第49話 出来ちゃった
端末で職場に有給申請をメールで出していると、ミスズからの着信があった。
「ハロー、お早うミスズ。どうしたの?」
まだ学校の授業が始まったばかりの時間帯だ。
「お早うママ。ヒカルが学校来てないって言うんだけど、風邪でも引いた?」
屈託ない口調の質問に、愛子は胸が痛くなった。
「違うわ。多分試験を受けに行ってるんだと思うのよ。」
「試験?だってヒカルの進路はもう内定してるでしょ。なんの試験よ?」
「さあ。わたしは聞いてないからわからないわ。暫くはうちに帰らないと思うから、ヒカルに聞いてみてくれる?」
「ん、わかった。じゃあまたねぇママ。今日も綺麗ね、愛してる。」
端末の画面に映ったミスズが、口をすぼめてキスのポーズを見せる。なんて可愛いんだろう。
「ありがとう、ミスズも可愛いわよ。ママも愛してるわ、授業サボっちゃ駄目よ。」
陽気でハキハキした娘の声は、落ちてしまいそうになる気分を上昇させてくれた。「愛してる」といつも言葉にしてくれる彼女には救われてばかりだ。
愛子は知らないけれど、実際ミスズが外でその言葉を口にすることは少ない。愛子にだけ大盤振る舞いしてくれている。
通信を切ってから小さくため息をついた。
ヒカルは当分の間、静流の家で預かることにすると聞いている。試験に合格したらパリへ行かせる手はずだそうだ。
そして、愛子と会うことは禁じられている。
静流がそうすると言うのだ、ヒカルを監禁してでも実行するだろう。ヒカルが愛子のいる家へ出かけようものなら力尽くでも阻止するに違いない。端末も監視され、連絡を寄越す事さえ許さないと言っていた。
彼の部屋の荷物をまとめて、すぐにでも送れるようにしておかなくては。
荷造りをしていたらまた泣いてしまいそうだが、ここは踏ん張らなくてはいけないところだ。ヒカルの将来のためなのだから。
またくしゃみが出てしまった。上着をもう一枚、と自分のベッドの上のガウンを取りに行く。
「・・・ふふ、くしゃみをしても、一人か。」
双子と一緒に暮らすまでは、ずっと一人だったのに。そしてそれが当たり前のことで、寂しいなんて少しも感じたことは無かったのに。
ミスズの明るい笑い声やヒカルの穏やかな声がひどく恋しい。
端末に職場から返信がきた。
まもなくクリスマスでみんな休みになるから気にせずゆっくりするよう、上司からのお言葉を頂いた。
もう一つメッセージがついていて、同僚の佐那からお大事に、と一言添えられている。
そして、またメールが届いた。
トレーナーのバーニィからだった。そう言えば、明日は水曜日だ。トレーニングの後、食事しようと誘ってくれている。
ふっと小さく息をついた。
バーニィはとてもいいトレーナーで、いい人だった。彼女の一人くらいいるのでは、と尋ねたら、意外な答えが返ってきた。
『俺、ゲイなんだ。だから彼女はいないんだよ。でも友達が欲しくてさ。シングルマザーのアイコなら、誘っても迷惑じゃないかなって思って。迷惑だったかい?』
『迷惑じゃないわ。私も新しい友達ができてうれしい。』
『本当かい?よかった。一緒に酒飲んだり飯食ったりする友達が欲しかったんだ。俺ロンドンに引っ越してきてからまだ二か月しか経ってないからさ。』
料理も上手で、一度彼の部屋フラットでご馳走して貰ったことが有る。部屋の中は綺麗に整頓され、几帳面な性格なんだな、と思って好感を持った。真面目で親切な青年は、大柄で人懐こいの番犬ように思えて一緒に歩くのにも都合がいい。
ゲイの男性と同居して楽しくやっている女性の話をよく聞く。確かにこれはいい。市内で物騒な女性の一人暮らしにとってこんなに心強い同居人はいないだろう。愛子の持っている印象では、ゲイの男性は大概が小奇麗で紳士だ。彼らほどありがたい味方はいないとさえ思った。
そして、その一方で、彼らは一部の人々から差別の目で見られることが多々ある。そういう意味では持ちつ持たれつなのだろう。
そんなバーニィの話では、一緒に暮らした女性が本気で彼らを好きになってしまうことがあると困るのだと言う。その点、愛子はいい。シングルで仕事を持っていて子供がいて家庭がある。友人付き合いするにはうってつけなのだそうだ。
『わたしが本気で貴方に惚れてしまったら困るんじゃないの?』
5杯目のビールを飲みほした愛子が尋ねたら、バーニィは彼女のためにワインを注文してくれた。
『貴方には決まった人がいる。それは見ればわかるよ。俺を好きになるわけがないさ。』
