第13話 置き忘れた追憶の彼方に



 ──畳の上に胡座をかいて、隣でゲームのコントローラーを握る少女の横顔を見つめていた。



 俺と同級生であるその少女は、このところ、高校を不登校気味にある。特に虐められているとか、嫌いな奴がいるとかいう理由ではなく、本人はただ、行きたくないだけ、とあっさりとした返答を返すのみだ。


 彼女の家に来るのは、これが初めてだった。湖畔沿いの小さな街並みの、山沿いの斜面に並ぶ古い家屋の一室。昔ながらの平屋造りで、居間のテレビでゲームをする俺達の背後では、小学生だという彼女の妹や弟達、そして親戚の子供達が、家中の部屋や廊下を、ドタバタと騒ぎ声を上げながら走り回っていった。


 山頂には神社があるらしい、こんもりと盛り上がった山の斜面。そこに並ぶ家屋は、ほとんどが彼女の親戚一同が住んでいるらしい。この小さな町の、権力者の家系なのだという。


 中学生くらいの、眼鏡をかけた華奢な男の子が、部屋に入って来てチラリと俺に視線を向ける。そして隣でコントローラーを握ってテレビの画面を見つめる彼女に、一度だけ視線を向けたあと、それ以上は興味もなさそうに、部屋を通り抜けて廊下の向こうに消えて行った。


「ねぇ理道君。本当にたまたま、この街に来ただけなの?」


 ゲームオーバーになった画面にガックリと肩を落とした彼女が、肩口までの細い茶髪をフワリと浮かせて、こちらを振り向いた。


 パッチリとした、どこか物憂げな瞳に、僅かばかりの怪訝の色が浮かぶ。片手にコントローラーを持ったまま、体育座りをした膝に頭を乗せて、斜め気味に俺の顔を見つめた。


「ああ……。ほら、木元っているだろ、いつも騒がしいお調子者の。あいつの家がこの先の街にあってさ。原付で遊びに行った、その帰りだったんだ」


 俺の家から原付で三十分ほどかかる木元の家には、これまでにも何度か遊びに行ったことがあった。だけどいつもは、海岸沿いの国道を通っていて、いつもとは違う山沿いの産業道路の方を走ったのは、今日が初めてのことだった。


 その途中で、広がる湖畔のあまりの景色の良さに、思わず原付を止めて、ドライブインの展望台で、のんびりと景色を楽しんでいたら、そこでたまたま見知った顔に出会った。


 それがクラスメイトだということに気づき、普通に声をかけた。しばらく言葉を交わしたのち、お互いにゲーム好きだということも分かって、こうして家にお邪魔させてもらっている。


「そっか。実は私に会いに来ました、ってわけじゃないんだね」


 そのままの姿勢で、悪戯っぽく目を細めた彼女の仕草に、ちょっとドキリとして、胸の鼓動が高鳴る。


 慌てて、取り繕うように笑ってみせると、


「ホントにそうだったら、ストーカーじゃん。ありえないって」トン、っと冗談めかせて、彼女の肩を軽く小突いた。


「あ、ぼーりょくはんたーい」さらに目を細めて、彼女が笑う。


「診断書持って来たら、慰謝料払ってやる。

 それより、そのエリア難しいでしょ。俺も最初は何回も死んだよ」


 肩が触れるほどに彼女のすぐ隣に移動し、コントローラーを取り上げる。リトライを選んで、攻略の解説を交えながら、ゲームを進めていった。


 大人しくウンウン頷きながら、ゲーム画面を見つめる彼女。


 ボスを撃破する寸前で、わざとゲームオーバーになり、コントローラーを彼女に返す。


「あー。そのままクリアしてくれて良かったのにー」頰を膨らませる彼女。


「自分の力でやらなくちゃダメなんです。諦めるな!」


「どこの熱血指導者よ」


「諦めんなよ! 諦めんなよ、お前!

 どうしてそこでやめるんだ! もっと頑張ってみろよ!」


「あはははは! ちょっと、やめて、絶妙に似てるから!」


 お腹を抱えて笑い転げる彼女を見て、自然とこっちも笑いが漏れる。少しめくれたスカートの太腿に目が行って、慌ててテレビの画面に目を向けた。


 ちょうどそのとき、家の外の方から、庭の砂利を踏み締める車のタイヤの音が聞こえた。


 途端、彼女がハッとしたように身体を起こす。


「やっば、お父さん帰って来ちゃった。

 ね、部屋に行こ」


 彼女が俺の腕を引いて立ち上がり、廊下の方に促した。


 言われるがままに廊下に出ると、鬼ごっこをして走り回る弟達の間をすり抜け、彼女の部屋に連れて行かれる。


 彼女が部屋のドアを開けたとき、廊下の突き当たりにある部屋から、さっき見かけた眼鏡の中学生が、ドアを僅かに開けて、こちらを見やっていた。


 俺の視線に気づき、それ以上は興味もなさそうな顔で、カチャリと静かにドアが閉まる。


「入って。なんにもないけど」と、彼女がニコリと微笑む。


 かなり手狭な部屋の中に、勉強机とベッドが置かれてある。割りかし綺麗に片付けられているものの、そもそもが物を置くスペースが少ないために、座れる場所は机に据え置かれた椅子か、ベッドの上くらいしかなかった。


