第34話 女教師と生徒
ミスズとアイザックに家の中と周囲を調べて貰ってから一週間後、ヒカルは再びモニーク先生に呼び出されていた。
呼び出された時間が遅かったため、放課後に画材店で時間を潰していた。偶然そこで、同級の一人と鉢合わせしたのだ。
『・・・ヒカルじゃない。こんなところで会うとは思わなかったわ。』
珍しい顔を見たとでも言う風に彼女は笑う。学校帰りになのか鞄を持っていた。私服通学なので、鞄が無ければわからなかったろう。
愛らしい容姿の彼女には見覚えがある。ヒカルはすかさず手を上げて挨拶をした。
『ハイ、アリシア。ここでちょっと見たいものがあったんで。君は?』
この画材店は学校からも徒歩10分程だ。ここで会うには意外な人物と思えたが、よくよく考えればそうでもない。学校内の売店でも画材は手に入るので生徒は余り出入りしないが、至近距離であることを思えば学校の関係者がいてもおかしくはなかった。
『先週の課題で没食らったのよ。やり直しするのに紙が足りなくなっちゃって。』
すでに買った後なのか、袋に入った用紙を掲げて見せる。
小柄で小動物のような印象の彼女は、双子の妹と同じクラスのはずだ。二年前はヒカルもクラスメートだった。
金茶の髪が鬣のようなミスズをライオンとするならば、さしずめアリシアはミーアキャットだ。その愛らしさでは男子の中でも人気があり、なかなか評判もいい。ヒカルは興味がないけれど。
『学校でも買えるのにわざわざ専門店まで来るなんて、案外こだわり派なんだね。』
彼女の持つ用紙の袋をちらりと見てそう言うと、アリシア・マレットは困ったように目を泳がせた。
『いや、実は、いい素材を使えば少しは成績にも色を付けてもらえるかなーなんて、不純な動機で。』
正直な彼女の言葉に、ヒカルも思わず笑ってしまう。
『ねぇ、時間ある?暇ならお茶でも飲まない?』
気軽な誘いに、ヒカルは腕時計を見た。モニーク先生に呼ばれた時間までまだ大分ある。時間つぶしにはちょうどいいかもしれない。
ヒカルは軽く頷いた。
通りに面した赤い屋根のカフェは、夕食時のせいか少し混んでいたけれどどうにか座ることが出来た。
『そう言えばこんな風に話をするの初めてじゃない?』
何故か彼女が妙に嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。
『そうかな。』
適当な相槌を打つ。
椅子の背もたれに体重を預けて、コーヒーを啜った。味が薄くて泣けてくる。アイコの淹れるコーヒーの方が、ずっと美味い気がした。
向かいに座るアリシアの方に視線を向けてはいるが、実質ヒカルの目は彼女の可愛らしい顔をろくすっぽ見てもいない。薄茶色の眼は大きくてカールした長い睫毛がはっきりわかる。そうとわからないくらいのナチュラルメイクだが、アリシアほどに色が白ければもっとそばかすが目立つはずだ。なのにそれが見当たらないのだから、間違いなくスッピンではないのだろう。
『モニーク先生になんか言われた?』
アリシアの言葉に、特に何も移していなかった黒いヒカルの目が大きく見開く。
『・・・先生が、何だって?』
警戒心を乗せて聞き返したヒカルの声は、急速に硬くなっていく。
先生と関係があった事は噂にもなっているだろうから、そのこと自体を彼女が知っているのは別におかしなことではない。
ただその関係が切れてから時間が経った今、その事を尋ねられるのは不自然だ。
『だってヒカルっていつも美術トップじゃない。表彰もいっぱいされてるし。呼び出されてたでしょ?』
『呼び出された事、知ってるんだ。』
『知ってるわよ。あの時職員室にいた生徒は皆知ってるんじゃないかな。』
あの時間そんなに生徒が職員室にいただろうか。そして、その中にアリシアの姿があったかどうか、思い出せない。
職員室を出てすぐの廊下で、モニーク先生はヒカルを呼び止めて、後で美術準備室に来るよう指示した。だから、彼女の言う通り職員室は廊下にいた人は知っているだろうけど、あの時は余り人がいなかった気がするのだ。それを狙って、先生はヒカルを呼び止めたのだと思ったくらいに。
『・・・進路の件で、ちょっと、ね。』
立ち入られたくない事なので適当にお茶を濁すヒカルは、コーヒーカップをテーブルの上に戻す。
『ちょっと、ね、か。・・・ふーん。ね、知ってた?』
屈託ない様子で笑顔を見せた彼女は、身を乗り出しテーブルの上に頬杖をついた。
