それを溶かしてもらう心地よさを、彼女が前に教えてくれた。だからわたしからも、ほんの少しで良いから温もりを分け合って、それがどれほど心地いいことか教えてあげたい。


「ニアァァァ!」

 オリを喰わせている場合じゃない。ハエトリグサはいつ人を食べてもおかしくない。

 だからニアを助ける方法は、一つしか無い。


「オオオ、オオオオ、オオ!」

 背中に飛び乗って、ニアのうなじに血がにじむ程牙を喰い込ませた。

 口に噛み含んだ首筋の奥で、巨大な咆哮が通り過ぎていくのを振動で感じとった。


 ニアを助けるための方法は、彼女自身がさっき明かしてくれた。

 人喰いの牙を持つ今のわたしなら、花の魔法を喰える。

 

 ハエトリグサが枯れていく。

 膨大な魔力が、牙を通してわたしへと流れ込んでくるのが分かる。

 そして花の魔法を確かに食べて。その後わたしを襲ったのは、人喰い魔女の記憶。百年続いた孤独のごく一部を覗いた事による、その味だ。


「う”」

 思わず牙を抜き取った。そのまま背中を飛び降りて。

「おえ”ェェェ!」

 マズイ、マズイ!


 そこら中に胃の中を戻した。喉を押さえても止まらない。どれだけ吐き出しても、今食べた記憶の味は強い余韻を残して中々消えない。

 聞いた通り、五感全部で感じた。

 人喰いはマズかった。たった一口なのに本当に。


 ニアが言っていた意味が分かった。人喰いはマズイ。正気に戻ってしまうのも分かる。悪い記憶が一度に流れ込んできて、思考が焼き切れそうになった。

 人間を食べたら幸せな記憶が流れ込んで美味になると聞いたけど、きっと人喰いは違うのだ。

 人喰いは、食べても悪い記憶しか味わえない。たった今身をもって知った。

 共食いをふせぐためそうなったのか。理由は知らないがそう出来ている。


「はあッ! はぁっ。でも……」

「ふゥー!ふぅーー!」

 でも、ハエトリグサは消えた。花の魔法は今わたしの中へ。

 人喰い魔女も、喰われかけた痛みからかそこで止まっている。崩れ落ちそうなところを踏ん張っている。


「ニア」

「アア、オオオオ、オオオオオオ!」

 食欲に飲まれたニアが、こちらを敵と認めて睨みつけた。でももう後には引けない。大事な彼女を助けるまで、わたしは逃げない。


 きっとわたしとニアは、記憶を失う前もこうして向き合った。

 違うのは、今わたしの方に花の魔法があることと、戦う理由と、その決着の行方。


「ニア。今度こそ止めてあげるからね」


 そうして初めて、わたしは彼女のために歩み寄る。甘えるためじゃなくて。何かを与えてもらうためじゃなくて。

 ニアを助けるために。

 大好きなお姉ちゃんを、人喰いから取り戻すために。

 

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