第53話 60でも70でも
オペラ鑑賞が終わると、会場から歩いて行ける距離に予約を取ったレストランで夕食を取った。
夕食が済むと、ヒカルが家まで送ると言ってタクシーを拾おうと手を上げたので、その手を愛子が慌てて止める。
「電車で帰るわ。まだ、十分時間もあるし。少し歩いて腹ごなししないと。」
絵に書いたようなデートコースの締めは、のんびり散歩がしたい。それに、若いヒカルが経済的に豊かだとは思えないので、これ以上の出費をさせたくなかった。
オペラのチケットも食事代も全て彼が支払っている。オペラの席は叔父のアーサー様に頼んだとしても、代金は支払っているだろう。ヒカル自身のプライドにかけて。
「貴方がそう言うなら。」
コベントガーデンから駅まで歩いて、そして愛子の最寄り駅まで地下鉄で行く。
「自分で髪を染めたの?」
「これは違うんだよ。実はね、向こうへ渡ってすぐに自然に変化し始めたんだ。」
「自然に?何もしないのにってこと?」
「最初は少しずつだったんだけど、一番ひどい時なんて動物園のトラみたいだって言われてた。髪は黒と金の斑らだし、目の色は見る度に違うって言われてて。いくら芸術系大学って言っても本人が作品になる奴は珍しいって笑われた。こんな姿貴方に絶対見られたくないって思ったから、一緒に居る時じゃなくて本当によかった。」
恥ずかしそうに俯くヒカルを見上げながら、愛子はくすりと笑った。笑いながらも複雑で。
その、色彩が変化する時期を見届けられなかったのは残念だとさえ思う。ヒカルが服用した薬のせいで、黒くなっていくところは見ていたのだから、その逆が起こる所を見ておきたかったと思うのは、愛子の中にある親心だろうか。
幼かったせいもあるだろうが、日毎黒くなっていく髪と瞳を目の当たりにしていたあの時は、他の治療方法を取らなかった自分を責めたものだった。その後一年くらいは肌の色もやや浅黒かったのだ。肌の色は一年で元に戻ったが、色素が定着してしまったらしい髪と目は戻らなかった。
「身体の方には影響なかったの?医者にはいった?」
「うん、行ったし問題ないって言われたから。紫外線を浴び過ぎないように注意を受けたくらいかな。」
「そう、それならよかったけど。・・・あの時は本当に驚いたわよ。」
駅からは徒歩だ。バスも通っているが、歩けない距離ではない。
歩く速度がとてもゆっくりなのは、慣れないブーツで歩く愛子を慮っての事なのか。
それとも。ほんの少しでも長く一緒に居たいと思う心からなのか。
ヒカルにとってはとても懐かしい実家の前の通りは、時間のせいもあって人通りもなく、静かだった。
「僕のこの姿、アイコは気に入ってくれた?」
ふと立ち止まってそう呟く。
気に入るも何もない。愛子にとっては理想の外見そのものだ。長年憧れ続けた双子の父親と寸分たがわぬ外見は、遺伝子という人の手では到底なし得ない奇跡の産物だった。
しかし、愛子はそれに答えてはいけない事を嫌と言う程知っている。
「どんな外見でも、貴方は貴方よ。黒でも金でも青でも・・・ヒカルはヒカルでしょう。」
向かい合ってその顔を見つめる。
抱いていた花束から、優しい匂いが届いた。甘いけれどきつくない天然の香りは、愛子が身に付けているお高めの香水よりもずっと心安く感じられた。
青い瞳を瞠って驚いたように肩を竦めるヒカル。それから小さく息を吐いた彼は少し困ったように首を傾げて笑った。
「貴方には本当に、かなわないなぁ。・・・ああ、もう。」
きっと気に入ってくれると思っていた。そう言ってくれるはずだと。それなのに。
金髪碧眼は彼女の最愛の人の色彩だ。造作はそのまま受け継ぐヒカルならば、きっと愛子にとって理想だろうと、そう言ってくれるだろう思っていたのに。
