悔恨と金木犀
いぬい。
前編 ー 陶酔
10月も半ばを過ぎたというのに、この日は30℃を上回る猛暑日だった。これも温暖化の影響なのかと、普段は気にもしない地球問題に意識を向けてみる。冷房の効いた喫茶店には、僕たち以外に2組のカップルらしき人たちがいた。もう見慣れた景色ではあったが、それでもみんな楽しい話をしているのだと思うと、お腹の辺りが痛くなる。テーブル席の壁側に座る僕の彼女は、中身のなくなったアイスコーヒーの氷をストローでかき回している。
「えっと、なにか注文する?」
目の前に座る彼女にメニューを向ける。それをひと目見るも、手にすることはなく、ただ「いらない」とだけ返答する。もう関係は終わっているのだろうと、心の中では分かっている。それでもまだ、少しの望みがあるのならばそれに縋りたかった。
「なあ、頼むからもう一度だけ考え直してくれよ。僕は君が好きなんだ」
心臓の脈打つ音が騒音に感じる。心臓の音を耳にした経験はこれが初めてだったが、これから彼女の言葉を聞かなくてはならないので、それどころではなかった。少しでも心音を弱くするために息を止め、全神経を耳に集中させた。これから投げかけられるであろう彼女の言葉を、一字一句聞き逃さないために。
それからどのくらいの時間が経ったのか分からなかった。30秒かもしれないし、1時間だったのかもしれない。彼女の言葉を待ち続けたが、言葉より先に僕が見た光景は、目の前に出された数枚の小銭だった。何が起こったのか分からず顔を上げるが、僕と目を合わせることなく「さよなら」とだけ告げ、彼女は去っていた。出された小銭がアイスコーヒーの代金だと理解したのは、それから10分後のことだった。
今年の春頃に付き合い始めた彼女とは、来月で半年を迎えるはずだった。半年記念日には一緒に箱根旅行をするため、部屋に露天風呂がついた少しだけ豪華な旅館の予約や、サプライズで渡すはずだったプレゼントの準備など、彼女に喜んで貰おうと色々と計画していた。
今考えても、どうして別れることになったのか分からなかった。何か原因らしい原因があったわけでもなく、それは自然災害のように何の前触れもなく急に訪れた。きっと僕は、彼女の口から聞かされない限り、別れた理由を知ることは一生ないのだろう。
思えばあれは、先週の土曜日のことだった。その日も普段と変わらず、彼女とメッセージアプリで通話をする。来月迎える「付き合って半年記念日」を一緒に過ごそうと、それらしい理由で彼女を旅行へと誘う。断られるかと少し不安だったが、「行こうよ!」というハイテンションな返答のおかげで、その不安も蜘蛛の子を散らすように消えていった。
そんな雑談をしながら僕は、昼から出かけるための準備を始める。少しだけ洒落た服に着替えている最中にも彼女との会話は続く。
「今日って午後から暇だったりする?あれ、もしかしてお出かけだった?」
「うん。友達とお買い物」
「そっかぁ。じゃあ明日遊ぼう!」
彼女からの誘いを断るのは心苦しかったが、どうしても外せない用事があったのでそちらを優先する。お互い束縛が強い方ではなかったのもあり、僕も彼女も自分の時間や人間関係を大事にできていた。それでも、二人で過ごせる時間を見つけて声をかけてくれる彼女に、僕はいつも感謝していた。
1時間ほど話していた通話を切り、財布だけを持って玄関を出る。秋分の日が過ぎたというのに、一向に秋の訪れを感じさせない暑さだった。買い物に誘った友達をきっと待たせているだろうと、少しだけ申し訳ない気持ちになりつつも、彼女と宿泊する旅館をスマートフォンで調べながら、家から歩いて10分ほどの距離にある大型商業施設へと向かった。
入り口の近くにあるベンチから、僕の名前を呼ぶ声が聞こえて思わず振り向く。
「遅刻だよ。ちゃんと言い訳考えてきた?」
「ごめん。彼女との通話が長引いちゃって」
