海が太陽のきらり

竹神チエ

第1話

 祖父は人魚を見たことがあるという。


 高校二年の夏、祖父は母親の実家があるN町に来ていた。

 その町は祖父が暮らす町に比べるとずいぶん田舎じみていて、服装ひとつとってもひと昔前にタイムスリップしたかと思うような時代遅れな景観だった。


 同じ年頃の子はいたが、どの子もいがぐり頭かおさげ髪。

 勉強よりも家の手伝いに駆り出されるか、畑を荒らして回るのが最高の悪事だと思っているような輩たちばかりだ。幼少期から私学に通っていた祖父と話が合うわけもない。アンデルセンといって、「安全性?」と訊かれる始末なのだから。


 そんなつまらない田舎にもひとつだけ、興味深いものがあった。

 海だ。母親の実家は高台にあり、自転車でカラカラと一気に下り坂をゆけば、数分もかからぬうちに海辺まで到着する。


 海は空の青さを吸収したかのように色濃く、そしてまぶしくきらめき、夏の滞在中、いつも祖父を明るく迎え入れ、爽快さで満たしてくれた。早朝、畑の手入れを手伝うと、日が登り切るころには、祖父は迷いなく海へ行った。そこで何時間も時間を潰す。夏の日差しは苦になるほどにはぎらつかず、帽子をかぶってさえいれば、日中でも快適に過ごせたそうだ。


 そんな夏を過ごしていた祖父だが、彼は海へ泳ぎに行っていたわけではない。

 むしろ泳ぎは嫌いだった。


 なぜ人間が水の中を泳がなければならないのか。それも楽しみのために。

 祖父は泳ぐのは魚類のすることだと思って敬遠していた。

 人間、陸にいれば十分だ。肌は鱗ではないし、耳はヒレでもない。


 かつて幼い日に海で溺れかけたことが原因でもないわけでもなかったが、もっと知的な理由で「泳がない」のだと、彼は自分自身に言い聞かせていた節もある。


 そんな祖父だが、ある日を境に海で泳ぐようになった。

 それは、いつものように海へ――彼はスケッチブックを自転車のカゴに乗せていたのだ――絵を描きに行った日のこと。


「海斗」


 突然、名を呼ばれた祖父は肩を跳ねさせてふり返った。

 そこにはいつも遠目に見ていたあの子が立っていた。

 驚いた祖父は目をしばたかせる。


 彼女は、夏の日差しを幾日も浴びているはずなのに、肌は白いまま色づくことを知らぬようで、それでいて青白いわけでもなく、朱を一滴落としたかのように健康的な色をしていた。遠目にも色の白さが際立っていたので、育ちのいい子なのかもしれないと思っていたが、こうして間近で見ると、簡素な無地のワンピース姿とはいえ、予想以上に「お嬢さま」といった雰囲気だ。


「あなた、いつも私のこと見てるでしょ。それ、私よね?」


 祖父は何も答えないでいたのだが、それを気にする風もなく、彼女はずかずかと無遠慮に近づいて来ると、祖父の手にあるスケッチブックを指さした。そこには、海の中、ひとり泳ぐ少女の姿が描かれている。とっさに祖父はスケッチブックを胸に押し付けると、隠すように体をまるめた。


「い、いや」


 耳まで赤くして、すぐに否定したが。

 じっとにらみ腰に手を当てている彼女に気圧されて、


「ごめん。描いてた」


 そう、あっさり白状した。祖父は海を泳ぐ彼女を描くために、こうして海辺に来ては何時間も過ごしていたのである。いつも彼女を見かけるわけじゃないが、いなければいないで、いつ来るかと待っている。そんな、十七の夏。


 冷静に考えるとかなり危ない人なのだが、当時は遠目に見るくらいは風景の一部と捉えていたので気にしたことはなかった。


 しかし、向こうに気づかれていたとなれば話は別だ。祖父がいた場所は海辺だが、やや丘のようになった場所で、大小の草木が茂っている。その内の紅い花を咲かせたキョウチクトウの陰から、向かいにそびえる崖の下、舞台のように丸くぽっかりと海水がたまっている岩礁の入り江をひとり泳ぐ彼女を、斜めに見下ろすような形で見ていたのだ。すっかり隠れているつもりで、また、あちらからは意識して見上げないかぎり姿は見つからないと踏んでいた。


 それなのに彼女は、


「私、目はいいの」


 そう言って、指で丸を作ると目をのぞかせる仕草をする。


「最初は警戒したけど。でも、気になって。ここまで上がって来るの、大変だったのよ、海斗くん」


「あ、あのさ」


 怒っているわけでもなく、楽しんでいる様子の彼女ではあるが、祖父は申し訳なさに身がすくんだ。それと同時に疑問もわく。


「なぜ、名前を?」

「ああ」


 くすりと笑うと彼女は肩をすくめて、あごで「それ」と祖父の背あたりを示した。首をひねって見れば、はっきりと名前が記された布カバンが、それも学校名と住所まで書いてあるかばんが背に寄りかけてある。いつも通学時に使っているもので、休暇中でも荷物がよく入るものといえばこれくらいしかないという理由で持ち歩いていた。


 こんな知り合いもいない、作る気もない場所で。

 何を着て、何を持って、何をしていようと恥ずかしくないと思っていたのだが。

 祖父は急激にあがる体温にいやな汗をかいた。

 急いでかばんもスケッチブックといっしょに抱え込む。


 くすくすと笑う声が打ち寄せる波音と重なった。


「ずいぶん都会から来たのね。こんな田舎でうんざりしてるんじゃない?」

「いや、べつに」


 静かでいい、とか。親の実家だから仕方ない、とか。

 遊びには興味ない、ゆっくり勉強できていい。

 海は好きだ、波音は嫌いじゃない、とか。


 他にも言葉は次々と浮かんだが。結局。

 ばかみたいにソワソワと身じろぎするだけで何も言わずにいた。

 すると、


「私、陽子。太陽の陽で陽子。明日からは一緒に泳ぎましょうよ」


 明るい彼女の言葉が潮風に乗って届いた。

 それに、祖父は黙って、こくり、となぜかうなずいていたという。

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