第24話 魅了

 嗚咽を漏らすたびに身体が震えて、突き立てられた剣が少しずつ肉を削る。流れる血を止めるためにヒズミの魔法で塞ぎ直してと、そんな事を繰り返してどれだけ時間が経っただろう。

「はァ――」

 ため息をついて、スレイが首を押さえつけていた刺股さすまたを引き抜いた。相変わらず他のレイピアは刺さったままだ。


「大体わかったぜ。チビネラ。てめェには話しておくべきことがたくさんある」


「わたしには無い」


 もうニアについては全て読み取ってしまったくせに。これ以上話す事なんてない。この後スレイがわたしをどうするつもりなのか。予想できない。


「これから、わたし達をどうするの?」

 ひょっとしたら、このまま帰してくれないだろうか。ニアがもう無害な人喰いだと分かったなら。最後にはわたしが殺して人喰い魔女は居なくなると分かったのなら、帰してくれるかも知れない。


「人喰い魔女は当然殺す」

 なんて、そんな甘い考えをスレイは一刀両断にして打ち捨てた。殺す、か。知っている人同士が殺し合う。実感が湧かず、内側で複雑な感情が行ったり来たりした。


「そんで、てめェには協力してもらうぜ。フィオネラ」


「へ?」


 スレイの口から、予想外の提案が飛び出した。ちょっと頭が追いつかない。が、わたしの中の答えは決まっている。確かに最終的にはわたしがニアを殺す約束だが、今は違う。そしてコイツの事は大嫌いだ。


「そんなの、手伝うわけないじゃん」


「いいや、てめェは俺に協力するべきだ、チビネラ。その理由をまず一つ教えといてやる。前に近くの村が人喰い魔女に襲われて無くなったッつぅ話はしたな?」

 それは、一応覚えている。なぜなら。


「聞いたよ。後で考えて、きっとわたしの居た村のことだって気付いたから覚えてる。近くにあるんだなって、ずっと頭の中で考えてた」


「その通りだ」

 

 ふいにスレイが、体に突き立てられたレイピアを一つ握る。目は冷たいまま、こちらを見下してくる。嫌な予感がした。

 痛めつけて無理やり協力させるつもりか? 最低の選択に血の気が引く。ギュッと目をつぶって、顔を背けた。

 しかし、次に聞こえてきたのはさらに予想外の言葉だった。


「てめェが住んでた村。ディスタ―って村だがな。誰も死んでねぇぞ。誰も喰われてねェ。てめェ以外の連中も、てめェの母親も、全員生きてる」


「……へ?」


「興味出たかよ? 大人しく話聞くってんなら、剣を抜いてやるぜ?」


――――――――――――――――――――――――――――


 剣を抜いて、傷をまず癒やした。

 お互い椅子に座って対面する。しばらく間が空いて考える時間はあったけど、何度理解しようとしても頭が追いつかない。わたしの故郷の人が全員生きている?


「ほぉほぉほぉ。全く、便利な力じゃねぇか。傷が一瞬で治せるたァなあ。俺が欲しいくらいだぜ」


「……ふん。スレイにはもったいないよ。それよりわたしから質問。ホントにわたしが住んでた村、その、ディスターって村の人達は全員生きてるの? あとわたしがそこの出身だって証拠は?」


 そこが嘘だとしたら話にならない。わたしを大人しくさせるためだけに言ったのだとしたら、次こそ不意打ちでもなんでもしてぶっ飛ばす。


「お、意外とちゃっかりだなチビネラ。そういうのは嫌いじゃアねぇ。じゃあコレを見てみろ。世界が人喰いに対応するための、デケェ魔女狩り機関が配布する資料だ。何百人って魔法使いを雇って、人喰いの情報を知らせている。簡単に説明すりァ『目の魔法使い』が常に調査し、『紙の魔法使い』が世界中に知らせる。当然他にも魔法使いが居て様々仕事はあるが、特に重要なのはコイツだ。世界中どこの掲示板でも張り出されている紙で、毎日これが書き換えられる。これはチィと前のやつだがな」


