人喰い魔女の子守唄 ~世界最強で甘やかしなお姉ちゃんはわたしを喰わなきゃ生きてけない~

たまわり小毬

第1話 ニアとフィオネラ

 花園の外に出たのは間違いだった。


 追いつかれないよう、できるだけ細く木の多い道を選んで駆け抜けていく。背後からは獣の荒い呼吸と、巨体が地面を踏みつける音が、こちらを脅すように迫っていた。


 森の中を入り組む小道は、邪魔なものが多い。突き出した枝や剣状の葉が肌をかすめ、いくつか小さな切り傷を作った。わずかに血を滲ませながら、空気に触れるたびピリピリと痛む。悪路を走り続けて呼吸はずっと不安定だ。喉元に迫るツバを飲み込むと、一瞬息が止まって胸を余計に苦しくさせた。


「ハァッ……ハっ…………あッ!」

 つま先が、地面から浮き出た木の根っこに突っかかり、身体を前のめりに傾かせた。心臓がバクンと大きく跳ねて、促された血が頭の中をぐるりと巡る。


 体勢を持ち直そうと目が集中し景色をスローにする中で、わたしはニアの言いつけを破ったことを強く後悔していた。


「いいフィオ? 花園の中なら人喰いは入ってこれないから安全だよ。だけど、花園を囲む生け垣から外に出たら、まだたくさん人喰いがうろついてるわ。絶対、一人で外に出ちゃダメだからね?」


 右足を強く踏み込んで、倒れかけたところをかろうじて持ち直す。勢いは止めず、もつれそうな足を無理やり早めて、姿勢を立ち上げていく。たとえ身体にどんな無茶をさせても、今だけは立ち止まっている暇はない。

 花園から出て、それほど遠くまではうろついてない。もう大分走っているし、ゴールは近いはずだ。


「ハッ、ハッ! もうすぐ、もうすぐのはず…………」


「ブオオォォォ!!」

 花園までの残りの距離を予想していると、ビリビリと空気を震わす雄叫びが飛んできて、暴風のように背中を叩いた。


 足がすくんで立ち止まる。早く逃げろ、逃げろと思いながらも、振り返るのを止められない。


 元はおそらくクマかなにかだろう。その『人喰い』は、身体を普通のクマより一回りも二回りも大きく発達させて、筋骨の隆起をクッキリと浮かび上がらせていた。長く薄汚い体毛は、その繊維を刃物も跳ね返しそうなほど靭やかなものに変化させ、怒るようにザワザワと逆立ち揺らめいた。唇は獲物を喰うのに邪魔なのかどこかへ消えて、むき出しになった歯茎からは異様に伸びた牙が上下から二本ずつ突き出している。雄叫びを上げた時、よほどヨダレでも飛ばしたのか、牙の先端からはヌラヌラとした粘液を滴らせていた。鋭さをそのままに膨れた爪は、一本一本がバナナの倍ほどの大きさになっており、その手に刃物の房を実らせたようだった。


 人喰いは、食べた人間の数に比例して見た目を醜くイビツに変えるとニアは言っていた。それならこの人喰いはもう、相当な数の人間を喰っている。


 大きく、太く変異した腕を人喰いが振るうと、お互いの間に立つ木を邪魔だと言わんばかり、一薙で簡単に刈り倒してしまった。太い幹が破裂する音と、倒れる木の風圧が顔まで届く。


