第7話 よくてツバメ
「嫌だった?」
「・・・何が?」
「僕のキス」
答えに詰まる。
正直に言って嫌どころか凄くよかったのだが、それを素直に答えていいものかどうか迷った。
しかし、嫌だと言えば傷つけてしまうかもしれないし、良かったと言えばそれはそれでかなりまずい気がする。
落ち着け、と声を立てず何度も自分に言い聞かせる。ヒカルの未来はこれからなのに、自分のようなおばさんに構っている時間が勿体ない。愛子の役目はあくまで母親なのだ。いつか彼がガールフレンドを紹介してくれたら、手作りのケーキでもてなしてあげるのが夢だったはず。本当はケーキは作れないが。
黙りこくっていると、ヒカルはまた柔らかく笑って顔を近づけてくる。
両頬に優しく唇が触れた。ミスズが母親にいつもしてくれるのと同じキスだ。親子のスキンシップ。口というより頬と頬が触れる感じ。
「このほうがいい?」
妹程は頻繁にしてくれないそれを、今あえて、あんなごっついキスの後にしてくれる意味がよくわからない。
「え、と、ごめん。なんていうか、混乱してなんて言っていいかわからない。」
そっとヒカルの胸を押し放して離れようとする。
「やだなあ、考えちゃ駄目だよアイコ。」
「は?」
「頭で考えたって駄目だよ。僕だってさんざん悩んで考えたんだ。でもその時間は無駄だった。何時間も何日も考えて、いろんな本なんか読んで研究したりなんかしても、無駄だった。ただ、こうやって触れば一瞬でわかっちゃうんだから。」
押した手のひらをヒカルの手が再度握る。
手のひらが滑らかな肌を滑って止まった。ヒカルの頬は凄く滑らかで柔らかくて温かい。手首に触れている指が熱く感じる。
「脈が速いよ、とても。・・・少しはドキドキしてくれたかな?」
「まっ・・・ママはね、年が年なんだからあんまり強い刺激を与えちゃ駄目。あんまり無茶すると、明朝血管が切れてそのまま病院行きになっちゃうんだから。」
慌てたようにそう言うと、息子の方は余裕の笑みで言い返した。
「すぐそうやって年寄りぶるんだから。僕が傍に居るんだから、黙って年取らせたりなんかしないよ。」
それはどういう意味で言っているのだろう。
労わる意味で?いつまでも若いママでいて欲しいって意味で?
白い指が伸びてきて、愛子の口元を拭った。
「ごめん、口紅が少しずれちゃった・・・。僕のせいだね、直して来る?」
そう言ってヒカルは立ち上がり、隣りから、向かい側の席へ戻る。
なんなんだ、その慣れた感のある台詞。喉まで出かかった言葉だった。
「ああ、うん・・・」
なんとなく返事をして、そのまま立ち上がる。化粧室は一両後ろだったはずだ。
「その色とても似合ってるよ。綺麗に直してきて。もう少ししたら食堂車も開くから。」
言われて気付いた。
今日のメイクはミスズ仕込みなのだ。娘のおすすめで買わされた口紅は、ちゃっかり彼女も兼用している。細かなラメが入った渋いレッドの口紅は、娘の年頃では少々老けて見えるのではないかと思ったが、上に淡い色のグロスを足すと凄くいいのだと教わった。
ミスズが選んだコスメで塗りたくられた私の顔は、人様に見せられない程真っ赤に違いない。
化粧室から部屋へ戻ろうとする足が重い。というか緊張する。個室には息子が一人いるだけだと言うのに、なんでこんなに緊張しなくてはいけないのだろう。
化粧を直しながら鏡で自分の顔を凝視した。
若い頃は、美人だねとよく言われた。ヒカルの父親にさえそう言ってもらったことが有る。社交辞令かもしれないが。ロンドンへ赴任してきたばかりの頃は、国籍を問わずよく異性から声がかかった。
けれど、今はもう過去の栄光に過ぎない。というか、その当時も、あの人一筋だったので、ろくろく男性と付き合いもしなかったのだ。
アラフォーにもなって、今更若い男に粉を掛けられるなんて。息子ほども若い子に、というか息子に。
鏡の中の顔は、18の男の子には到底つりあいそうになかった。よくて、若いツバメ、ってところか。
「いやいやいや、待って、落ち着いて。息子だから。ツバメじゃないから。」
ツバメを飼える程の財力など無い。公務員の自分に、双子の子持ちにそんな余裕はないのだ。いや、でも双子の片方がツバメならどうにかなる?自分で考えている事が我ながら意味が分からない。
ヒカルの声に、表情に、あの人を見る。
金の髪も青い瞳もないけれど、ヒカルは確かにあの人の息子だ。だからこんなに心が揺れてしまうのだ。そうに違いない。アラフォーにもなって、たかがちょっと口に噛みつかれたくらいで。
本当に、どうかしている。
廊下から部屋へ戻ると、ヒカルが端末で誰かと話している様子が見えた。
戻ってきた愛子に気が付いて、すぐに通話を切る。
誰と電話をしていたのか、彼の端末の画面に軽く触ればわかるのだけれど。
「エディンバラ城までの地図がこれだよ。中を散歩するの、面白そうだ。古代の城塞だったんだね。」
旅行用のソフトを立ち上げて、すぐに画面を切り替えた彼が写真を見せて来た。
母には知られたくない相手と話していたんだな、と把握する。
知ろうと思えば簡単にわかるけれど、追及することも、調べることもしなかった。
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