第1章 恋愛 ≠ 結婚

「眼鏡をかけた顔」が正しいんだっけか



 高校は思ったよりも華やかじゃなかった。

 そう思ったことがある人はきっと多いのだろう。特にドラマやアニメを多く見る人間でなくても、ある種の「青春バイアス」を持ち合わせ、期待を胸に膨らませて入学するからだ。   

 しかし、大学は高校に比べてどうか。物語の舞台になることは比較的少ない印象だ。それなのに、俺は高校以上の期待をなぜか大学に抱いていた。もちろんそれもただの幻想にすぎなかったのだが……。


「疲れたな」


 五限の講義の終わりを告げるチャイムの残響と雑談の中、息をついて立ち上がる。レトロな印象を与えるレンガの校舎を出ると、繊維の隙間を縫うような十二月らしい風が、ひゅうと吹いて身体をさらった。

 夏に見た夜空とどこか違う澄み渡ったその藍色を、ただただ美しいと思いながら、俺は帰路についていた。


 今日もまた、昨日までと同じように無色という色で、時間をなぞっていく。


 本当なら、高校よりも充実した人間関係を築いて、好きなだけ学問に勤しむ予定だったのに。いや別に高校が悪かった訳では断じてない。

 ただ、大学なら素の自分をもっと曝け出せる人間が多くいるんじゃないかなんて、ひたすら甘く考えていたのだ。

 しかし、二年生にもなればこんな変わり映えのない日々にも慣れ、ただ満足はせず、どこか心の帰る場所を求めているようだった。


 高校みたいな閉鎖的空間じゃないと、俺みたいな奴はコミュニケーションに向かないんだよな。いや、別に交友関係の狭さに不満はない。断じてないんだが……。


「よっ、一瀬いちのせ


 突然近くで声を掛けられ、反射で俯いていた顔を上げる。知ってるような知らないような、顔をかけた眼鏡が手を振っていた。

 ふむ、誰だろう。

 こんな顔、じゃなくてこんな眼鏡、うちの大学には腐るほどいるんだが……。


「お、よう」


 逡巡するのも束の間、とりあえず言葉を返す。

 しかし、歩みは少し緩めるものの止めはしない。立ち話なんてしようものなら、彼のことを1ナノミリも覚えていないことが露呈してしまう。

 まぁ覚えていたとしても、結果は同じだが。


 関係が明瞭じゃない人との会話なんて気が進むものじゃないからな……。


 彼も別に長話をするつもりではなかったようで、笑顔で手を振って俺が来た道へ去っていった。


「こんなんばっかやでほんま……」


 千葉生まれ千葉育ち、落花生好き大体友達(要出典)の俺が、ふざけて関西弁で呟いてしまうくらいには、大学の人間関係は希薄なのだ。

 いわゆる「よっ友」と呼ばれるやつだ。そんなストレスにしかならない知り合いは捨ててしまえ。と思いつつ、自分に嫌われる勇気がある訳ではない。


 本当に、我ながら面倒臭い性格だ。


 帰路の途中でコンビニに立ち寄って、テキトーにサンドウィッチとゼリー飲料を手に取る。後は気分で菓子などを選んでレジに運ぶ。

 今日はたけのこ型のチョコを買うことにする。もちろん対抗馬を自ら買ったことなどない。

 絶対の忠誠である。


 借りている下宿は大学構内から15分ほど歩いたところのアパート。

 ほぼ東大生専用みたいなものなので、顔見知りとすれ違うこともしばしばある。だが、今日は三階の自室までに誰にも会わずに済んだ。


 照明をつけると、安い家賃の割には十分な間取りが視界に現れる。トイレ風呂が別で、脱衣所までついてるところが個人的にはポイントが高い。

 ダッフルコートを脱いで、教科書の入ったセカンドバッグとコンビニの袋を床に放る。そのままベッドに飛び込むと、ぎしぃと少しだけ軋む音がした。

 身体に蓄積された疲労をマットレスに沈ませながら、ぼーっとSNSを眺めること数十分。


「……」


 空しい。

 こんな虚無以外の何物でもないモラトリアムを、誰かが〝人生の夏休み〟と呼んだらしい。そいつはさぞ人に恵まれていたことだろう。羨ましい限りだ。

 そう、羨ましいのだ。それはこの際認めてしまってもいい。

 しかし問題なのは、だからと言って人に軽率に甘えられる訳ではないってことだ。


「こういう時に男は彼女がほしいとのたまうんだろうか」


 しかし、俺はそうとも思わない。

 恋愛の甘酸っぱさなんて高校で死ぬほど味わった。それに、あの人以外を好きになれる気配が未だにないのだ。

 そろそろ壁紙のシミが彼女の顔に見えそうで、思わず毛布にもぐりこんだ。

 まったく、顔ニューロンが活発で困ってしまう。


 ブルルル……ブルルル……。


 ポケットが唐突に周期的に震え出した。正確にはポケットの中のスマートフォンに着信が来たことになる。


「はあぁー」


 今日は、どう足掻いても他人と関わらないといけないらしい。

 のっそりと起き上がりつつ、四コール目で電話に出る。相手は……いなふじ蒼士そうしとディスプレイに表示されていた。

 俺の大学時代に出会った数少ない友人のひとりである。


「おいこう。いまから暇か? どーせ暇だよな! 今から来い」

「は? おい急すぎるだろ。それに来いってどこにだ」

「暇なのは否定しねぇんだなっ」


 電話の奥でにやにやしている稲藤が容易に想像される。久々に話したが、腹立たしい茶化しは全く変わっていなかった。


「早く要件を言わないと切るぞ」

「ちょっくら飲み会に来てくんね」


 ……何を言ってるんだこいつは。

 俺がそういう類を毛嫌いしてるのは、稲藤もよく知っているはずだが。


「おーい、浩貴?」 

「悪いが俺はそういうのは……」

「まぁそう言わずに、ちょっと人数足りなくて困ってんのよ」

「知り合いのいない飲み会を、俺は地獄と定義しているが」

「地獄て。てか俺もいるし。それにこんな人肌恋しい季節に一人でいるのも寂しいでしょ?」


 さすが稲藤、的確に俺の心を読んでいる。


「今日は俺の奢りでいいからさ、お願い!」

「仕方ない」


 そうだな。自ら手を伸ばせないなら、無理やり手を引いてくれる奴くらい、大事にせねばならないだろう。

 そういう意味で、対極な性格とも言える稲藤を、俺は密かに尊敬していた。

 コートを羽織りなおして、家を出る準備をし終える。奢りとはいえ、念のため財布は持っていくことにした。

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