 その腕力に、冷や汗がドッと吹き出す。人喰いは想像よりも近くまで迫っていた。お互いを遮るものが少なくなり、人食いと正面から目が合った。



 人喰いの一番特徴的なところは、この赤い目だ。


 大きく肥大化した目は、食欲に燃えるように、赤くギラギラときらめく。そうして求める獲物は、熱の通った血の巡る、生きた人間なのだ。


 その瞳の奥に映し出されたわたしは、目の色と同じ赤に染められていて、まるで人喰いに、血まみれの姿を宣告されたようだった。


「グォオオオオオ!」

 獲物を認めてより食欲を強めたらしい。人喰いはもう一度大きく吠えると、舌なめずりしてこちらへ歩みよった。

 このままでは、花園へたどり着く前に追いつかれる。その牙がわたしの身体へ深く突き刺さるところが思い浮かぶ。


「フゥ……ッ! フゥ……」

 生き残るため。ためらっている暇はなかった。左手を側の大木に添えて、魔力の流れをイメージする。

 手首の脈打つところから、五本の指の先へ。その指先の触れる大木へと魔力を押し流して。


「グオ"ォォッ!」

 人喰いが駆け出した。


ゆがめ……ッ!」

 樹皮の網目にそって、魔力が黒い血流のようにドクンと迸る。自然がその在り方を歪めて蠢き出す。

 大木が、バキバキと乾いた音を立てながらその身を捻らせて、ムチのように大きくしなり人喰いの鼻先を打ちつけた。


 ベキンと何かが砕ける音。それが人喰いの骨を砕いた音か、木の折れる音かは分からなかった。


「やった……当たった……!」

 ニアに何度か教わって練習してはいたが、わたしの『ヒズミの魔法』はまだ不安定で、それにリスクがある。狙い通りに使えることは少ないし、勝手に使ってはいけないとも言いつけられている。


「ゴフッ……! ブルル……」

 人喰いがフガフガと何か唸っている。見ると、どうやら大木を牙で受け止めたらしい。自慢の2本が突き刺さり、抜くのにかなり手間取っている。

 あれだけの巨体だ。ダメージを与えることは難しそうだけれど、少なくとも時間稼ぎにはなっていた。


 出口に向かって再び走り出す。逃げながらも右手、左手と交互に木に触れて「ヒズミの魔法」をかけていく。そのたび黒い魔力が迸ると、木々は自然ではありえない曲がり方をして、わたしと人喰いの間にいくつか☓の字で壁を作り出していった。


 人喰いが爪を振るえば簡単に薙ぎ払われるだろうが、追いかけるその足は確実に緩む。あの人喰いが四本脚で走り続けたなら逃げ切れないけれど、爪を振るうたび前足を上げれば、そのスピードはグッと落ちる。


 対してこちらは前だけを見て走ればいい。後方から響く巨体の足音と、木を薙ぎ払う音。それらと確実に差を広げていくのが耳で分かった。


 そうして夢中で走り続けると、林の隙間に明るく開けた場所が覗いた。

 花園を囲む草原だ。ゴールが近い。



 息をスゥッと大きく吸って、一気に駆ける。森の終わりの茂みから勢いよく抜け出した。薄暗く草木と土の薫る場所から一転して、白い花咲く生け垣が横に長く続く景色が広がって、わたしを迎えた。


 ニアの話していた、花園を守る白い花の生け垣だ。その中にさえいれば大丈夫だと、ニアは繰り返し教えてくれた。だからこそ出てはいけないとも、何度も言われていたのだけれど。