 スレイが立ち上がり、書斎の棚から何か文書の束を引っ張り出して、その中の一枚を引き出した。そこにはこう書かれてある。

 『A級指定災害による被害状況報告』


「つまりだ。大物の人喰い、特に人喰い魔女が起こした被害について書いてある。いつ、どこで、どんだけの人間を喰ったかってのが、毎日これで知らされる。人喰い魔女ってのは一日数百人って人間を喰ってた。災害そのものなのさ。誰もがこの紙を見て人喰い魔女の足取りを把握する。近くに現れたらすぐにでも逃げれるようにな」


「……うん。それは、知っておかなきゃだね」

 普通に暮らしてたら確かに、欠かせない情報だ。どこか遠くに出たのならまだしも、近くに出たとなれば、目を離すわけにはいかない。


「で、この報告だ。こいつは今から十日ほど前、人喰い魔女が最後に襲った村。見てみろ」


 何かゴチャゴチャと色々書いてあって分かりづらいが、大事なところだけは指差しで教えてもらった。


 『 ディスター村 被害状況

    犠牲者  :0名

    行方不明者:魔法使い 一名のみ 』


「魔法使い、一名」

「のみ。なんて表現初めてだったぜ。なんせ毎日何百人って人間が犠牲になるはずなのに、この日はたった一人。しかも連れ去られて行方不明ってのも初だ。衝撃すぎて誰もが覚えてるだろうよ。その上にだ。これを境に突然人喰い魔女の被害が止まった。世界中何が起こったのかと騒いでるぜ。魔女狩り機関の魔法使い共は今頃見落としがないか大慌てだろうがな」

 騒ぎって、そんな事になっていたのか。ほとんど花園で過ごしていたからさっぱり分からなかった。


「そんでこのディスタ―って村は、『ひずみの魔法使い』が守っていた。お前くらいのガキだとも聞いたぜ。他には居ない、珍しい魔法使いが居るって話だった」


「他には居ない、珍しい……」

 そういえば、ニアも同じことを言っていた。実際わたしはひずみの魔法を使っているし、村に居た記憶も、おぼろげだけど思い出している。

 わたしがこの村を守る魔法使いだった? この年で? いやでも記憶が無くなる前はすごく強かったとも聞いたし、おかしくはないのか。


「この世で唯一のひずみの魔法使い。そんで、行方不明になった魔法使い一名だ。人喰い魔女に連れ去られ、今まさに一緒に暮らしているチビネラ。お前の事で間違いねェだろうな」


 実際、わたしも歪の魔法を使っているし、ニアとスレイの話を合わせても矛盾しない。

 この行方不明の魔法使いというのは、わたしで間違いなさそうだ。


「……そうかもね。でも、村は人喰いに襲われたって聞いたんだけど。それで無くなっちゃったって」


「確かに紛らわしい言い方だったがな。人間が食われたとは言ってねぇ」


 あれ。言ってない? 確かに思い出そうとしても記憶に引っかからない。そういえば誰も、村の人間が食われたとか、死んだなんて直接言っていない。でも村が無くなるほど破壊されたのに誰も死んでないなんて。


「村は壊しても、人は殺さねェさ。生きてる人間の命を喰うんだからな。人喰い魔女は魔法で人を殺したりはしねェ。せっかくの食事が勿体ねェからな」


「そっか。人喰いは記憶と命を喰べるから。殺したら、人間の美味しいところが喰べられない」

 ひとまず納得だ。ということはスレイの言う通り、ディスタ―村の人達はみんな生きている。

 けれどそこで、新しく疑問が浮かんだ。


「でも本当にみんな生きていたなら、ニアがそれを話してくれないわけが……」


「問題はそこだよなァ、チビネラ。ニアってやつの隠し事その一だ。てめェの大好きなネーチャンはなんでそんな大事な事を教えてくれなかったのか。なんで隠していたのか、だ。つまりよォ」

