第29話 秋分 前編

 毎朝のことではあるが、髪をまとめるのが億劫だった。それなら手の込んだ編み込みなどしなければいいのだが、こればかりは譲れない気持ちもあって、結衣は慣れた手つきで梳かした髪を頭の横側からねじるようにまとめて、そのまま後ろに持っていく。アルバイトのない時は左側でひとえにゴムで留めるだけだが、カフェでは後ろの髪とまとめてアップにする。最初のうちは鏡を二枚使って悪戦苦闘していたが、ようやく鏡を見なくてもイメージ通りの形に仕上げることができるようになった。


 気づけばもう九月も後半に入っていた。来週には秋学期の授業が始まるというのだから、時間の経つスピードは想像以上に早い。あまりに早すぎて、油断すればすぐに取り残されてしまう。

 アルバイトの時間まではまだ間があった。朝食をとり身支度を済ませてしまえば、家にいる理由もなくなる。結衣はとりあえず部屋を出た。向こうに着くのが十時くらいか。胸中に呟き、カフェが開店する十一時までの過ごし方を考える。本屋にでも行って時間を潰そうか、それとも——。


 高田馬場駅は、祝日であっても朝から多くの人で溢れていた。ロータリーに群がる黒山の人だかりのひとりになり、信号が変わるのを待つ。ふと、今はここを渡る必要はないということに思い至る。意識をしないと、足は勝手に《カフェ・ラ・ルーチェ》へ向かおうとする。自分がどれだけあの場所を居場所だと感じているのか、それがよくわかる。

 結衣はひとつ息を吐いて踵を返し、人の垣根を通り抜け、駅前の商業施設の脇を抜けた。坂道を登る。


 これまでにも何度か行こうと思ったことはあったが、向かうのはこれが初めてだった。スマートフォンの地図アプリを呼び出し、おおよその場所の見当をつける。それにしても、今更どうしようというのだろう、とここへ来て逡巡する自分がいた。そもそも何を話せばいいのか、それさえ整理できていないというのに……。気持ちばかりが焦り、体がついてこない。それこそ油断をすれば体が坂の後ろに引っ張られてしまいそうで、結衣は慎重に歩いた。


 佳奈子が嬉々として学園祭の主催者と連絡をとってから二週間、すでに事態は大きく変化していた。佳奈子はひとつでも多くの店舗に協力を取り付けようと、大学に隣接する複数の商店街や商工組合に働きかけ、名乗りを上げた団体を多数引き連れてきたのだ。打ち合わせにやってきた学園祭実行委員の面々は、リストに連なる店舗の数と多岐に渡る業種に圧倒されていた。


 佳奈子の人望がなせる技か、それともみんな佳奈子と同じように、学生に恩返しがしたいのか。理由はともかく、主催者さえ驚くほどのスピードと規模で、佳奈子は動いていた。

 今日もきっと、カフェではその話し合いが持たれるはずだ。どうやら実行委員会の一員になってしまったようで、駅周辺の店舗の取りまとめ役を買って出たらしい。あれよあれよと世界は動いていて、本当に、光陰矢の如しとはこのことだ。


 足取りが重いのも、そうして知らず状況の変化に惑っているからなのだろう。それでも、だからこそこうしている、とも言える。地図と前の通りを交互に見遣ること数回、幾つかの路地を渡り、道が緩やかになった場所に、春菜の経営するカフェ《ハーベスト・ハート》はあった。

 ドアを開くと、甘い香りが結衣を包み込んだ。スイーツの刺激的な甘みではなく、もっと自然な、厳かな気配を漂わせた空気は、《カフェ・ラ・ルーチェ》とは違った温かさを持っているように思えた。


「あら、珍しい」

 カウンターから顔を上げた春菜が笑顔を向けた。

「おはようございます」

「コーヒーでいい?」春菜の声に、結衣は頷いた。空いているカウンターに腰掛け、周りを見回す。春菜の店はオーガニックコーヒーを主体にしていて、振舞われる料理もスイーツも、有機栽培の野菜や果物、遺伝子組換えでない食品のみを使った自然志向が売りだった。価格はその分高めだったが、最近の健康志向や環境志向もあって繁盛していると、佳奈子に聞いたことがあった。

「明るいんですね」

 間接照明に照らされた店内には観葉植物がいたるところに飾られていた。その緑と床や壁の木材はまるで——。


「森の中にいるみたいでしょ」結衣の思考を先読みするように、春菜が言った。「人間はどこまでいっても自然とは一緒になれないけど、何かを感じられれば……。そう思って」

「森の命、とかですか?」

「息遣い、伊吹、言い方は感じた人の数だけあるでしょうけど、そんなに大げさなものじゃない、もっと身近なつながり、かな」

「つながり、ですか……」


 あのカフェで佳奈子に出会ったことも、大学で果帆や圭に出会ったことも、そして春菜とこうして話していることも、それは等しくつながりだ。学園祭に協力することも、新しいつながりだ。それなのに、その現実を恐れている自分がいた。それが、独りよがりな感情に起因していることも、わかっていた。

「自然とつながっている。人間は何も、自然を超越した存在じゃない。孤独だと感じていても、寄り添ってくれるものはある。そう思っていないと、悲しいじゃない」

 春菜がコーヒーをカップに注ぐ。密やかに揺れるふくよかな香りは、佳奈子の淹れるコーヒーとはまた違うように感じた。山に登った時に飲むコーヒーはこういう香りがするのだろうか。


 結衣はカップを受け取った。くすみのない純白のカップに口をつける。苦味と酸味のバランス、コクと渋み、コーヒーに求められる味わいは人それぞれで、いつも佳奈子の淹れるコーヒーを飲んでいる所為か、結衣には少し物足りない気もした。オーガニックを前面に出している分、ブレンドに使っている豆の種類が少ないのかもしれない。ベースになっているコロンビアの甘みが引き立ち、すっきりとした印象だ。

「学園祭のこと、心配なんでしょ?」

「やっぱり、そう見えますか?」

「なんとなくだけど」

「自分でも、勝手な理屈だと思っているんですけど、このままだと——」


 春菜に促され、結衣は心の中に溜まった煩悶を吐露した。結衣の目を静かに見つめ、春菜は時折頷きながら結衣の言葉に耳を傾けていた。学園祭をきっかけにして動き始めた世界が結衣を翻弄している。取り残されないようにともがいているうちに、決定的な間違いを犯しているのではないか。

「わかってくれる、っていうのは乱暴でしょうけど、天秤にかけられるものじゃないでしょ。だったら、まずはちゃんと話してみること。悩むなら、それからでも遅くないんじゃないかな」


 カウンターに肘を立て、目を伏せながら話す春菜は、まるで春菜自身に言い聞かせているようだった。そんな風に思えること自体、自分が混乱し、困惑しているこということだろう。

「まだ、間に合いますか?」

「大丈夫。だって、始まったばかりじゃない」

 春菜の声が明るくなる。結衣は残ったコーヒーを一口に飲んだ。少し冷めて酸味が増した分、さっきより好ましい味わいになったと感じた。

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