 とにかく、わたしと違って一人前の『魔法使い』であるニアの言うことだ。見た目は頼りない生け垣でも、『人喰い』を退ける力があるのは間違いなかった。


 ちょうど良く、正面には小さな門が取り付けられている。そこを超えてしまえば助かる。人喰いの姿はまだ見えない。これなら、間に合う。


 いまだ呼吸を荒くしながら、しかし胸の息苦しさはストンと落ちるように消えていき、安心感に足の裏が浮き上がるように軽くなった。


 そのまま門に向かって一直線に走る。そこに手をかけるまであと十歩もない。


「グォオォォーーオオオ!」

 その時、森の方からひときわ激しい雄叫びがした。助かると思って油断していた分、驚きは大きく、肩がビクリと跳ねる。

振り返ると、わたしの両腕じゃ半分も抱えきれないような太さの木が、荒く切り裂かれたその断面をこちらへ向けて、凄まじい勢いで目前に迫っていた。


「……ぅわああぁぁっ!」


 身体が一瞬固まって、叫び声さえ一拍遅れた。

 何かを判断する隙間はなく、とっさに右手を突き出して、魔力を全開に巡らせる。


 右腕全体を黒い魔力が迸り、同時に、大木が指先を突いた。


 衝撃に飲み込まれて、身体は吹っ飛とばされていた。景色がグルグルと訳のわからない程に回転して、全身どこともなく打ちつけらる。


 間近に見える草の根と、空の青と、白い花の生け垣、うす汚い毛むくじゃら。




「ふっ……うぅ……」

 気付くと転がり終わって、わたしは仰向けに倒れていた。

 全身に打撲の痛み、口の中には勝手に飛び込んできた土に、鉄が少し混じったような味がした。苦いそれらを吐き出して、顔を上げる。


 さっきまで立っていたところには、大きくえぐられた地面の窪み、その近くには大木が横たわっている。大木の幹には、何かで削られた跡が残っていた。ちょうど、わたしの指先と交差した辺りだ。


「くっ……いったぁ…………」

 所々、骨が軋むのを我慢しながら身体を起こす。まとめてもらったお団子結びは、いつの間にか解けてしまっていた。


 赤毛の長い髪が垂れてきて、カーテンのように揺らめいた。地面をつく左手は、大人のものと比べてまだ小さく、水を汲むのにも頼りない。ニアにせっかくあつらえてもらった長袖の黒いローブは、ボロボロに裂けたり汚れたりしていて、その事が喉の奥をキュウッと切なく痛ませた。


 そして問題は、ローブの大きく裂けた袖の、そこから伸びる右の腕。わたしの右腕は本来の形をほとんど失くしてしまっていた。

 本来の、大した力もない細い腕などではなく、まるっきり化け物じみた醜いものへと、変化していた。


 それは、人喰いの腕に近かった。バナナほどに太って鋭い爪を、房のように実らせた手。筋骨の発達した、うす汚い毛むくじゃらの腕。ただ本物の人喰いと違って、力を込めても思い通りには動かせず、指先をピクピクと痙攣させるだけの役立たずなものだ。


 人喰いの方も、異変に気付いたようだ。警戒するように睨みつけていて、すぐには近寄って来ない。


「はっ、はっ……そのまま勝手に、警戒しててほしいところだけど……」

 しかし、まともに動かせもしないなんて。とっさのこととは言えこれは大失敗だ。


 大木に対抗できる強い腕にしようとして、真っ先に思い浮かんだのがあの人喰いの腕だった。実際、わたしを追いかけていた時は、その腕で木を薙ぎ払っていたわけで。

 魔力を全開にして発動した際、「ヒズミの魔法」はそのイメージ通りの形に、わたしの腕を歪めてみせた。イメージ通り、頑丈だったのだけは助かったが。おかげで命を拾ったみたいだ。


「くっ、お、重いぃ……」

 姿勢を変えようとして、尻もちをつく。右腕が重くて動きづらい。思い通り動かないのは、魔法が不完全だったからだ。


 もう一度、意識を集中させて元通りにしようとするが、ここまで歪めてしまったのは初めてでうまくいかない。一度ピンチを凌いだは良いが、これではまともに抵抗することも難しい。人喰いが再び襲いかかってくれば、次こそ助からないかもしれない。



「生け垣さえ、ここさえくぐれれば……!」

 幸い、花園を守る生け垣は近い。足で歩けたら五歩くらいの距離。右腕が重くても、そのくらいなら移動できる。


 なんとか身体を起こして、中腰のまま生け垣の方へ後ずさる。右腕は持ち上がらないので引きずるような格好だ。こちらの不利を悟られないよう、睨みつける目に力を込めた。


 それに対し、人喰いもゆっくりとこちらへ距離を詰めだした。

 様子見だろうか、と思ったが、どうも違う。

 その歩みの計算された早さに、背筋が凍る。


(まずい……)

 こいつは、白い花の生け垣がわたしのゴールであることに気付いている。


 一見すれば、人喰いに対し無力な、普通の生け垣のようだけれど、これには魔法使いであるニアの魔力が間違い無く込められていた。中に入ればもう人喰いから手出しはできない。


