2.わたしはまだ、待ち続けられる

 何も持っていないと思っていたが、女性はポケットにスマホを入れていたようだ。どこかに電話をして「また後で」みたいなことを今度は日本語で言っていた。


 さっきのは……聞き違いだったのだろうか。

 いや――そんなことはない。


 わたしと女性は神社の境内にある、ベンチに腰かけた。

 蝉の声が鳴り響いている。今日は気温が高いが、ここは木蔭も多く、風通しも良いのでかなり涼しく感じる。


「あの……私、上条朝日かみじょうあさひ、といいます」


 女性がぺこりと頭を下げた。


「あの、中平さん。さっき、石段をすごいスピートで上がってきましたよね? 私、てっきり若い人がジョギングでもしてるのかと思ったから、びっくりしちゃいました」

「ははは……。わたしはこれでも昔、警察官でしてね。足腰には自信があるんですよ」

「そうなんですか……警察官。大変なお仕事ですよね」


 警察という言葉に変な反応をすることもない。やはり、犯罪者とかそういう類ではないようだ。

 しかし……。


「もう二十年近く前の話ですけどね。今はこの山奥でのんびりと暮らしています」


 わたしがそう言うと、朝日さんは「そうなんですか」と相槌を打ったものの、神社の境内をキョロキョロと見回した。


 何かを探しているのだろうか? 妙に落ち着かない様子だ。しかし、わたしを警戒しているという感じではない。

 ひょっとしてここがどこだか分かっていないとか……?

 ――例えば、あの大木から急に現れた、とか。


 わたしは思い切って探りを入れることにした。


「いえね、この神社には定期的にお参りに来てるんですが、若い人がいたことはないのでね。ちょっと驚いてしまって……年甲斐もなく張り切ってしまいました」


 朝日さんは笑顔のままだったが、ピクリと震えた。

 わたしは話を聞いたとも様子を見たとも言わなかったが……多分、ひっかかるものがあったに違いない。

 つまり、さっきの誰かとのやりとりには――隠さなければならない重要な意味がある、ということだ。

 しかしそれにしても……何と言うか、嘘のつけない素直な女性だ。


「お孫さん、都会で働いてらっしゃるんですか? さっき、帰ってくるって……」


 朝日さんがさっと話題を変えた。わたしの推測は、どうやら間違いではなさそうだった。


「いえいえ。地元のT大の1年生ですよ。ここから通うのは不便だから、市内にアパートを借りてるんです」

「なるほど……」


 朝日さんは何かを納得したように何度も頷くと、ちょっとホッとしたような顔をした。

 もう辺りをキョロキョロすることもなく、落ち着いている。

 多分、わたしの台詞から今居る場所がわかって、安心したのだろう。


「朝日さんも大学生ですか?」

「えっと、まあ、そうです。でも、どうしてですか?」

「平日の昼間に、二十歳ぐらいの女性が友人の家に来るとしたら、社会人ではないでしょう。夏休み中の学生さんしか考えられない」


 わたしがそう言うと、朝日さんは「えーっ!」とものすごい叫び声をあげた。そして何故かとても嬉しそうな顔をした。

 予想外の反応だったので少し驚いていると

「そんなに若く見えてたなんて嬉しい! 私、26歳なんです。ちなみに子供もいます」

と言って、とてもにこにこしていた。


「えっ……」


 今度はこちらが驚いてしまった。


「でも、大学生って言ってませんでしたか?」

「えっと、正確には大学院生です。完全な脛かじりなんです」


 朝日さんはそう言うと、ちょっと恥ずかしそうに笑った。


「いろいろあって高校中退になってしまったけど、頑張って高認とって、勉強して。で、2年遅れてしまったんですけど、大学は医学部に入ったんです。それで医師免許も取ったんですけど、私、将来やりたいことがありまして。それで、生物系の大学院に入り直したんです。今、修士の一年です」


 若く見られたのがよっぽど嬉しかったのか、にこにこしながら話している。

 しかし、こんな見知らぬじじいにそんなことまでペラペラ話していいのだろうか。

 他人事ながら、わたしは少し心配になった。


「やりたいこと?」


 わたしが何気なく聞き返すと、朝日さんはちょっとハッとしたあと

「それは……内緒です」

と言って「あはは」と少し困ったように笑った。


 高校中退と言っていたが……ひょっとして、その時に颯太のように異世界に飛ばされてしまった――そういう可能性もあるのではないだろうか?

