第36話 立冬 後編

 カフェには《CLOSE》の札がかかっていたが、かまわず結衣は扉を開けた。

「佳奈子さん、すいません」結衣はカウンターの奥に声をかけた。厨房からパタパタと音が聞こえ、エプロン姿の佳奈子が顔を出した。

「あら、今日はお休みでしょ?」

 戸惑う佳奈子を一瞥し、結衣はどう佳奈子に切り出せばいいか考えた。本当のことを話して、佳奈子は呆れないだろうか。バカにしないだろうか。そんな猥雑な感情が結衣の表情を曇らせた。


「すいません。ちょっと早く家を出すぎちゃって」

 嘘ではなかった。奥のソファー席に座る。体が重い。隣に果帆が腰掛けた。果帆が手元のスマートフォンをちらりと見ながら、横目で結衣を伺っているのがわかった。結衣はしかし、何かを話すことも、立ち上がることもできなかった。

 佳奈子は結衣たちを迎えたあと、またすぐに厨房に戻った。開店の十一時まで一時間以上あるのに、佳奈子はいつもこれくらいの時間には店にいるようだった。開店準備は佳奈子と修平の仕事で、大学が休みの時にオープンから働く時でも、結衣の役割はテーブルやカウンターを拭く程度だった。


 今頃はきっと修平とプリンの仕込みをやっているのだろう。泡立て器の音や冷蔵庫を開け閉めする音が厨房から漏れ聞こえていた。

「圭くんから返事来たよ。……《わかった》、だってさ」

「そう」

 圭が何に対してそう言っているのか、結衣は聞く気になれなかった。沈黙の時間は長く感じた。果帆はそれ以上のことは言わなかった。きっと結衣が何かを話すのを待っているのだろうが、それに応えることはできなかった。


 いつからこんなにも息苦しい感情を抱いていたのだろう。学園祭に参画することが決まった時だろうか。圭がインターンシップで仙台に行った時だろうか。圭と二人で仙台に行った時だろうか。それとも、圭と付き合い始めた時だろうか。

 まとまらない思考は果てがなかった。圭の表情、言葉、仕草、そのどれもが遠い日のように感じた。その姿は茫洋とした空のように捉えどころがなかった。頭に浮かぶのは霞の向こうに映るぼんやりとしたシルエットだけで、それが本当に自分の知っている圭なのかもわからない。どうして結衣はここにいるのか、どうして隣に圭がいないのか、どうして、自分は独りなのか——。


「ごめんね、プリンの仕込みがまだ終わってなくて」佳奈子がエプロン姿のまま厨房から出てきた。右手にドリッパー、左手にカップを抱えていた。ソファー席に着くと、コーヒーをカップに注いだ。湯気と一緒に立ち上る香りは、いつもと少し違う気がした。

「あと、さっき圭くんが来て、結衣ちゃんが来たら渡してくれって」佳奈子はそう言うと、エプロンのポケットからスマートフォンを取り出した。「ちょうど入れ違いになったのね。十分くらい前だったけど」

 佳奈子の声音には慎重さが滲んでいた。圭から多少の事情は聞いているのだろう。気づいていても、結衣は自分を言い繕う言葉も思いつかなかった。


「すいません。圭くんの部屋に忘れて、そのまま出て来ちゃったから」

 結衣はブラックアウトした画面を見つめた。ホームボタンを押せば、きっとたくさんの着信履歴やメッセージアプリの通知が並んでいるだろう。それを見る気にはなれなかった。どんな罵詈雑言が並んでいるか、それを想像することさえ恐ろしかった。

「そうだったの」

 佳奈子は圭について、それ以上は聞かなかった。佳奈子もきっと、結衣が自ら言い出すのを待っているのだろう。けれど、やはり言葉が見つからなかった。

 空気が硬くなる。佳奈子は無言のままカップにコーヒーを注いだ。果帆が佳奈子からカップを二つ受け取った。ひとつを結衣の前に滑らせると、果帆はカップの取っ手を掴み、そっと口をつけた。