 人喰いがそれに気付いたのは、野生の直感というものだろうか。こちらの様子を見ながらも、生け垣には逃げ込ませないよう適度な歩幅でこちらへ詰める。狩りをする獣というのは、こんな思慮深さを見せるのか。ひょっとするとそれは人間の知恵と比べてもいい勝負なのかもしれない。


 その獣の思考が今、わたしを食べるため巡らされていることに、ゾッとする。



 不意に、人喰いが小走りするような動きを見せる。

 ギクリと気が焦り。一歩大きく身体を引いた。身体の重たい右半分が遅れる。


「うわッ!」

 変化した右腕の爪先が、石に引っかかった。重心がガクンとブレる。

 予想外のことに混乱し、足がもつれた。再び尻もちをつきながら後ろ向きに倒れてしまう。

 同時に、ゴフッと鼻息を鳴らす音。人喰いがこちらのスキを見逃さず、地面を蹴って駆け出した。


「っく!」

 顔を上げて辺りを確認する。生け垣がまだ遠い。

 人喰いのスピードは想像以上に早い。間に合わない。どころかこれは、立ち上がる前に追いつかてしまう。

 片膝だけついて、役に立たない右腕は肘を直角に身体の支えとして。


「歪めッ!」

 残った左手を突き出して『ヒズミの魔法』を練り上げる。

 他の魔法と同じように、手首の脈打つところから、五本の指の先へ、今度は手のひらをできるだけ広げて、球体をイメージする。

 最初はシャボン玉のようなものが作られて、その向こうに透ける景色が渦を巻いて歪められていく。そのうち色がゴチャまぜになると、シャボン玉はブルンと震えて、手のひらサイズのヒズミとなった。魔法で作り出した、歪みの塊だ。


「止まれぇエエエ!」

 ボールと同じ投げ方で、歪みの塊を人喰いの顔面めがけて放り込む。

 それが人喰いの左のつらにぶつかると、瞬間その肉を渦のように巻き込み歪め、一度大きく膨らんで、バヂンッと、空気の弾ける音と共に炸裂した。

 肉の赤や、毛の黒が、小さい花火のように飛び散った。


「……オォ! ブォオオオ!」

 しかし、人喰いは首より上をのけぞらせながら、一瞬足をもつれさせただけで、そのスピードをほとんど緩めない。

 顔の左半分が赤黒く染まっているのに、見た目よりダメージが通っていないようだ。


「痛くないの……!? このッ!」

 もう一発、歪みの塊を作ろうと構える。

 すると人喰いは大きな手で地面をえぐり、こちらへ向けて大量の石と土を弾き飛ばした。


「うあッ!」

 穴掘りも、あの巨体でやれば強烈だった。


 土の雨をかぶりながら、その中に交じる大きい石がわたしの額に直撃した。

 耳鳴りがして視界が白む。 

 頭は生き延びるため、これまでに無いほど回転を早めた。しかし力も使いこなせないわたしには、元々役に立つ手札が少ない。そしてさっきの歪みの塊はとっておきだ。あれ以上強い魔法は使えない。何より時間が足りない。


 まずい、まずい。打てる手が浮かばない。


 白んだ視界に、額から垂れ込んだ血が滲む。赤く染まるその向こうから、人喰いが足音を派手に踏み鳴らしつつ迫っていた。


「いや……」


 瞬きすると、既に人喰いは目前に距離を詰めて、その腕を勢いのまま振り上げていた。


 反射的に左手で顔を防ぐ。わたしの身体が引き裂かれる、確かな予感がした。


 人喰いが、獲物を仕留める喜びに赤い瞳をキラめかせ。


 そして鋭い爪の束が、容赦なくこちら目掛けて振り下ろされた。



「助けてェ! ニアァァァー!」


 その瞬間、花園の方から突風が駆け抜けた。閃光が目を焼いて、思わずまぶたを強く閉じる。同時に、ゴオォンという、鉄の塊を激しくぶつけ合わせたような音。


 しばらく肩をこわばらせていたが、爪が身体を引き裂く痛みは、いつまでたっても訪れなかった。






「…………………………?」

 さすがに不思議になって、ゆっくりと目を開く。

 死んだ、と思った。絶対に。


 しかし気が付くと、人喰いは森の方へと吹っ飛んでいた。

 その人喰いの半身は、左胸あたりから大きな円で削ったように消え去って、もうピクリとも動かなくなっていた。


「なに、が……」

 何が起こった?