二度と会えないはずの彼女の最愛の男。つまりはヒカルの父親に、そっくりになった今ならば。
それなのに、どうしてそんなことを言うのだろう。
愛子はヒカルの父でなく、ヒカル自身をきちんと見ているのだと、言ってくれるなんて。
父に似ている自分を好きだと言ってくれるのならば、それはそれでいいと思える気がしていた。それならば、愛子を諦められる気がしていたのだ。結局自分は父親には勝てず、その息子としてしか価値がないと思い知れば、きっと諦めてしまえるだろうと、思っていた。
「貴方と・・・離れるのが辛い。」
「ここまで送ってきてくれたんだから、久しぶりの古巣に寄って行けばいいじゃないの。貴方の部屋はアイクが使っているけど、お茶くらいだすわよ。」
彼にとっては実家になるのだ、寄ればいいのに、と気楽に声をかける。
「ええっ!アイクが、僕の部屋を!?」
今日一番の驚きとでもいう風に、ヒカルが狼狽した。その狼狽に、愛子はもっと驚いてしまう。
「まずかった?でも、今ローズとミスズとアイクがいるから、どうしてもどこか使わせなくちゃだったんで・・・。」
「ローズって、誰!?」
「わたしの孫で貴方の姪よ?この間、話したじゃないの。」
「ちょっと待って、ねぇ、ちょっと待って。もしかして貴方、同居しているってこと?」
「えっそこから説明しなくちゃ駄目なの?貴方、ミスズからも静流さんからも何も聞いてないの!?」
ヒカルは本当に何も知らなかったらしい。ミスズがあの調子だから、彼女からは何も聞いていないというのは頷ける。
しかし、大叔父の静流からも何も聞かされていないなんて。
「そう・・・そうか。じゃあ、今、貴方は家に帰っても一人じゃないんだね。」
今知ったその事実をまるで噛みしめるようにヒカルが呟く。
愛子はもう一人ではない。
そのことに、なんだかがっかりしたような。けれども安心したような。
その複雑な心情を示すヒカルの表情を察しかねた愛子は、彼のいない間に別の人間を住まわせたことが彼を怒らせてしまったのかと思った。
「ごめんなさい。貴方の許可も得ず勝手に人に貸したりして・・・でも、仕方ないでしょ、アイクはローズの父親ですもの。一緒に暮らしたいと言うのならば反対できないわ。ミスズは絶対に出て行く気はないって言い張るし・・・。」
「なんだか面倒くさいことになっているんだね。結局籍は入れないままなのかい?」
「ミスズが渋っちゃって。何でなのかしらね?アイクはいい人よ?」
「貴方は・・・?」
「え、わたし?」
花束を抱えている愛子の左手に触れ、その薬指を見つめる。
一度は、ヒカルの送った指輪をしてくれていたその細い指。そこには、今はめられているアクセサリーがない。綺麗な淡いピンク色のネイルが施されているのみだ。
「今頃聞くのもおかしいかもしれないけど、貴方には、誰か、いいひとがいるの?」
両手で愛子の左手をいじりながら尋ねる。
「いるわけないじゃない。わたしいくつだと思ってるの。アラフォーどころか遠からずアラフィフになるのよ?」
「パリにいた時は、60歳でも70歳でも、若い恋人のいる女性をたくさん見たよ。年齢なんか関係ない。」
「私は日本人です。パリにも住んでないわ。」
「本当にいないんだね?」
念押しする青年に、愛子はため息をついて答えた。
「いないわよ。あなたこそいるんじゃないの。パリジェンヌはお洒落で素敵だったでしょう?こっちに連れて来なかったの?」
「僕も今はフリーだよ。本当に。」
会話していて、なんだかとんでもない違和感を覚えた。
おかしなやりとりだ。
まるでわかっていることを、形式的にただ確認するみたいな。まるで茶番劇のような。