 なんとなくそこから先の言葉が予想できてしまう。いや、それはスレイの勘違いだ。ニアはたしかに最初、人喰い魔女ってことは黙ってたけど。もうそれ以外は。


「てめェのネーチャンは、一度だけじゃなく、二度もてめェを騙してたんだよ。いいや、どころか最初からずっと騙してた。ニアとやらの話は嘘だらけだぜ。俺が分かった事は全部教えてやる。納得したら、人喰い魔女討伐に協力しろ」


 嘘だ。わたしはまだ、騙されていた? あり得ない。でも騙していた以外にニアがこの事を黙っていた理由なんて、思い浮かばない。


「つっても、これだけでニアってヤツが悪者なのは確定だと思うんだがな。確かに死んだとは言ッてねぇが、村の人間やてめェの母親が生きてる事を隠してやがる。てめェに勘違いさせて、ずっと手元に置いておこうとしやがった」


「……ニアは、そんなんじゃない。知ってるんでしょ? 最後はわたしがニアを殺さなきゃいけないんだから。自分が確実に死ぬために、黙ってただけだよ」


「そんなもんを素直に信じちまうッてのがよォ、そもそもオカシイとは思わねぇか? 人喰い魔女だぞ。記憶がねェとは言え、どんだけ甘やかされたとは言え、すっかり信じちまう自分に疑問はねェのか?」


 また、知ったような事を言う。怒りで自然と力が入り、手に持った紙がクシャリと握りつぶされた。


「どういう、意味?」


「まぁまぁまぁ。怒ってんじゃねぇよ、落ち着け。それは後だ。順番に話してやるさ。ヤツの隠し事その二だ。なんでてめェは、人喰い魔女に食い尽くされなかった?」


「ん? そんなの、だからわたしがお腹を満たすだけのオリを溜め込めるからでしょ。心読んだなら知ってるでしょ?」

 なんだ、意外とスレイも抜けてるな。さっき知ったことをもう忘れているのだろうか。


「おいおいおい、てめェ、チビネラ。ヤツぁ一日数百人から喰う底なしの胃袋を持った人喰いだぞ。なんでてめェ一人の栄養で満足できるってんだよ」


「いや、でも実際毎日オリを食べて、それで食欲は抑えられてて……」


「ほぉー。まぁ分かった。百歩譲ってそうだとしよう。てめェの澱で腹が満たせるとして、だ」

 だからそう言ってるのに。一体何が言いたいのか……。


「それじゃあなんで、最初にてめェを食べた時は満腹になったんだ? 澱とやらは、記憶を無くす前は溜まってなかったはずだろうが」


「それは……」

 あれ? 確かにオリが溜まってしまうのは、記憶が無いせいだとニアは言っていた。記憶が無いせいで、魔力の残りカスをうまく処理する方法を身体が忘れてしまっているせいなのだと、そう言っていた。


 なら、記憶を無くす前。食べられかける前は、当然オリなんて無かったはずで。

 記憶を無くす前からオリを身体に溜めこんでいたなら、あれほどの苦痛をずっと感じていたと言うのか? いや、それは無い。そんなのは身体が耐えられず、すぐ死んでしまう。

 やっぱり、記憶を無くす前はオリなんて無かったのだ。

 じゃあどうして、最初にニアが噛み付いた時に彼女は食べるのをやめたのだろう。満腹になったから?


「そうだ、それは別におかしくないよ。だってオリって言うのは魔力の残りカスで。だから満腹になるだけなら通常の魔力でも良いはず。むしろソッチのほうがお腹は満たしやすいかもしれない。わたしの魔力が多すぎて、ニアは食べてる途中で満腹になっちゃったってだけ。魔法使いだから、普通の人の数百人分の食事が摂れたっておかしくない」


「いいや、まだオカシイぜチビネラ。やつは人喰いになったその日、十万人の魔法使いを喰った人喰いだぞ。十万人分の魔法使いの魔力、それ以上の力をてめェ一人で持っていたと、本当に断言できンのか?」


