第36話 夕食を一緒に

 仕事場からの帰り、地下鉄に乗ろうと駅へ歩みを進める愛子の懐で端末が鳴った。

「ハロー・・・どうしたのヒカル?」

 立ち止まって端末に出ると、相手は愛息子であり恋人パートナーでもあるヒカルからだった。

 人通りの多い夕方の大通りは立ち止まると迷惑なので、脇に避け、細い路地へ入っていく。煉瓦作りの建物が並ぶ路地裏は、それでもぽつりぽつりと歩行者が見受けられた。

「ごめん、今夜もちょっと遅くなりそうなんだ。ミスズを行かせるから、アイコ一人にはならないよね?」

 端末の画面の向こうで申し訳なさそうに言う。

 愛子はため息をつく。

 自分は子供ではないのだ。一人で仕事から戻り一人で自宅で過ごせないような寂しがり屋でもない。

「あのねぇ、ヒカル。私だったら一人でも大丈夫よ、心配しないで。連絡をくれるのは有難いけど、用もないのに妹をいちいち実家に帰らせる必要はないわ。ミスズにだって都合があるでしょう?夕食がいらないんだったら、私も適当に済ませるから。それでいいのね?」

 まったくどっちが子供なのかわからなくなってしまう。過保護な父親でもあるまいに。

「そう、かな?本当に一人で平気なの?」

 彼は本当に心配しているのか、端末の画面で、不安げな表情を見せる。

 一体何を心配していると言うのだろう。こちとらアラフォーだ。何年独り者をやっていると思うのだ。

「この私に10年も保護されて成長してきた貴方が何言ってんのよ。」

「・・・ん、まあ、そうなんだけど。」

「貴方こそ気を付けて帰ってきなさいよ。遅くなってもいいけど、遅い時間は危ないんだから。それに、寒さにも気を付けて。冷え込んできたわ。」

「わかった。ごめんね、アイコ。アイコも気を付けて帰ってね。」

 通話を切って、コートのポケットに端末をしまう。

 やれやれである。最近のヒカルは心配性で過保護だ。一体誰に育てて貰ったと思っているんだろう。それともまさか、老人性痴呆を心配しているのではないだろうな。いくらなんでもそこまで老いているわけではないはずなのだが、10代の若者から見れば、そう見えるのか。

 そこまで考えて、ふと気づく。

 このところ、ヒカルは帰宅が遅れることがしばしばある。そう言えば、強引にベッドへ押し込まれることもしばらく無い。そのおかげか、愛子の体調はすこぶるいいのだ。睡眠が足りているということの重要性に改めて気付かされた。化粧のノリも全然違う。

 そう感じる一方で、ほんの少しだけ、寂しくも思った。

 二人きりで過ごす日々がある程度過ぎれば、ヒカルの情熱もある程度は冷めてくる。わかっていたことだった。

 もしかしたらこのまま徐々に接触が減っていき、いずれはセックスもしない関係に戻るのかもしれない。ただの、仲のいい親子、あるいは同居人という立場になっていくのかもしれない。そこまで考えて、俯く自分が可笑しかった。

 それでもいいと思ったはずだった。いつか年若い恋人は自分から離れていく、そうなってもいいと思って彼との関係を続けていたはずだ。なのに、それが寂しいと思ってしまう自分に笑ってしまうのだ。

 子供はいつか親の手を離れる。それと同じことなのだと、自分に言い聞かせて来たではないか。

 そうしてヒカルが自分から離れていったからと言って、彼を恨む筋合いも無いのだと言う事も。養子だとわかっていて彼を受け入れたのは、愛子自身が選んだ選択だったのだから。そう決めて愛子は彼と現在の関係になることを納得した。・・・多少流された感があったとしても。