 しかし彼女は日本に帰ってきている。だとしたら、颯太も帰ってこれるのでは……。


「この神社、何だかとても不思議な場所ですね。今度、あきらも連れてこようかな」


 朝日さんは独り言のように呟いた。


 暁とは、おそらくお子さんの名前なのだろう。

 ひたむきで、一生懸命で、子供を抱えながらも目標に向かって頑張る、まっすぐな女性なのだということはよく分かった。


 ――ひょっとすると、真正面から聞いた方が正直に答えてくれるかもしれない。


 わたしは覚悟を決めると、朝日さんに微笑みかけた。


「朝日さん」

「はい?」


 喉が渇いて、ゴクリと唾を飲み込む。

 自分の心臓の音が、やけに近くで聞こえる気がした。


「――ジャスラという国、ご存知ですか?」




 ザザザ……。

 神社の木々の葉が風に揺られて、涼しげな旋律を奏でていた。


「……え……」


 朝日さんの顔色が、明らかに変わった。

 ――なぜ、この老人が急にこんなことを? 

 そう考えたであろうことが、手に取るようにわかる。

 間違いない。彼女は――ジャスラを知っている。


「じいちゃん! やっぱりここにいたかー!」


 急に石段の方から声が聞こえ――わたしはハッと我に返った。

 振り返ると、十馬が石段を登って来たところだった。

 少し後ろから、ユズルくんも登ってきた。


「十馬……」

「今日帰るって言ってあったのに何で出かけてるんだよ。探しちゃったぞ」

「ああ……悪い、悪い」


 十馬の前でジャスラのことを聞く訳にはいかない。

 わたしは諦めて、ベンチから立ち上がった。


「え、あの……」


 朝日さんが少し慌てて立ち上がった。多分、ジャスラの話が断ち切られたから焦っているのかもしれない。


「さっきの……」


 彼女が何か言いかけようとしたので、私は少しだけ首を横に振り、目を逸らした。

 聞きたいのはやまやまだが、今は無理だ。


「……」


 何かを察したらしく、朝日さんはそれ以上何も言わなかった。


「――じいちゃん……ナンパしたの?」

「こら、何を言う」


 わたしよりかなり背が高い十馬の頭に、伸びあがって拳骨をする。


「イテテ……」

「失礼なことを言うな」

「だってさ……」

「ちょっと話し相手になってもらってただけだ」

「いや、それって……」


 わたしと十馬の会話を聞いて、朝日さんがくすくすと笑う。

 そして

「こんにちは。上条朝日と言います」

と言ってぺこりとお辞儀をした。


「中平さんのお孫さんですよね?」

「あ、そうです……。中平十馬です。じい……祖父がお世話になりました」


 十馬は律義に答えると、お辞儀をした。


「こっちは俺の友人のユズ……高坂譲こうさかゆずるです」


 十馬がユズルくんを紹介する。しかしユズルくんは、呆気にとられた顔をしたままぴくりとも動かない。

 内気な子ではあったが、挨拶ができないような子ではない。何か様子が変だ。


「ユズ? どうした?」


 十馬がユズルくんを揺すると、彼はハッと我に返り、慌ててお辞儀をした。


「あ……すみません、ちょっと考え事……してて……」


 そう答えたものの、まだ上の空だ。それにひどく、顔色が悪い。

 朝日さんの方を見ると、彼女はいたって普通だった。つまり、ユズルくんとは面識がない。本当にいま初めて会ったのだろう。

 じゃあ、何故ユズルくんはこんな態度なんだ?


「えっと……私、そろそろ帰りますね? 友人も戻ってくる頃なので……」


 朝日さんはそう言うと、にこりと笑った。

 どうにか話す機会を作りたかったが……十馬もいるし、これ以上引き止めるのもおかしい。

 諦めて溜息をつくと


「そうだ、中平さん。年賀状出しますね。せっかくお知り合いになれたんだし」


と言って朝日さんがスマホを取り出した。

 どうやら、十馬の前では話せないというわたしの事情を察してくれたようだ。


「ありがとう。とても嬉しいよ」


 わたしはそう言うと、朝日さんに住所と電話番号を教えた。彼女は登録すると

「それじゃ、また」

と言ってにっこり笑った。


「ああ。本当に……ありがとう」


 わたしがもう一度お礼を言うと、朝日さんは十馬やユズルくんにも会釈をして、そのまま歩いて去っていった。


 石段から彼女の姿が見えなくなると、十馬が

「じいちゃん、何かあったの?」

と不思議そうに聞いた。わたしと彼女の間の奇妙な雰囲気が気になったようだ。


「いや、何も。今どき珍しい、素直なお嬢さんだったよ」


 わたしがそう答えると、十馬は「ふうん」と呟いて、分かったような分からないような顔をしていた。


 そういえば、彼女の連絡先を聞くのを忘れてしまったな。

 でも……きっと、どうにかなるだろう。

 この出会いが、わたしとジャスラを――そして十馬と颯太を、再び繋げてくれるに違いない。


 颯太――わたしはまだ、待ち続けられそうだ。

 だからお前は、お前に出来ることを精一杯やるんだぞ。

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