「いや……それは……」

 そんなわけが、無い。いくら前は強かったと言ったって、そんな力はとんでもなさ過ぎる。じゃあ一体どうして……。


「だから、隠し事その二なんだよチビネラ。人喰い魔女は底なしだ。満腹で食事をやめたりなんかしねぇ。別の理由があるのさ。食事をやめた理由は確実に、てめェが関係している。何か心当たりはねェのか?」


「……そんなの、分かんないよ」


「だろうな。正直これは、俺にも分からねぇ。だがひずみの魔法が関係しているのは確実だ」


「なんで?」


「この世で唯一の歪の魔法使いだろうが。他と違いがあるとしたらそれしか思いつかねぇ。そんでどうして喰わない理由を隠すのか。それは、人喰い魔女にとって隠し事をバラすのは致命的だからだ」


「それは、似たような事はニアも言ってたよ。記憶を取り戻せば、わたしはニアを殺せるって。記憶が戻ればその理由も分かるって」


「本当に殺してほしいならさっさと理由を話せばいいだろうが。だが、ヤツはそうしねぇ。歪の力にどんな秘密があるかは分からねぇが、てめェを騙し続ける理由なら俺にも予想はできる」


「……どういうこと?」


「てめェを騙し続けるのは、どうしてもひずみの魔法が欲しいからだ。これまで一千万人も喰ってきた人喰い魔女がだぞ、てめェだけは喰わなかった? 違うな。喰えなかったと考えた方が自然だ。歪の魔法に秘密があるのも間違いねェ。この世で唯一、自分を殺せる存在だと人喰い魔女本人も認めてたがよォ。好き放題人間喰ってた人喰い魔女にとっては、てめェは初めて出会った驚異でしかねェだろうが。それなら排除してェと考えるに決まってる。記憶を失っている今の内に、今後同じ力を持った人間が出た時のために、どうにか力をものにしてェと考えるのが自然だ」


 今までは冷静に話を聞けたけど、そのセリフにはカチンと来た。その言い方ではまるで。


「ちょっと、それってまるで、ニアがわたしを喰おうとしてるみたいに聞こえるんだけど」


「その通りさ、チビネラ。歪の魔法の秘密については予想しか言えねぇが、これはハッキリ言えるぜ。人喰い魔女は確実に、てめェを殺す。いや、喰うつもりだ。澱だけじゃなく、てめェの命とその力まるごとな」


 また、頭の中にメラメラと小さく火が立ち始めた。

 わたしを殺す? 喰う? コイツはまだ何も分かってない。むしろわたしを食べずにオリで人喰いの食欲を抑えたほうが、ニアにとってはずっと良いはずだ。いずれ死のうと思っているのなら。


 ニアを信じるわたしと、一切人喰い魔女を信じないコイツとでずっとすれ違う感覚。やっぱり協力なんてできそうに無い。


「何を根拠に、そんなこと……」


「根拠はあるさ。証拠もある。まずてめェは人喰いってもんを分かってねぇ。やつらがどうして食欲に飲まれるか分かるか?」


「そんなの、人間を食べなきゃ生きていけないから。それ以外にある?」


「全然違うな。人喰いは確かに人間を食うが、別に人間以外の動物や植物を喰ったって生きていけるんだぜ」


「え?」

 そんなの、知らなかった。てっきり人間を食べなきゃ生きられないから、襲ってくるのかと。


「考えても見ろ。てめェと住んでる人喰い魔女は、普通に一緒に飯食って、それでずっと生きてんだろうが」


「あ」

 そうだ。ニアはわたしと出会ってずっと、人間を食べていない。もう十日ほど絶食している事になるが、それで生きていられるのか?

