3-7 歩く練習

 私の「疲れた」という言葉を完璧に無視した提案をしてきたリンさんは眉をハの字にして言い訳を口にした。


「だってチホちゃん、まだお昼なんだよ?」

「えぇ、こんなにいろいろあってまだお昼なんですか……」


 確かに窓の外は暗くなっている様子はない。リンさんの言う通り、まだ夕方とは言えない時間帯のようだ。


 それにしても朝起きてから見える色が他の四人と違うことを知り、ゴーグルをつけられ、ケイさんの記憶を、アヤちゃんの過去を……。


「一日が濃い……」


 そうつぶやいてため息を漏らす私を心配してか、アヤちゃんが口を開いた。


「チホさんが旅を続けてた頃はこんなにいろいろな出来事が一気に起こることなんてなかったでしょうし……。その上歩く練習って、大丈夫なんですか、リンさん……?」


 そう尋ねられたリンさんだったが、彼女は嬉々として答える。


「それよー、確かにチホちゃんは今までにない程濃い一日、濃い日々を送ってると思う。だからこそ、体を動かさないと頭がパンクしちゃうんだ。いろんなこと思い出して、新しいことを知って……って頭を使ったら、体を動かさないとね。もともと毎日歩いて旅してたチホちゃんにとって体動かさないことはだんだん苦痛になってくるはずだし?」

「わかったような……わからないような……」


 唸るアヤちゃんをよそにリンさんはマルさんに声をかけた。


「ね、マル、ちょっと頼みたいんだけどいい?」

「なに?」

「あのね、一度チホちゃんを背中側から脇の下を持って、持ち上げてほしいんだ。要は、チホちゃんの顔が私たちに見えるようにってこと!」


 リンさんのリクエストを受け入れたのか、マルさんは無表情でスタスタと私に近づいてくる。車椅子に座っている私のうしろにまわり、躊躇なく持ち上げた。


「うわっ!?」


 いきなり視界が高く上がり驚く私にケイさんがけらけらと笑う。なんだか恥ずかしくなって私は少し頬を膨らませた。


「そうそう、ありがとうマル」


 私をじっと見つめたアヤちゃんが感想を口にする。


「すごくぷらーんって感じですね、チホさん……」

「そうだよね……」


 足に力が全く入らないので、私の脚はまっすぐに伸びている。まるで私の足は体を支えるためのものというより、ぶら下がっているような見た目だ。


「リンさん、私全く歩ける気がしないんですけど……」

「大丈夫大丈夫。ちょっとずつ進めていくから。マル、ゆーっくりおろしてあげて? チホちゃんは自分で足動かせないから、足の裏が床ににつくように角度に気を付けてゆっくりね」


 少しずつ足が床に近づいていく。ぴた、と下がっていっていた視界が止まった。つまり、足が地面についたのだろうか、感覚がほとんどないので確証も持てない。目線を下に向けると私がいつも履いている靴を真上から見ることができた。


 マルさんに支えられながら立っていることを視覚的に実感したとき、リンさんがマルさんに言った。


「じゃあマル、手をチホちゃんから離して?」

「え?! ちょっと待っ……!」


 と言った私が顔を上げた時にはもう遅かった。マルさんの手が私から離れた瞬間目の前にいたリンさんとアヤちゃんが視界から消えた。私の両脚は自身の体重を支えられなかったのだ。


 膝を強く床に打ち付け、反動で上体が前に倒れる。反射的に出した両手を床についたが、右手のつき方が悪かったのか肘がかくんと折れて右肩を床に打つ。


「チホさん!!」


 アヤちゃんが叫び、私の横にしゃがみ、体を起こしてくれた。上体を上げたことで少しくらっとした私を見て、アヤちゃんは心配そうだったが、私は案外冷静に真後ろに倒れなくてよかったと安堵していた。


「リン、いくらなんでも急すぎなんじゃないか? 俺たちならまだしもチーちゃんはお前のペースにはついていけないだろ、体調的な面は特に……」

「リンさん、せめて車椅子を動かす練習からでもよかったんじゃ……」


 同時に口を開いたケイさんとアヤちゃんにすっと手のひらを向けて制したリンさんは、私の前にしゃがみ、そして尋ねた。


「チホちゃん。今さっき、左足で踏ん張ったよね?」

「え? いや、踏ん張るも何も……」


 踏ん張るも何も、私の両膝は床についているのだけれど……。視線を床からリンさんに移すとすぐ、視界がふっと高い位置に上がった。再び視界が下がったときようやく、マルさんが私を持ち上げて車椅子に座らせてくれたことに気づく。


