第59話 竜の血


 人はどうしようもない状況の中で辛いことが起こると、精神の安定を保つために脳がドーパミンに似た物質を出して躁状態になる。

 こんなことは大したことではない、自分は大丈夫だと、そうやって誤魔化し自分を騙して正気を保とうとするらしい。

 六華の目に、大河はまさにその状態に見えた。


(きっとこの人は、小さいころからずっと……そうやって傷ついた自分を誤魔化して……)


 彼の幼いころなど知るはずもないが、きっと樹とよく似ていただろう。


(今までこの人を護る人はいなかったの……?)


 樹とよく似た小さな男の子が、自分を要らない子だと思いながら、大粒の涙を流しているところが目に浮かんで、胸が切り裂かれそうになった。


(だめだよ、そんなの……!)


 六華の喉の奥から、熱い塊のようなものがこみあげてくる。

 我慢して、我慢して、そしてすぐに耐えきれなくなった。


「……てっ……」


 六華の唇から悲鳴ににた言葉がこぼれた。


「え?」


 よく聞き取れなかったのか、大河が少し不思議そうに首を傾げた。

 長いまつ毛が不安定に揺れながら、六華の唇に視線が向けられる。


 自分を見つめる黒い目が、樹と重なる。

 愛している存在が傷ついているのに、守ることもできない。

 こぶしで胸の真ん中を力いっぱい殴られたような、やるせない気持ちになる。


「だから……そんなこと言わないでって、言ってるんですっ……!」


 六華は身を振り絞るようにして叫ぶと、椅子から立ち上がりそのままテーブルを回って体当たりをするように大河の胸に飛び込んでいた。


「自分のことを、出来損ないなんて、そんな悲しいことを言わないで……! あなたは出来損ないなんかじゃないっ! わたしの、私の、大事な――」


 樹の父親で。

 そして唯一愛した、大事な人だから……!


 六華は言葉を飲み込み、その代わりに精いっぱい腕を伸ばし、きつく大河を抱きしめていた。



 それはおそらくほんの数分の出来事で。傷ついた大河を癒すにはまったく十分でない時間だったが、大河は緊張したように体を硬直させたまま、黙って六華に抱きしめられていた。

 ぎゅうぎゅうと自分の胸におでこを押し付ける六華を見下ろして、大河はなにかを言おうと唇を開き、けれど言葉が見つからないまま唇を引き結ぶ。

 さらに何度か六華の背中に手のひらをのせようとして、結局それができず拳を握り、手を下ろしていた。

 今まで何度も六華をその手に抱き寄せ、口づけたり、からかったりしてきたはずなのに、今は指一本触れられない。

 普段は心の奥底に押し込めている劣等感が顔をのぞかせた結果、六華に触れていいものなのか、戸惑わせたのかもしれない。

 そんな大河の心のうちに吹き荒れていた嵐のような葛藤に、六華が気づくはずもない。

 ただ駄々っ子のように大河にしがみついて、辛い思いをしないでほしいと願うばかりだった。


「――六華」


 大河の呼びかけに、六華は顔を上げる。


 なにを言われるのだろうと緊張したが、

「ありがとう」

 と、感謝の言葉を口にする大河の目は穏やかだった。

 先ほどのような自嘲の気配もどこかに消えている。


「あ……」


 すると途端に、自分がしていることが恥ずかしくなった。


「いえ、あの……急に抱きついたりして、すみません……」


 変に思われなかっただろうか。我ながら大胆なことをしてしまった。

 六華はそっと腕を下ろして、視線をさまよわせたが、


「いや、嬉しかった」

「えっ」

「ここが俺の部屋ならな。間違いなく押し倒してるよ」


 大河がいたずらっ子のように唇の端を持ち上げてほほ笑む。


「ちょっとー!」


 六華は顔をトマトのように真っ赤にして、ざざざーっと後ずさり距離をとった。


「あはは! 素早いな」

「だって変なこと言うから! っていうか私は押し倒されたりなんかしませんからねっ!」

「わかってるよ」


 大河はふふっと笑いながら顎先にこぶしをあて、切れ長の目を細めゆったりとうなずいたのだった。





「じゃあまた明日な」

「はい、また明日」


 坂下門の手前でくるりと踵を返して立ち去る大河に手を振って、彼の背中を見つめる。

 歩いている後ろ姿も美しく、いつまでも見守っていたい、そんな気になる。


 出会った時から人とは違うと思っていた。十八歳の六華の目に、久我大河は輝いて見えた。

 唯一無二、自分はこの人に出会うために生まれてきたのだと本気で感じた。

 そんな六華の勘は間違っていなかった。

 竜は人を魅了せずにはいられない生き物なのだから。


(久我大河は竜の一族……。そして角を持たずに生まれてきた『ツノナシ』)


 六華の胸に不安がよぎる。


(ということは樹も……竜の血を引いているってことだ……)


 それは六華の肩に重くのしかかる真実だった。

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