楽しそうに笑う彼は、とても朗らかで素敵だった。一緒に飲みに行くと、他の女性の客から羨望の眼差しで睨まれたことが有ったくらいだ。愛子にしてみれば、それすらも快感で、痛快だ。
彼に了解の返信をし、端末をしまって鞄に入れた。
大きく伸びをして凝り始めた肩を軽く回す。硬い音がして、凝りやすくなったことを自覚した。
ヒカルもミスズもいない我が家は例えようもなく寂しい。
それでも毎日は過ぎていく。一人であっても生きて行かなくてはならない。泣いていてもいつか涙は枯れて、喉も渇くしお腹もすくのだ。双子の両親が亡くなった時にもそう思った。泣いていても始まらない。彼らがいなくても日常は続いていく。愛子自身の毎日が終わるその日までは。
鏡台の隅においている丸い時計を見て時間を確認した。通院の予定時刻まで一時間を切った。予約に遅れないよう、準備しなくては。
願わくば、恋しいヒカルも別れをまた一つ乗り越えて成長してくれますように。
彼が立派な大人になった姿を想像しながら、そう祈った。
それから四年後
洗濯機が終了のメロディーを鳴らしている。中身を乾燥機に移さなくてはならない、と思いながら、沸騰したお湯を専用のポットに入れる。
今朝も愛子は忙しい。室内用の薄いサンダルでパタパタと歩き回る音がダイニングに響いた。
トースターに薄い食パンをつっこみタイマーをかけ、コーヒーメーカーをセットする。
廊下でぎゃあぎゃあと泣く声が聞こえた。
「ミスズっ今ミルク用意するから、瓶を消毒して。」
「わかった。ママ、玉子焦げるよっ」
そうだった。フライパンに玉子とベーコンを焼いていたのだ。
心の中で悲鳴を上げる。
赤ん坊はいつ泣き出すかわからないから大変だ。ミスズもまだ慣れないことだから中々手際よく家事を進められない。新生児の育児に至っては愛子もミスズも共に初心者だ。
『そんなに慌てなくても大丈夫。俺がオムツ変えておきますから、アイコは仕事に行く準備してください。』
重低音でゆったりとした声が廊下から聞こえてきた。
足音も無くゆっくりとダイニングに入ってきたアイザックが、ピンク色の肌着と黄色のベビー服を着せられた赤ん坊を軽く揺らしながら抱いている。
『そ、そう?任せていいかしら?』
言いながら、火を消してフライパンの中身を更に移す。
『ええ。シャワーを浴びて着替えて下さい。居候の俺達がアイコの邪魔をするわけには行かない。』
申し訳ないと思いながらも、出勤時刻まで猶予のない愛子はエプロンをはずして洗面所へ足を運んだ。
『アイク、アタシがミルクやるのよ。ローズこっちおいで~』
抱いていた彼から奪うように赤ん坊を受け取ったミスズが、哺乳瓶を片手に猫なで声を出した。
その姿を見ると笑ってしまうから、なるべく見ないようにする。
どうにも、ミスズにはエプロンが似合わないし赤ん坊を抱いている姿が様にならない。あれで母親になったのだから不思議でしょうがなかった。
『何を言ってるんですか、オムツ変えが先ですよ。ミスズ。こっちのソファへ連れて来て下さい。』
『ええ~?ローズはお腹が空いているのよねぇ?ミルクが先よね?』
少し心配だったが、アイザックが一緒だから大丈夫だろうと自分を納得させて愛子は出勤の準備をする。
「ママ、出来ちゃった。暫く休職して育てるから手伝って欲しいの。」
ミスズがそう言って玄関で頭を下げてきたのは一年程前だ。
呆気に取られて返事も出来ないで立ち尽くしている愛子の端末に着信が入った。それに気付いたミスズが、勝手に玄関のドアを開けて家の中へ入って行ってしまう。
「え、え、あ、あ、あーと、ハイ、ハロウ?」
混乱して日本語で話していいのか英語で話していいのかわからないまま端末の通話に出ると、低い声が聞こえてきた。
『アイクです。そちらへミスズ行ってませんか?勝手に休職届を出して飛び出して行ってしまって。』
『え、ええ、今、着た所、よ?何?何があったの?』
出来ちゃったって何の話だろう?
仕事上の相棒であるアイザックがこんなことを言うということは、ミスズは会社の許可を得ずに来てしまったのだろうか。
『わかりました。俺もこれからそちらへ向かいます。それから説明をさせて下さい。』
そう言って二人が家に押しかけて来た時は、愛子が四十を二つ越えた春のことだった。
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