「ブレンド変えたんですか?」果帆が顔をあげ、佳奈子を見た。佳奈子は嬉しそうに顔を綻ばせる。

「試しにね、ライトブレンドって感じで作ってみたの」

 佳奈子は不思議だ。その笑顔が硬質な空気を柔らかく穏やかなものに変えてしまう。結衣もつられてゆっくりとカップを口に近づけた。鼻腔をくすぐる香りは柔らかかった。確かにいつも佳奈子が淹れているブレンドとは違っていた。普段店で出しているコーヒーはどちらかといえば重厚で焦がしたような深い香りがするのだ。


 一口飲んだ。苦味もあったが、それ以上に甘みを感じた。苦味もいつものそれと異なり優しい。これはいけない、そう思っているそばから鼻の奥がツンとして、結衣の視界が急激に潤んでいった。

「すいません」結衣は必死に涙を拭ったが、次から次へと溢れてくるそれを止めることはできなかった。声は涙に濡れ、呼吸が嗚咽に変わっていった。

 圭の淹れたコーヒーの味がした。二週間前、日曜日のこの場所で佳奈子からブレンドの仕方を習い、初めて圭が淹れてくれたコーヒーと、これはよく似ていた。圭のコーヒーはもっと荒削りだったが、それでもこの優しさは圭そのものだと感じた。


 圭は優しいのだ。その優しさに触れるたびに、結衣の心は満たされていった。そして貪欲になっていった。もっと欲しい。朝も昼も夜も、その優しさに触れていたい。そう強く思うようになっていた。

 それはきっと、このコーヒーのように溢れる優しさに溺れてしまった結果だったのだろう。圭に求めすぎた自分に、圭も応えてくれた。それがかえって自分の中のハードルを上げ続けるという結果を招いた。互いが互いの感情に溺れ、息ができなくなっていたのだ。

 離れてしまった心と体が軋んでいるようだった。その歪みが結衣の目からこぼれ落ち、テーブルを濡らしていた。


「結衣ちゃん、ゆっくりでいいから、コーヒー飲みなさい。息苦しさも少しは楽になるから」

 佳奈子の声が遠くから聞こえた。その声にすがるように、結衣は口元を覆った手を離し、震える手でカップを握った。沁みるような温かさが皮膚を通って結衣の中に入っていく。ゆっくりと唇にカップを添えて、少しずつ、琥珀色のコーヒーを飲み込んでいく。優しい味だ。佳奈子と圭の優しさだった。ついに自分が手に入れることのできなかった優しさだった。そう思うとさらに涙が溢れてきそうで、結衣はただコーヒーを飲むことに集中した。呼吸を落ち着かせる。喉の閉塞感が少しずつだが和らいできた。

 果帆が恐る恐る結衣の背中をさすっている。温かい手つきだった。独りなんかじゃない。結衣は独りだと悲観していたついさっきの自分を顧みていた。佳奈子のコーヒーが、果帆の手が、冷めていた心を温かく解きほぐしてくれる。佳奈子も果帆もいてくれるのに、自分だけがわがままを言っていても仕方がない。大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐く。それを繰り返し、ようやく涙は止まった。額に疼痛を感じながら、結衣はカップに残った最後の一口を飲み干した。


「結衣」

「ごめん。でも、ちょっとスッキリした」

 心配そうに覗き込む果帆に、結衣は笑いかけた。自分でも、ぎこちない笑顔だとわかった。果帆も硬い笑顔で応えた。今は、これが自分たちの精一杯だ。

 結衣は佳奈子から受け取ったスマートフォンの画面を立ち上げた。画面いっぱいに圭からの着信履歴が表示された。パスコードを入力してホーム画面を開く。メッセージアプリに通知が上がっていた。一度深呼吸をして、恐る恐る、圭からのメッセージを開いた。

「圭くん、なんだって?」

 果帆が結衣の肩に手を置いた。探るような声音が結衣の鼓膜を震わせる。圭の言葉を一言ずつ噛み締めながら、結衣はぽつりと言った。


「しょうがないよね……」

 最後は再び涙声になった。覚悟していた言葉の羅列は、しかし結衣の深い部分にまで突き刺さった。圭の綴った文字がみるみる歪み、途中から何が書いているのかわからなくなった。それでも、圭が自分から距離をおこうとしていることはわかった。それだけわかれば十分だった。

 冬がやってくる。圭が離れていく。それを止める手段を、結衣は知らなかった。

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