 と、少し考えて気付く。それは別に不自然とは言い切れない。


「いやでもそれは、わたしのオリを食べてるからで、それで栄養を保っているから」


「澱とやらに栄養があるとはあまり思えねェがな。とにかく人喰い魔女に限らずだ。どの人喰いもそうなんだよ。奴らが毎日人間を喰わなきゃ生きていけねェなら、とても食事が足りねェ。ほとんどの人間は魔法使いの近くで生きているんだぜ? この街みてェにな。人間を積極的に狙って来る人喰いは、大体魔法使いに駆除される。たまたま喰われるのは人が単独で移動中出くわした時や、魔法使いが居ねぇところに住んでいて、襲われた時くらいだ。人喰いはあれで賢いからな。魔法使いに守られてねェ人間を狙う。例外として人喰い魔女みてェな大物が街に現われりゃ、魔法使いごと喰われるがな」


「……ふぅん」

 なんだ? ということは、ほとんどの人喰いは好き放題毎日人間を食べられる訳じゃないってことなのか。

 そしてそれ自体は生きるのに大して問題じゃなく、普通の生き物と同じように、植物や他の獲物を食べて過ごしている。


「じゃあ、どうして人間を食べることをやめないの? 食事が他にあるのなら、もっと他の、楽に食べられる獲物を狙えば……」


「ヤツラにとって人間てのは極上の味なんだよ。要するにウメェから食べる。他のどんな食事よりオイシイから、どうにか人間にありつこうと狙ってくるのさ」

 ……オイシイ食事を食べたいという、その気持ち自体は分かるけど。そのご馳走が人間であることに、おぞましさを感じる。


「……まぁ、人喰いにとって人間がご馳走だから食べるってのは分かったよ。でも、それが何? 生きるのに必要じゃないのなら、ニアがわたしを食べる理由なんてそれこそ無いじゃん」

 そうだ。ただオイシイから食べると言うのなら、ニアが正気を保っている今はなおさら人間を食べようなんてしないはずだ。

 だって、彼女はもう人間なんて食べたくないと、そう言っているのだから。


「それもチゲぇな。人喰いがよォ、幸せな人間を狙って食う話はしたよなァ。ご馳走と言っても、俺達が想像するようなご馳走じゃねェ。人喰いにとって人間は、正気を失うほどウマいって事だ。それを味わうためなら、人喰いはなんだってやる」


「正気を失う程の……」

 それは確かに、覚えがある。食欲に飲まれたあの、暴走した時のニア。あれは完全に正気を失っていた。


「心当たりあるな? 珍しいケースだが、人間が人喰いに目覚めることもある。俺もそんな人喰いに出会ったことがあるぜ。ソイツが言うには、人間を食べた時のウマさといったら、口で味わえる限界を遥かに超える。倫理観だとか、それまでの人生で得た道徳なんざ全部消え去って、人間を喰うことしか考えられねェ程にウマいらしい。何を置いても、例え命がけになっても、相手が自分の恋人だろうが、親だろうが、子供であろうが関係ねェ。人間を味わうためならなんでもするって程に、ウメェんだとよ」


「……」

 子供や、親なんて言葉が出てゾッとする。スレイの前に現れたその人喰いとやらは、自分の家族を食べたのだろうか? なんで、人間だけがそんなにウマい? なんで他の生き物じゃ満足できない?



「分からねぇって顔だな。俺がその元人間の人喰いに聞いた事をそのまま教えてやる。人間の味ってのはこうだ。喰われた方がそれまでの人生で感じた全ての幸せ、喜び、興奮、快楽。とにかく前向きな記憶全て。そうして満たされた命、つまり心が豊かなやつほどウマくなる。そいつが人生で得た感動が余すこと無く再現されて、五感すべてで味わえる。舌どころか全身を旨味で満たす。そいつの人生のあらゆる幸福が凝縮されて、純粋になって一度に味わえるんだとよ。そりゃあ、ウマいに決まってるよなァ。そんな美味は誰も味わえねぇ。幸せな人間ほどウマくなるって理屈も、納得だ」