 自分とヒカルとの関係に未来はない。そうわかっていたのだから。

 だからこれでいいのだ。ヒカルがその年代に相応しく外で友達と遊んでくると言うのなら、その安全さえ守られる前提の上で推奨する。

 そして、愛子は愛子なりの楽しみを見つけて生きて行けばいい。アラフォーにはアラフォーの楽しみ方があるはずだ。子供や年若い恋人が全てではない。

 地面を見ていた視線を上げて顔を上げ、真上を見る。ロンドンの星空はあまり見えないけれど、その代わり街の灯りは十分だ。

 夕食が必要ないのなら、どこかで買ってテイクアウトするのもいい。久しぶりに米を炊いて和食を作るのもいいなあと思う。日本食の売っているスーパーがピカデリーサーカスに有ったはずだ。ここからそう遠くも無い。

 再び端末を取り出してバスの時刻表を見る。時刻は夕方でも、空はすっかり暗くなっているので周囲の灯りが眩しいくらいだった。

 大通りへ戻ろうと足を進めた途端、見た事のある影が通りかかった。

 向こうも、こちらを見ている、ということは知人なのだろう。

『バーニィじゃないですか。』

『やあ!アイコ。今帰りかい?』

 愛子が通うジムの新しいトレーナー。今日はスーツではなく、ジャージ姿だ。

『ジョギングですか?』

『そうなんだよ、この近くに住んでるんでね。君は仕事帰りなの?』

『ええ、そうです。』

 にこやかに応じると、トレーナーは少しだけ躊躇した後に言った。

『これから、帰って夕飯を作るのかい?大変だね。』

『いいえ。今日は一人なので買って帰ろうかと。この近くにお住まいならおすすめのテイクアウトの店とかご存じですか?』

 他意なく訪ねたら、バーニィは軽く頭を掻いた。

『一人?・・・お子さんとダンナさんは?』

『ダンナはいませんよ。子供は今日遅くなるそうで。・・・言ってませんでしたか。私、シングルなんです。』

 前のトレーナーだったアンディには言っておいたはずだ。彼との情報交換はしていないのだろうか。

『えっ』

『指輪は息子がくれたんです。』

 嬉しそうに呟いた彼女は、自分の言葉に頷くように何度か首を縦に振った。

 息子から貰った指輪。そうであることを、誇るように。 

 恋人ではなく、息子から。それでいいと納得しているのだから。

『そうでしたか・・・。お一人で、じゃ、あの』

 少し汗ばんだ黒髪を忙しなく手でかき上げた彼は、たった今知った事実に随分驚いているようだったが、意を決したように愛子の方を見る。

『よかったら、夕食ご一緒しませんか。俺、も、今日一人でして。ちょっと待って頂ければ、すぐ着替えてきますから。』

 背の高いトレーナーは、そう言ってもう一度頭を掻いた。 

 マッチョで背の高い男は女性に人気が高い。愛子の知る限り、ロンドンにいる女性の大半はそう思っているのではないだろうか。人気のある職業も、身体が資本である消防士や軍人などが上位を占めている。

 だから、きっとバーニィのような男性は引く手あまたなのではないかと思う。

 よりにもよってアラフォーの外国人で、しかも子持ちの愛子を誘うことなど有り得ないと思っていた。

『・・・駄目、です、か?』

 そんな男性である彼が、自信なさそうに愛子の顔を覗き込んでくることに狼狽を隠せない。

 年齢は明らかに愛子より若いだろうと思う。確かめたわけではないが、前トレーナーのアンディだって20代だったはずだ。

 顔立ちは平凡だけれど、明るい茶色の瞳は人の好さを表すように少し垂れている。なんとなく、大きな犬のようだな、と思ってしまった。

『ええ。いいですよ。』

 愛子は快く返事をする。

 断る理由もないし、これからもトレーナーとして世話になることがわかっているのだ。

 この誘いに深い意味があるかどうかはわからないけれど、ひさしぶりに異性に誘われると言う事そのものが貴重なことに思える。

 彼は嬉しそうに笑って、ありがとう、と言った。


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