降る空ノ鼓動

詩一

第01幕『静寂』

第01話 音喰い――01

 音喰おとぐいだ。


 通学途中、市営巡回バスの停留所に突如として現れた。ズタボロの服を着て白目をむいた30くらいの男性が、バス停の屋根の上に登り、辺りを見回している。と言っても見えはしないのだろうけど。


 普段の僕なら見た瞬間にきびすを返す状況。逃げるしかない対象。けど、そういうわけにはいかない。なぜなら音喰いのすぐ真下にあんが居るから。どうやら彼女は音喰いに気付いていないようだ。文庫本とにらめっこしている。僕は彼女に向って走り出した。杏は僕を目の端にとらえたのか、顔を上げる。栗色のミディアムボブがふるりと揺れ、艶やかな毛先がブレザー越しに肩の上で踊った。目と目が合うと彼女は大きな栗色の瞳をぱっと輝かせてこちらに向かって手を振った。


 まずい。


 僕は瞬時にスクールバッグに取り付けてある防犯ブザーのピンを引き抜いて放り投げる。なるべく遠くへ。


「おは——」

 ——ジリリリリリリリリリリリ!


 杏の挨拶の言葉は防犯ブザーのけたたましい電子音によりかき消される。

 音喰いは跳ねるように屋根から飛び降りる。反動で屋根の鉄骨が変形する。着地すると、そのまま歩道に転がった防犯ブザーに向かって走り出した。

 真後ろを掠めるように走り去った音喰いに、杏はぎょっとして思わず声を出しそうになったようだが、両手で口を押さえて声を殺した。

 周りにいた他の学生たちは小さく声を漏らしたが、すぐに手で口を塞いだ。


 僕は杏の元まで辿り着き、直立不動の彼女の手を引こうとした。しかし彼女の体が硬直していたせいで、そのままズデーンと地面に転ばせてしまった。文庫本が宙を舞い、それをキャッチする。


「ごめん杏」


 手を引っ張って上体を持ち上げ、彼女の膝裏に腕を回して抱きかかえた。グリーンのタータンチェック柄のプリーツスカートがたらりと下がる。


「コトヨシ!?」


 彼女は驚きながらも反射的に僕の首に腕を回した。スカートが捲れ上がらないように、太ももをきゅっと閉じている。


「逃げるよ」

「でもまだ人が……!」


 杏が悲痛な顔を見せる。

 全員逃げたと思っていたが、一人の男子生徒がまだ残っている。そこは音喰いが目の前を走り去った位置だった。それで腰を抜かしたのか、起き上がれないままわめいている。立ち上がろうと足をばたつかせるたびに、アスファルトを擦る音が鳴る。そこにはオレンジ色の光の帯が見えた。『助かりたい』『死にたくない』という意思が見える。音喰いが防犯ブザーを割る音が聞こえると、周りにはパニックに陥った男子生徒の声しか無くなった。


「ジリリリリリリリリリリ!」


 先ほどと同じ防犯ブザーの音の出どころは、音喰いの口だった。まるで生徒の声に共鳴するように、けたたましい音が周囲を包んだ。目は相変わらずの白目で表情は読み取れないが、口角が少し上がったか。口の端からは光の帯が伸びて、『もっと音が欲しい』という言葉が見えた。


 このままだと男子生徒は音喰いにやられる。けど、僕が行ったところで太刀打ちができるわけもない。まして助けに行ったら、杏が一緒に来てしまうかも知れない。そんなことがあってはならない。このまま杏を抱えて走り去った方がいい。迷っていたらやられる。逃げよう。


 音喰いが男子生徒に飛びかかった刹那、発砲音が連続で聞こえた。同時に、ブロック肉をまな板に叩きつけたような鈍い音が鳴り響く。


 男子生徒が悲鳴を上げる前で、音喰いは膝から崩れ落ちた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る