『何を?』
『あたしね、以前ヒカルのこと好きだったんだ。デートを誘いたいからって、ミスズに貴方の予定を聞いてもらったことが有るのよ。』
アリシアの言葉に、思わず身を引いてしまった。
顔色を変えた目の前の少年の様子に、彼女はくすっと笑う。
『そんなに驚いた?随分前の話だし、結局誘えなかったんだからそんなに引くことないのに。』
気まずさの余り返答も出来ずにいるヒカルに対して、アリシアは微笑んで言葉を続けた。
『ミスズから何も聞いてないんでしょ?知らなくても無理もないわよ。ヒカルが気にする事じゃないわ。それに、今日こうやって誘えたし。念願叶ったから。』
乗り出していた上半身を引いて椅子の方へ重心を戻す。それからゆっくりと紅茶のカップを口に運んだ彼女の方は、微塵もわだかまりを感じさせない態度だった。
『・・・ごめん、僕は知らなくて。』
『いいのいいの。言わない方がよかったかな、なんか返ってヒカルに嫌な思いさせちゃったみたい。』
『嫌な思いだなんて、そんな事はないさ。ただ驚いただけだよ。』
だから妙に嬉しそうだったのか。彼女は一緒にカフェに入る時から浮かれた様子だった。それに気付いてはいたが、よもや過去に自分に好意を寄せていたとは思わなかったのだ。
『ヒカルには好きな人がいるんでしょ?仕方ないわよ。』
『ごめん。』
『謝らなくていいって。・・・また誘ったらコーヒーくらい付き合ってくれる?』
お茶を飲むくらいの事は大したことではない。友人同士でも普通の事だし、それを誰に見られたからと言って問題はないけれど、ヒカル自身は余り気が進まなかった。
ただ、アリシアの好意に全く気付かずにいたと言うのがなんとなく負い目のように思えた。相手の好意を無にしているかのようで断るには気が引ける。
『いいけど。』
ヒカルの返事に彼女は満足そうに頷いた。
とっぷりと日が暮れた時刻になって、その日二度目に登校したヒカルは明かりのついている美術準備室をノックした。
すぐに返事が聞こえ、ドアを開く。
モニーク先生は作業台の前に立って生徒の絵を眺めていた。
『見たわよ。女生徒と一緒に一緒にいたわね?この浮気者。』
長い金の巻き毛を首の右側で一つにまとめ、左側の耳にアメジストのピアスが光る。ピンク色のブラウスの上に、白衣ではなく白いエプロンを掛けていて、その上に紺色のカーディガンをはおっていた。軽く顔を傾けてこちらを向いた顔は、なんとなく気怠そうだ。
『心外ですね先生。授業時間外に教師と生徒が一緒に居ることの方がはるかに問題だと思いますが。』
油絵具の匂いが鼻に付く室内は雑然としている。そこに足を踏み入れたヒカルは、その匂いが嫌いではなかった。
モニーク先生は女性にしては珍しくほとんど香水の匂いがしない。いつも、テレピン油の匂いがしている。本人は全く気にしていないらしくて、いかにも美術の先生らしかった。
生徒の作品を見て講評を書いていたらしい彼女の手元に、小型端末がある。黒のミニスカートがセクシーだと、今日も男子生徒たちが噂していた。
『どうヒカル。先生の言う事聞いてくれる気になった?』
大きな作業台はまるでベッドのようで。その上に腰を下ろしたモニーク先生は、ただそれだけの動作だと言うのに誘っているようにしか見えない。
美人で妖艶でどこか変わり者の美術講師。彼女が生徒を叱った所を見たことがなかった。だからと言って生徒になめられていると言うわけでもない。少し垂れた紫水晶の瞳に見つめられると、年上は趣味じゃないと言っていた男子生徒さえ動揺する。
『・・・先生こそ、僕の質問に答えてくれる気になりましたか?』
彼女が何故ヒカルの出自について知っているのか。誰から聞いたのか。
復縁を迫られた日には、それを尋ねずにはいられなかった。
貴方とお義母さんの関係について知っていることが有る、と彼女が言った時、彼女は今と同様にどこか気怠そうで。
それから、貴方がた双子の叔父がどこの誰であるかについても、と付け加えた時も、彼女は作業台の上に腰を下ろして、自慢の脚線美を見せつけるように足を組んでいた。
『先生がどこから仕入れたガセネタかわからない事には、糺しようもないかと思いましてね。』
『ずいぶんと今日は強気なのね。』
妖艶に笑う美術講師は、まとめていた金の巻き毛を肩に下ろした。
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