 ベッドの向こう側には、薄いカーテンの引かれた窓がある。その向こうは山側らしく、鬱蒼とした木々が生い茂るのが見えた。


 彼女がベッドに腰掛けたのを見て、何気なくその隣に腰を下ろした。


 鼻をつく、華やかな甘い匂い。なんの香水だろうか。どこかで嗅いだことがあるような匂いだ。母か姉か……あるいは、女友達の誰かが、つけていたのかも知れない。


 部屋の壁側、半分ほど開けられた襖の向こうには、彼女の服が収納されてあるらしい。その中には、見慣れた学校の制服が掛かっているのも見えた。その下の方、半透明の収納ケースの中には、薄っすらながら、色とりどりの下着がしまってあるのに気がついて、ハッとして視線を逸らす。


 その、視線を逸らした先に、隣に座った彼女の胸元が目についた。華奢な身体つきに、そこだけ膨よかに強調された、女性らしい盛り上がり。


 視線を上にずらすと、頰を紅潮させた彼女が、ちょっとだけ戸惑った目つきで、無言で俺を見つめていた。


「……………………」不意に、時間が止まったような、不思議な感覚になる。時間にすれば、十数秒。言葉を発することもなく、無言で見つめ合った。


 無言のまま、お互いに目を伏せる。どちらからともなく、自然に、唇が近づいてゆき、柔らかく、温かい感触が、不思議な背徳感を胸中に滲ませながら、脳裏を貫いていった。


 ゆっくりと彼女を抱き寄せて、ベッドの上に身を預ける。


 そして俺は………そこで、初めての体験をした。


 おそらく、いや、間違いなく、彼女も初めてであっただろう。



 ──温かく、柔らかい感触を胸に感じながら、すぐ耳元で、彼女の激しい息遣いが聞こえる。


 廊下で走り回る子供達の足音に、声を潜ませながら、ただただ彼女の温かさを感じて、ギュッと力強く抱き竦めた。


 俺の首に回された彼女の両腕が、全てを受け入れて、応えるように、力強く抱きしめ返してくる。


 込み上げてくる感情を抑えることもできず、湧き上がった欲情の全てを、彼女の中に吐き出していった。


 やがて静けさとともに、冷静さが頭の中に振り降りてきて、お互いのグッタリとした息遣いだけが、部屋の中にただ揺蕩っていた。



 

 そこに至って俺はようやく、事の違和感に気がついた。


 

 ああそうか。これは夢なんだ。


 それは……遠い、遠い過去の記憶。


 もう戻ることもできない、甘酸っぱく、淡い恋の記憶。




 

 それから俺は幾度となく、その街に足を運ぶことになる。


 ドライブインの展望台で、ただただ取り留めもない会話に笑い合うだけのこともあれば、街中を散策しつつ、ちょっとしたデート気分を満喫したこともあった。もちろん、鍵のかかった彼女の部屋で、声を殺して、二人きりで過ごすこともあった。


 相変わらず彼女は、学校には登校して来なかったけれど。


 そうして、心躍らせる、淡い月日が流れた。陽炎のように揺らめく、曖昧な記憶の狭間……彼女と笑い合った日々があったことだけは、ハッキリと覚えている。だが…



 それから彼女とは、結局どうなったんだっけ……。



 未だ初体験の記憶の中、ひどく生々しい夢の中で、彼女を抱きしめて、その温かさを全身で感じながらぼんやりと、それを思い出そうとした。


 だが……どうだったんだろう。なぜだか、不思議と思い出せない。


 まるで記憶のどこかで、彼女との思い出が、バッサリと切り離されてしまったかのようにして、それ以降の展開がどうだったのかを、思い出すことができなかった。


 どこかのタイミングで、別れてしまった?


 そういえば、高校を卒業した頃には、俺の隣には、また別の恋人が立っていたような気がする。確かそっちは、自然と会わなくなって、気がついたら消滅した恋だった記憶があるけれど。



「理道君。今日のことは……今日のことだけは、忘れないでいてね」


 不意に耳元で、掠れたように小さい声で、彼女が呟いた。


「忘れようにも、忘れられるわけないだろ。俺…初めてだぜ?」


 ああ、そうだ。このとき俺は、こう言ったんだ。


 少しだけ上体を上げて、彼女の顔を覗き込む。


 頰を紅潮させた彼女が、恥ずかしそうな表情を誤魔化すことができないままに、ニコリと微笑んだ。


 ……と、不意に、そこで夢が覚めたかのような、何かが遮断されたかのような、感覚に襲われた。


 彼女の部屋の中の空間が、異世界に落ちたかのように、異質な感触へと変わる。


 ふと見下ろした彼女の顔から、赤みが失われてゆき、辛そうな、悲しそうな、泣き顔に変わっていった。


 そして、何度も重ねた柔らかな唇が、叫ぶように、懇願するように、ただ一言だけ、



「たすけて……!」すがりつくように、響いた。



 頭の中も、心の中にも、彼女の色をした、目に見えない何かが、一気に広がっていった。


 途端、辺りが真っ暗になる。


 ズン…と、身体が落ち込んだ感覚がして、フッと……唐突に、意識が覚醒した。

 




「………なんだってこんな夢を?」


 目を開けた先にあった、穏やかなウィラルヴァの寝顔を見つめつつ、俺は今し方見た夢の不思議な感覚に、未だに囚われたままでいた。

 

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