「あらゆる幸福が、一度に」

 それは、想像しても追いつかないほどの美味だろう。

 今までの事を思い出す。仮に、ニアと築いたあの幸せな時間が一度に訪れたとしたら。


 記憶を失くして孤独に膝を抱えていた時、凍えた身体を溶かしてくれたあの温かさが。人喰いに襲われて絶望していた時、一瞬でわたしを救い出して甘やかしてくれたあの優しさが。わたしが間違いを犯した時、すぐに許してくれたあの安心感が。一緒に寝ている時、肌に感じたあの柔らかさが。街でケーキを食べた時、ニアの指先にあったあの不思議な味が。欠けた思い出を自覚して悲しくなった時、魔法ですぐに埋めてくれたあの喜びが。ニアが泣きそうになっていた時、美しくきらめく瞳を見たあの感動が。辛い思いでいっぱいになった時、ニアの胸で心が癒やされていったあの心地よさが。プレゼントを買いに来た時、ワクワクしたあの昂りが。ニアに食事をさせた時、身体の奥に生まれたあの、快楽が。他にもたくさん、たくさんの幸せがあって。


 それらが全部凝縮されて、純粋になって、一度に全身で感じられたとしたら。

 それは確かに、とてつもないオイシイ味になるのは違いなくって。



「……あ、ああああ」


 そこまで思い出して、スレイの言わんとしている事に気付いた。

 産毛がすべて逆立って、皮膚の下を足の多い虫がウゾウゾと這い回るような不快さを感じる。

 嫌だ、そんなの絶対信じたくない。違う、違う違う違う!


「気付いたかよ、チビネラ。てめェがずっと人喰い魔女に優しくされていた理由はな」


「うるさい! そんなの違う! そんなのスレイの勘違いだもん! ニアはそんなんじゃない。ニアはわたしが特別だからなの! 自分よりわたしが大事だからって、言ってくれたもん!」

 わたしが一番大事だって、確かにそう言って。


「そりゃ、大事だろ。手間がかかってんだからなァ。そのままじゃ何か理由があって喰えねぇが、じっくりと調理できるなら話は変わるだろうが。ひずみの力が発現しねぇよう完全に信用させてやりゃ、いずれは喰えるって考えだ。そのために記憶を奪って、てめェを一人ぼっちにして、代わりに幸せな記憶ばかりを与えた。気を使って、面倒見て、傷つけばすぐに癒やしを与えて。隠し事をして手元に置こうと騙し続けた。それもこれも全部」


 止まれ、とまれ。スレイが喋るごとに、お腹の奥がグチャグチャに刻まれる。

 こんなに憎らしい口がこの世にあるなんて。人喰いのものより醜くいびつなその口は、殺気を込めた視線を受けてなお動くのを止めない。

「違うって、言ってるでしょ。もういい、それ以上喋んないで……」


「――それもこれも、全部」


 グラグラと足元が揺らぐ。自分自身どれほど形相を歪めているか分からない。そんなわたしの顔を見ておきながら、それでもスレイはあっさりと言いきった。


「全部、てめェを食べるためだ。人喰い魔女にとっての、極上のご馳走として仕込むためなんだよ」


 ブツッと、目の前を水平に赤い線が走った。


「喋るなぁぁぁ!」

 "歪な自己愛グルームグリム"で右手を鋭い爪に。椅子から勢いよく立ち上がり、汚い口に向かって真っ直ぐに切りかかった。

 しかし、スレイはそれを苦もなくかわし、足を軽く引っ掛ける。勢いに押されて前へと転ばされた。

「あっぐ!」

 ドスンとお腹が地面に打ちつけられる。立ち上がろうとして、力が入らないことに気付く。もたついている間に、心の中にいた優しい顔をしたニアが、舌なめずりをする禍々しい表情の人喰いへと変わっていく。


「あぁ、違う、違うぅ」

 頭の中は怒りでギンギンと痛むほどなのに、手足が動いてくれない。


 あたりの景色は灰色に染まって、色づくものが何もない。世界のどこまで行っても、もう綺麗な物はどこにも残っていないような、そんな絶望がわたしを包む。


「あぁぁぁ。ニア……ニア……」

 まだ、信じきれない。きっと何もかも間違えてる。スレイの話も、わたしのこの、妄想も。あのニアがくれた温かい気持ちだけがきっと、確かなのに。


「で、だ。だからてめェは何も悪くねぇ。何も知らなかったわけだし、気付かないのも当然だ。騙されちまってるのも理由があんだよ。証拠もあるッつったよな。てめェに教えられる事、最後の一つだぜチビネラ」