「待った挙句に惚気かぁ。帰ろうかな。……なんて冗談。プレゼント選び任せてよ!」
ベンチの上に置いていた鞄を手に取り立ち上がり、そのまま僕の手を握る。「これってデートごっこだよね?」なんて馬鹿なことを言うので、その手を振り切って、軽く頭をこづく。
「千尋おばあちゃん。僕が彼女持ちなの忘れちゃいましたか?」
「うら若き乙女をおばあちゃん呼ばわりなんて酷くない?ほら、あの店だよ」
僕と彼女と千尋は高校の頃の同級生だ。よく三人で集まっては、甘いものを食べたり、買い物をしたり、時にはテスト勉強会なんてこともした。それぞれ別の大学に進学し、僕と彼女が付き合いだした今でも、千尋は変わらず僕たちと接してくれている。本当に優しい子だと思う。
千尋に連れてこられるがまま入ったのはアクセサリーショップだった。千尋が物色している間、イヤリングのコーナーを見ていたが、僕にはどれも同じ物に見えてしまった。
「あれ、イヤリングの方がよかった?」
横から顔を出す千尋の手には二つのネックレスが握られていた。どちらも同じデザインのものだが、可愛らしいハートのモチーフの色が違っていた。「ネックレスの方がいいかも。」と言ったものの、アクセサリーの類には疎いせいで、千尋にお任せ状態になっていた。
「赤と薄いピンク、どっちの方があの子に似合うと思う?」
「どっちも似合いそうだよね。千尋はどっちの色が好き?」
「えっ、わたし?わたしは赤の方が可愛いかなって思うよ」
僕はお会計を済ませるために、千尋から二つのネックレスを受け取る。「買わない方は店員さんに返しといてね」という頼みに適当に相槌をし、近くにいた店員さんを呼んだ。
お会計をクレジットカードで済ませ、彼女へのネックレスを梱包してもらう。箱につけるリボンの色を聞かれ、また赤とピンクで悩んだが、自分の意志でピンクを選んだ。
「お待たせ。買い物に付き合わせちゃってごめんね。助かったよ」
「気にしなくていいのに。それで、ネックレスはどっちの色にしたの?」
「少し悩んだんだけど、薄いピンクの方にしたよ」
「えー! わたし赤の方が可愛いと思ったのに。センスなかったかなぁ。」
少しだけ拗ねてる千尋に小さな紙袋を手渡す。開けるように促すと、中身を見るなり目を丸くする。
「やっぱり千尋は赤が似合うよね」
「いやいやいや。受け取れないよ。ダメだよこれは」
「買い物に付き合ってくれたお礼が半分。もう半分は、あの子と付き合えるようになったのは千尋のおかげだからさ。今更だけど、そのお礼も兼ねて、ね」
「ズルいなぁ。そんなこと言われたら受け取るしかないよ。ありがと」
大事そうに握られていたネックレスを受け取り、そのまま千尋の首に手を回す。人にネックレスをつけた経験がなかったので、彼女につける前に千尋で練習しようという悪い考えが少しだけあったが、そんな考えも緊張とドキドキですぐに消え去った。女の子らしい甘い香りが鼻腔をくすぐる。このままだと冷静でいられなくなる気がして、指先にだけ集中をし、ネックレスがついたと同時に千尋から2歩ほど離れた。
首元から見える赤いハートのモチーフは、太陽のように明るく可愛らしい千尋に似合っていた。そのことを本人に伝えようと思ったが、その前に「やっぱりデートごっこだよね!」なんて馬鹿なことを言い出したので、軽く頭をこづき、店内を後にした。
そのまま千尋と別れ、家路につく。帰り道も彼女との宿泊先を調べていたが、予算との兼ね合いもあり、なかなか決まらなかった。明日は彼女と遊ぶ予定があったので、その時に決めればいいやなんて呑気なことを考えながら、寝るまでの時間をテレビを見て過ごす。いつもと変わらない土曜日だった。いや、強いて言うならば、夕方頃から彼女からメッセージアプリの返信がこないのと、千尋の首筋からした甘い香りが忘れられなかったこと以外は、いつも通りの土曜日だった。
