6、 私の幸福な時間は

 その日から数日、結局彼は私をこの部屋から出すこともなく、ただパネルに向かい合いながら、ずっとなんらかの操作をおこなっていた。その間、彼は一度も私に語りかけてくれることはなかった。


 ――ああ、やっぱり私の思いは彼には伝わらなかったのだろうか。


 けれども。


『ここからキミを出すための準備が整った。これで、キミは自由だ』


 と、不意に彼は言った。


 なんだ、彼は私の思いを受け取っていないわけではなかったのか、と胸を撫で下ろす。


 どうやら、ここから私を出すためには、それなりの算段が必要だったようだ。よかった。ようやく外に出られる。そして、外に出られたのならば、彼と直接会話ができる。私の声を届けることができる。


『これからキミは、たったひとりで数年間の宇宙の旅をすることになるのだけれども、その間の孤独は我慢してほしい。実はこの建物自体が宇宙船なんだ。だから、キミはそのまま部屋の中にいてくれればいい』


 なのに、彼のその言葉に私は自分の耳を疑った。

 数年間の宇宙の旅? 孤独は我慢してほしい? この建物自体が宇宙船?


 彼の言っている意味がまったく理解できなかった。彼はいったい何を言っているのだろうか。私をこの部屋から出すだけの話じゃないのか。どうしてそんな簡単なことをするのに、数年間の宇宙の旅や孤独を経験しなければいけないのか。


 彼は、一度も私の顔を見ようともしない。


『キミの世話をするAIも搭載したし、本や映画の娯楽も、多く装備しておいた。それで暇は十分に潰せると思う。そうして数年をやり過ごせば、キミはあちらにたどり着ける。愛を求め続ける人類のもとへと』


 と、そこまで彼が言ったのを聞いて、ようやく私は理解した。


 彼は、私を宇宙の遥か彼方へと行った人類たちのもとへと送り出そうとしているのだ。彼が訊ねた『ここから出たいか?』の質問は“この部屋から出たいか?”ではなく“この惑星ほしを出たいか?”だったのだ。この地球上に存在する愛を見失った人類たちから離れ、愛を求め続ける人類たちのもとへと行きたいか、と彼は訊ねたのだ。


 ああ、なんて大きな齟齬そごなのだろう。私たちはもっとわかり合えていたと思ったのに。私たちは、ここから出たいか、という単純な言葉の意味でさえ共通理解を得てはいなかったのだ。


『キミが求めるものは、きっとあちら側にあるんだろう。そこで、キミはここでは得ることのできない幸福を得ることができるはずだ』


 なんて、彼はあまりに的外れなことを言う。


「私の幸福はそんなところにありはしない。私が求めるのは、ここにいる、貴方なのです」


 もちろん、私の声は届かない。それどころか、私のほうを見向きもしない彼は、私がこんなにも必死で語りかけていることにさえ気づかない。


『キミの幸運を祈っている。遥か彼方でキミが幸福になってくれるのならば、ここでの仕事を放棄した僕も報われる』


 いや、違う。遥か彼方に私の幸福なんてありはしない。彼が今、この部屋を開いて私の言葉をただ一言聞けば、すべては間違いだとわかるのに。


『むこうにはきっと、こんな無機質な地球上にはいないような、容姿も、人格も、才能も持ち合わせている、まばゆく輝くような人間が五万といるはずだ。キミならば、むこうでそんな人と出会い、幸せになることがきっとできるんだろう。それを、僕も望んでいる。さあ、行っておいで』


「いいえ、違う……違うのです。そんなものはいりません。私は、貴方がいいのです。貴方より眉目秀麗な殿方も、貴方より優しい紳士も、貴方より才能に溢れた御仁も、それらすべてを有している人も、私はいらない。そんな、出会ったこともない彼方で輝く一等星いっとうせいなんかに興味はないのです。宇宙の彼方にいるという、愛を求め続ける人たちが私になにを与えてくれたというのですか。彼らは、私の存在にすら気付いていないというのに。


 けれども、貴方は違う。貴方だけが、私に笑みを向けてくれた。なにも与えられることのない人生だったけれども、そんな私に貴方だけが与えてくれたのです。私はここで、この場所で私に微笑みかけてくれた貴方を好きに……愛したのです。私が幸福を得られる場所は天上天下てんじょうてんげに唯一この場所だけなのです。お願いだから……」


 彼は自らの間違いに気付かない。

 私の幸福はここにあるというのに。


『……ああ、せめて最後にキミの声を聞きたかったな』


 彼のその言葉に、視界がにじむ。小さな熱が頬を伝う。


『きっと、僕はキミを好きだったんだ』


 ――ああ、なんて不器用なヒト。


 ただその衝動しょうどうに身を任せてここを開けば、彼はに触れることが出来るというのに。


 彼は未だ、その役割に縛られている。それを投げ捨てることが出来たのならば、彼はもっと自由で。もっと自身の幸せを手に出来たはずなのだ。


 私と彼の幸福はこの薄いガラス一枚さえ打ち破ることが出来ずにいる。


 私の好きな人が私を好きだという夢のような奇跡も、こんな状況下で知らされたんじゃこの上ない悲劇だ。


『なるべく椅子に座っておいたほうがいい。これからこの宇宙船は少し、揺れるからね』


「……お願いだから、貴方の側に」


 当然、私の声は彼に届かないし、彼は相変わらず私の顔を見ようともしない。


「ねえ、このままもう永遠に会うことができないのなら、せめて私の顔を見て。私の顔をその眼に刻んで。焼き付けて」


 もうこのまま彼と再会することがないのなら、せめて彼に私のことを覚えていて欲しい。


「ねえ、お願い……」


 もはや声は震えて、うまく言葉をつむぎ出せない。


「……お願いだから」


 最後にせめて貴方の顔だけでも私に見せて、と言おうとしたけれども、それは音にならずにかすれてしまう。


 そうして、結局彼は一度も私の顔を見ることもなく振り返り、部屋を出ていった。それからしばらくして部屋がガタガタと揺れ始める。いや、この部屋ではない。この建物自体が揺れているのだ。まもなくこの建物は……この宇宙船は打ち上げられる。


 私だけを乗せて。


 見たこともない遥か彼方をゆく同胞たちの元へと向かう。けれどもその旅路に、希望なんてない。その先に、私の望むものなんてない。その果てに、幸福なんてありはしない。


 私は唯一、私が求める人がいるこの楽園を離れ、ただ、なにもない虚空こくうへと向かうのだ。


 轟音ごうおんとともに、強力な負荷が身体にかかる。床に押し付けられた身体は、動かすことなんてできない。床に伏せたままの姿勢での私の慟哭どうこくは、その轟音にかき消される。その状態が数分間続いた後に、浮遊感が全身を覆った。


 どうやら、大気圏を抜けたらしい。


 ――ああ、もう引き返せないところにまで来てしまったんだ。


 と、涙はいつものように頬を伝わず、球体となって空間に浮かぶ。


 エンジンの轟音は止み、まばたきの音さえもわずらわしい静謐せいひつが襲ってくる。


 この広大な宇宙空間に、たった一人の孤独。その不安に押しつぶされそうになりながら、私は膝を抱えて、丸くなって浮遊する。


 地球が、彼が離れていく。

 短かった私の幸福な時間は終わりを告げる。


『こんにちは。この先からは、私が貴方のお世話をさせていただきます』


 AIの平坦な声が船内に響いた。

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