 スレイの宣告に絶望が深まる。これ以上、何がある? こんなの耐えられない。もう身体はまともに立てもしないほどなのに。これ以上わたしから何を奪おうと。


「人喰い魔女ってのはよ。あらゆる魔法をきわめてる。十万人の魔法使いを食ったわけだからな。そんで、この世には『魅了の魔法使い』ってのもいる」


「嫌。しゃべるな……しゃべるなァ……」

 魔法の名前が、こんなにおぞましく聞こえるなんて……想像したくない。もう嫌だ。逃げなきゃ、心がバラバラに切り裂かれてしまう。なのに手足はどこも言うことを聞いてくれない。


「本来なら人喰いに魔法をかけて、魅了して、術者にベタ惚れさせるって力だ。なんでも言うこと聞かせちまうって魔法だ。そんで当然人間にも使える。たまに人間に悪用される魔法だからなァ。そんな魔法だから、魅了の魔法使いってのは誰もが忌み嫌う力なんだが」


「うあぁぁ……」

 涙さえ出ない。心が乾くと、身体も同じように乾いてしまうのだろうか。わたしの中にあった大事な物は、水と一緒にどこかへ消えたのだろうか。


「そんな事、人喰い魔女には関係ねェよな。ネーチャンが人喰いの魔女だと知って、どうしてまだ信じちまえるのか。どうして一緒に過ごして間もない相手に、それほど特別な感情を向けちまうのか。そんな疑念さえも湧かなかったんだよなァチビネラ。こんな俺が珍しく、誰かを哀れに思うぜ」

 決めつけるように、言わないで。哀れに思うなら、もう苦しめないで。お願いだから、黙って。もう追い詰めないで……。


「魅了の魔法はよォ、魔法をかけたところに魔法印が出る。ハートがあしらわれた模様のやつだ。知らないだろうがな」


「ない! そんなのわたしの身体にあるわけない!」


「嘘つけよチビネラ。知らないにしても、ここまで来たら心当たりあるだろうが」


 考えたくないのに、思い出してしまう。

 見える場所にはそんな魔法印なんて無い。けれど、自分の身体だって全身くまなく見えるわけじゃない。


 ニアは食事の時いつも最後に、ある部分にキスをする。途中気を失って分からない時はあったけど、必ず最後はキスをする。

 オリを食べた後の仕上げとして、魔力がもれないように蓋をするんだと彼女は説明していたけれど……。


「見せてみろ、てめェのその長ェ髪の中。首筋の後ろだぜ。いつも人喰い魔女はそこに……」

 スレイの手が、髪に触れる。

 思えばいつもニアは、わたしの髪を半分だけ上げてお団子にして、半分は下ろしていた。それがカワイイからって、こだわりなんだって言っていたのに。

本当は首筋の裏を、隠すためだったとしたら。


「見るなァ!」


 振りほどこうと暴れた。けれどスレイの力には敵わない。ぐいっと、腕を捕まれ無理矢理に起こされる。地べたに座るような格好で、手に持ったものを見せつけられた。


「大人しくしろ。鏡で見るだけだ。オラ、分かるだろ。チビネラ?」


「嫌、いや」


 スレイが持つのは銀色のナイフだ。光るほどにしっかり研がれ、横腹の平たいところにわたしの顔が反射して見えている。


 そして髪をまとめてどかされた首筋の裏、もう一本ナイフが生み出されて、合わせ鏡のように反射して。


「これが、てめェに教えられる最後の一つだ。人喰い魔女が最後にてめェを食べるっていう、その証拠だ」


「あぁ――ァ――」


 どれだけ視界が灰色でも、それだけはなぜかクッキリと見えてしまった。分からないほうが良かったのに。こんなもの、知りたくなかったのに。


 ナイフが反射して見せたのは、明るいピンク色の、ハートのあしらわれた模様の魔法印。


 ニアが、人喰いの魔女が『魅了の魔法』でずっとわたしの心を操っていた、無意識に惚れさせていた、騙し続けていたという、これ以上無い証拠だった。

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