翌日からのことはあまり覚えていなかった。あまりにも出来事が急で、そして何もなかったからだ。普段ならば「おはよう」とメッセージアプリが届くはずが、その日は何の音沙汰もなかった。昨夜は早く寝てしまったのか、それとも忙しかったのかと思っていたが、ここまで連絡が返ってこないとなると、あまり束縛をしない僕でも心配になる。メッセージに既読がつかないまま、次のメッセージを送ることに抵抗を感じるタイプだったが、非常事態ということで、数十分おきに送信してみる。それでも反応はなく、電話をかけてみるが、それにも応答はなかった。何かの事件に巻き込まれているのではと一抹の不安が頭をよぎったが、事態が分からない以上警察に相談するわけにもいかず、その日は千尋に相談をしただけで一日を終えた。
彼女からの連絡は何の前触れもなく届いた。「明日、11時にいつもの喫茶店にきて」ただそれだけのメッセージだった。それに対して何回か電話を試みたが、繋がることはなかった。急な出来事に対し、自分の精神が疲弊していく感覚が何となく分かった。「メンヘラってこうして生まれるんだな」と自分で理解しながらも、数時間置きにメッセージを送っていた。もう既に僕は、自分自身の感情をコントロールすることができなくなっていた。
ーー
喫茶店でうつ伏せながら、ここ一週間の出来事を思い出す。結局、彼女の口から原因らしい原因は聞けず、ただただ別れを切り出された。もう何も感じなかった。涙は一滴も出なかった。今はただ、「どうしたら彼女はまた話してくれるのか」「僕が死んだら彼女は心配してくれるのだろうか」こんなことしか考えられなかった。
喫茶店にいるのも段々と辛くなり、お会計を済ませて外に出る。1時間が経った今でも、日差しは変わらず照りつけ、傷心した僕に突き刺さる。足元はおぼつかず、真っ直ぐ歩けているかも分からなかったが、住宅街だったこともあり誰かにぶつかることはなかった。街路樹に咲く金木犀の香りが、少しだけ心を落ち着かせた。どこか懐かしさを感じさせる甘い香りだった。
「そんな歩き方じゃ危ないよ」
「千尋。なんでいるの」
「なんでって酷くない!? 昨日、この時間にあの子と喫茶店で話すって言ってたから……心配で来たの。この様子じゃダメだったみたいね」
そう言いながら千尋は僕の頭を撫でる。大好きだった彼女と別れ、何の原因も分からず改善の余地さえも見つからぬまま、ただ絶望の淵に立たされていた僕は、彼女の優しさに子供さながら泣いてしまった。そんな僕を見かねてか、頭を撫でていた手を肩に回し強く抱きしめる。「なんだか大きな赤ちゃんみたいね」と冗談を言うのは、千尋なりの優しさなのだろう。彼女からする甘い香りが僕の心拍数を上げる。そこには、先程までいた「死にたかった自分」はもういなかった。
「わたしがずっと側にいるから」
その言葉が、言霊となって僕の心の傷口から入り込む。疲弊しきって抗体を失った心を彼女の優しさが包み込む。それはさながらウイルスの様に。
僕はもう千尋のことしか考えられなくなっていた。彼女の甘い香りが金木犀の香水だと気づいたけど、この話はまた今度すればいいかと思い、そのまま甘い香りに包まれながら彼女に抱かれ続けた。
こうして僕は千尋と付き合うことになった。しかしながら、元カノのことを全部忘れたわけではなかった。寝る前になると何もできなかった一週間を思い出し、変えることのできない過去を後悔し続ける。そして、別れ際の「さよなら」が僕の脳内を反響する。それはさながら呪いのように。
もし、人生をやり直せるのなら、僕は彼女と上手く行く道を見つけられるのだろうか。それともまた、未曾有の災害で別れてしまうのか。僕には分からなかった。ただ、今だけは何も考えたくなかった。だからもうしばらく、千尋の胸に抱かれていたい。
金木犀の花言葉は「陶酔」
そして僕は繰り返す。
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