「んー、やっぱり無自覚だよね。あのね、あくまで推測ではあるんだけど……」


 リンさんは立ち上がって、右手の人差し指を顎にトントンと当てながら私を見る。


「体の右側の障害が多いんじゃないかなと思うんだ。逆に言えば、左脚はすぐに戻ると思う」

「根拠は?」


 眉をひそめたケイさんの質問にリンさんはすぐに答えた。


「さっきチホちゃんにも聞いたけど、一瞬立とうと踏ん張ってたのよ、左脚が。コンマ何秒とかのレベルでだけど」

「お前、よくわかったなそんなの……」


 まあね、とリンさんはケイさんの方を振り返りつつ続ける。


「もともといろいろと予想を立てたうえでやってみた実験だったから分かったのよ。たぶんチホちゃんの右眼は外からダメージを受けた。そしてそのダメージは脳内までいってて、右眼から始まって右手、右腕や右脚って感じで体の右側が動きにくくなってるんじゃないかなって。さっき右手も床についたのに体を支えられなかったこともそれで説明がつくし」


 ここまで一気に話したリンさんは私の手を取ってこうべを垂れた。


「今日はさ、これが確かめたかったんだ。無理させて本当にごめんねチホちゃん 」

「そ、そんな……顔あげてください、リンさん。私の体のことがわかっただけでも……」


 そんな会話をする私たちを見てケイさんが「いやいや」と間に入る。


「それなら初めからそう言えばよかったのに。なんでも急にやるからチーちゃんに負担がかかるんだぞ。チーちゃん、そいつにそんなに優しくしたらだめだ。チーちゃん無理してるだろうし、言いたいことははっきり言わないと。許したら絶対こいつすぐ調子乗る――」


 厳しくしようとするケイさんの言葉はすぐにリンさんの声でかき消された。


「チホちゃんー! 優しい……許してくれるなんて……!」

「わっ?!」


 急にリンさんが抱きついてきた。それを見たケイさんのため息と呆れ笑いがが、アヤちゃんに小さな笑い声が聞こえた。


 二人につられて口角が上がりかけたとき、リンさんが大樹ついた勢いで車椅子がじりじりと後ろに下がっていることに気づいた。


「わ、わ、リンさん、車椅子が……」

「あ、ほんとだ。ごめんごめん」


 パッと体を私から離したリンさんはなにやら車椅子の左のタイヤの近くに手を伸ばした。身を少し車椅子の左側に乗り出すとリンさんがレバーを押している。


「それは……?」

「これはね、ブレーキだよ。これを手前に引けばタイヤが転がらなくなるんだ」


 私にブレーキの効果を見せるかのようにリンさんは車椅子を押す。多少は揺れているけれどさっきのように車椅子は後ろに下がらなくなっていた。


「おお……、すごい、このレバーだけで……」

「今日はこっからが本題なんだよー、チホちゃん! 歩く練習! 始めよう!」


 楽しそうな表情をしてリンさんはそう言った。でも私は立てないし右脚が特に動かないんじゃないかということが分かった直後なのになぜそんなことをまだ言っているのかがわからない。それに私は今日はもう疲れたのだけれど……。


 代わりにアヤちゃんがリンさんに質問をする。


「歩く練習って……? もうチホさんが今すぐに立てないってことが分かったんですし、今日はもう……」

「アヤちゃん、固定概念を捨てないと……! 今からするのは練習だよ!」

「ぇぇ……」


 気の無い心の声が漏れた私だったが、ここまでリンさんに振り回されても不思議と嫌な気持ちにはならなかった。アヤちゃんもケイさんもやれやれといった表情をしていたが、リンさんの楽しそうな顔を見て笑顔に変わる。マルさんも表情こそ変えないものの、嫌な顔はしていなかった。


 全員が付き合ってくれたおかげで、練習というよりも楽しいだんらんのような時間を過ごした。私が少し休憩している間に他の誰かが乗ってみたとき、さすがは運転が得意な《ハーフ》なだけあってかアヤちゃんは異様にうまく乗りこなしていたり、ケイさんが超がつくほど下手だったり、笑顔が絶えない時間だった。当の私はと言うと、慣れるまで時間こそかかったもののある程度は自分の行きたいところには行ける程度までは乗りこなせるようになった。



 久しぶりに体を動かしたからか、楽しい時間を過ごしたからか、時間はあっという間に過ぎていた。気づけば窓の外もどっぷりと暗くなっている。自分の部屋に戻る前にリンさんが「無理やり見えるようにしてるものだし疲れたでしょ?」とゴーグルを取ってくれた。


 ベッドに横になったとき、私は一人で旅をしていた頃を思い出した。旅の目的が思い出せないことも、目や脚がうまく動かなくなったことも全く嬉しいことではないが、あの頃何かを楽しいと思ったことも、何かを、誰かを思い出して口元を緩ませながら眠ることもなかった。そんなどこか暖かいような、くすぐったいような気持ちを胸に私は目を閉じた。

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