 身体を確かめても大きな怪我はない。無事だ。助かった、のか?

 とにかく生きている、という安心が半分。理解の追いつかない状況に、恐怖が半分。あたりはもう静にかになっていたけれど、神経が警戒するように昂ぶって治まらない。


「遅くなってごめんね。フィオネラ」


 今度こそ、安心に胸が満たされる。

 さっきまでの混乱で、ジィンと熱くなっていた耳の裏を優しい声がするりと撫でた。


 花園を振り返り、その姿を確認する。

 白い花の生け垣が道を譲るように左右に割れて、その奥から女性が一人、歩み出た。


 綺麗な人だった。

 大人の男性と同じか、やや高いくらいの長身に、細い胴。歩く姿に気品を溢れさせていて、羽織るシンプルなローブがそれを一層際立たせた。後頭部の低い位置で束ねられた髪は大人らしくて、見るたび憧れの感情を抱かせた。瞳の色は明るい青をして、なのにその中心は怖いほどに暗い。まるで目玉の中に、海を深層まで閉じ込めてしまったように思えた。そして、整った顔をホッとしたように和らげながら、彼女は、『花の魔法使い』ニアは、そこに在った。



「生きててよかった。本当に。勝手に出ていくなんて、私、すごく心配したんだからね」


 安心したような、でも少し怒っているような、そんな声色でニアが言う。

 目の前まで来たところで膝立ちになり、両手を広げて迎え入れてくれた。


「こんなに怪我しちゃって。痛いでしょ? ほら、こっちおいで?」

 甘えて良いよと、誘ってるみたいだ。飛び込もうとして、ためらった。


 見つかってしまった。本当ならこの外出は、ニアにバレないように始めたはずだった。

 言いつけを破って勝手に花園を出てしまったし、あつらえてもらったローブもボロボロにした。全身土まみれで汚いし、助けてもらったお礼も今言うべきか。後ろめたいことが多すぎる。

 何より、右腕が化け物みたいに毛むくじゃらで気持ち悪い。気味悪がられるんじゃないだろうかと思って、戸惑ってしまう。


 もじもじしていると、ニアがこちらへ傾いて、醜く歪んだ右腕ごとわたしを抱き寄せた。

 まるで、そんなのはなんてこと無いよと言うように。


「怖かったね。ビックリしちゃったよね。よし、よし。もう、終わったからね」

 ハァッと、ため息が漏れる。同時に力が抜けていって、それまでまだ身体が強張っていたのに気付く。

 ほどけてボサボサになった髪の毛を、大人の手のひらが撫でつけていく。指先がクシみたいに毛をとかして、くすぐったさに背がブルリと震えた。

 口のあたりは、ニアの大きくて柔らかいところに包まれていた。ふわふわとして、いい香りがして。あまりに気持ちよくて腰が抜けそうになる。

 崩れ落ちないよう、ニアの背中に左手を回してしがみついた。

 花の魔法使いから魔力がめぐる。触れ合ったところから次第に怪我が癒やされていく。大きい怪我から小さい怪我まで、跡も残さず塞がれる。


「もう大丈夫。大丈夫だからね」

 そう言ってニアは、再びわたしを深い沼の底からすくい出していく。

 行き詰まって、死にかけて。一人溺れて、どこまでも沈んでいっては身動きも取れなくなるようなところから。

 身を引き裂く暴力も、心を痛めつける絶望も、わたしを苦しめる何もかもをあっという間に消し去って。


 その温かい手と優しい声で、またわたしを、救い出してくれるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る