恋人の有無を尋ねていながら、もうその答えを知っている。それなのに、わざわざ言葉にして再確認している。
「じゃあ、もう一度僕が立候補してもいいんだね。」
両手で弄っていた愛子の手に、ヒカルはそっと口づけた。
「貴方に、キスしてもいい?」
愛子が不在になると、何故かローズはご機嫌が悪くなる。まるでミスズの不安を読み取っているかのようだ。
ついさっきまできゃあきゃあと笑っていたのに、急にむずがってぐずぐずと言い始めた。
『大丈夫ですよ、ローズ。パパもママもいますからね。眠くなりましたか?』
赤ん坊にまでも妙に丁寧な言葉で語り掛けるアイクが、笑顔でローズをあやす。その声の低さに、よく子供がビビらないなぁと最初は思ったくらいだ。
『夕食どうしようか、アイク。』
『軽くていいですよ。お得意のサラダ・ディナーでも。』
飽きもせず赤ん坊の相手をする相棒の返答に、ミスズの表情は複雑だ。
サラダ・ディナーはお得意なのではなく、それしか作れるものがない。野菜を洗って千切って器に盛るだけ、というシンプル過ぎる夕食だ。
『・・・わかったわよ。サラダね。』
嫌そうに一言告げて、ミスズがキッチンへ歩み寄る。
やっぱり、愛子がいたらなあ、と思ってしまう。彼女がいてくれたら、美味しい夕食が用意してもらえるのだから。
まだ若いミスズにとって、葉っぱしか食べられないサラダが夕食なんてあり得ない。あり得ないが、それしか作れないのだから仕方がない。
アイクが作ってくれればいいのに、と喉まで出かかって堪える。
相棒は料理もそれなりにすることは知っている。少なくともミスズよりは上手なのだ。
けれど、それを彼に頼むことだけは出来なかった。家事や育児を自分から頼んだら、それは彼をあてにしていることになってしまう。益々アイザックを家から追い出せなくなってしまうから。
アイクが自分から手を出して来ることはいい。彼が勝手にやっているのだ、と言い切ることが出来る。
だが、ミスズから頼んではいけない。
もはや、ほとんど後がないというくらいの言い訳だが、そのくらいしかミスズに出来る抵抗が無いのだ。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
ローズを産んだ事は少しも後悔していない。彼女は最高に可愛い。可愛いのは正義だ。誰がなんと言おうとローズマリーに罪はない。彼女を育てることになんの言い訳も抵抗も無い。
けれど、彼女の父親はアイザックなのだ。それも疑いようもない事実だった。
ミスズは他の男とのつきあいは一切無い。というか、アイクとだってそんなことをしたのはただの一度だけだ。
あの日のミスズはどうかしていた。
普通の状態だったらまず異性とベッドに入るなんてことはなかったはずなのだ。
ミスズは、恋を知らない。知るつもりもない。誰に言い寄られても跳ねつけて来たし、誰の事も恋愛感情で見たことなど無い。
冷蔵庫を覗き込んで、野菜室の扉を開く。冷気が頬を打って、軽く目を瞑った。冷蔵庫を閉じて、冷凍庫にも顔を突っ込む。
あの時の冷気はこんなもんじゃなかった。
霜が付着して冷凍庫の天井部分が白くなっている。指で触れると、とても冷たい。氷柱のようだ。
ロンドンの冬も冷え込むが、積雪量はそれほど多くない。近くを暖流が流れているため、緯度の割には温かいのだろう。
一昨年に行ったノルウェーの寒さを思い出す。
おそらくは、ノルウェーのオスロも、その高緯度としてはまだ温かい方なのだろうが、それでも真冬の寒さはミスズの身体に堪えた。健康第一の頑健な身体を持つミスズが、初めて体調を崩したのだ。
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