第26話 ピアノの聞こえない音楽室で①
音楽室に、ちゃんと扉から入るのは初めてだった。今まで生徒会室を通り抜けて窓から音楽室にはいっていた。なぜか扉に鍵を閉めている雪姫のせいで。
防音らしい横開きの重い扉を開ける。今回は鍵をかけられていることもなく、素直に開いた。
だけど、意外だった。
ピアノの音がしない。すこし寂しかった。
もう一枚、同じような重い扉があるからかもしれない。この扉を開けると、ピアノの音が聞こえてくると思った。
窓から来るときは、いつもピアノの音に聞き耳を立てていた。静かにひっそりと窓の下に張り付いたりして、ピアノを弾く雪姫の横顔を覗き見ていた。声を掛けないのは悪いと思う。けれど、伝えたい一言があって、聞いてみたい言葉があって窓の外からなら正直に言える気がしていた。
ネットゲームしてる? とかアニメ好き? とか、会話にそうやって紛れ込ませて聞けばいいだけなのに、俺は出来なかった。
ブルームーンに会いたいと連絡することもできず、雪姫にブルームーンか?と聞くこともできない。俺はいったい何がしたいのかわからなくて、いやになる。けれど、ひとつだけわかるのは、最近ゲーム友達のことばかり考えているということだった。
結果、やってることが完全に雪姫のストーカーだし、ブルームーンに対しては、一緒にゲームしてるのに、ゲームに集中できていないお荷物野郎に成り下がっている。
もし、俺の立場が美月なら、思ってること素直にきっぱり言うんだろうなと思う。
あれ、なんで、いま美月が出てきたんだろう。
俺はもう一度、扉を開けた。
やっぱり、ピアノの音がしなかった。
この音楽室に近づいて、ピアノの音がしないのは初めてだった。
音楽室はしんみりとした静けさで、俺の足音が響いた。木の床を靴の踵が、こつんと音を立てる。
ピアノの音が静かなだけで、雪姫がいないと決め込んでいた。
肩すかしをくらった気分だ。昨日、雪姫が楽しみにしてたから笑ってくれるだろうと思ってたのに。
雪姫がいつもピアノに向き合っている席を、なんとなく見た。
背筋が凍る。自然に唇が開いて、口があいた。声を出そうとする。肺に息が無い。息を吸おうとする。うまく、できない。
呼吸ってどうやってするんだっけ。
「ゆき、ひめ」
返事はない。
倒れている雪姫から返事がない。
雪姫は、音楽室の床に転がっていて、声を出さない。
雪のように白い顔は、それはとてもきれいで、つくり物のようで、血の色を帯びていなくて。
「だれだっけ」とかいう憎めない言葉とか、会話の中で出てくる「おー、おー」とか2回、繰り返して言う言葉とか、静かな口調とは逆に、大きな声で笑う姿とか。そんなことばかり思い浮かべるけど、目の前に倒れている雪姫は人形のように美しい。
もともと雪姫には儚さがあった。触れてしまったら消えそうな程、実感がないというか。
もし音楽室に幽霊がいて、それがピアノを弾いていると言われれば雪姫のことだろうなと思う。そんなオカルティックなことを信じそうになるぐらいだ。
雪姫は、長い美脚を赤ん坊のように引き寄せて、背中を丸くして、両腕を胸の前に揃えている。口は少し開いていて、目は堅く閉じられていて、長い長い黒い髪が床に扇状に広がっている。
ピアノを弾いていた精巧な人形が、急に糸が切れたように力尽きていた。
うるさい音がなっていると思ったら、俺の心臓の音だった。
膝を地面に付いた。俺の視界が揺れた。いきなり俺の膝から、力が抜けたせいだ。
地面を這って、雪姫にちかづいた。すごく、遠かった。
肩をかかえるように腕を通す。体を起こしてみた。雪姫の首に力が入らない。尖った顎が空を向き、黒髪が重力に逆らえずしだれていた。
「おい、雪姫。おい、おいっ。起きろよ、雪姫」
返事はない。
ぴくりともしない。
「……死んでる」
「いや、生きてるし。勝手に殺さないでくれよ」
「うわあっ」
「やっぱり。あぁ、やっぱり、雑音だ。雑音だと思った。雑音の声だった。おい、耳元でさけぶな、うるさいだろ」
「悪かったよ。いや、なに、寝てたのか?」
「ない、ない。雑音、ちょっと助けてくれ」
「なにすりゃいいよ」
「うん、うん。まず、あたしのサイフがそこのバックにあるから取り出してくれ」
片腕で雪姫を支えたまま、もう片方の手でスクールバックを引き寄せて漁る。長財布が出てきた。
「よし、よし。サイフを開けて。千円、抜いて。うん、ばっちり、ばっちり」
「俺は自分でなにをしているか全くわからない」
「雑音、パシりだ。売店へいくんだ。適当にたべもの買ってきて」
「なあ、雪姫。お前もしかしてさ」
「うん、うん。そのとおり。お腹へって動けなかった」
「はぁーーっ。ただのガス欠かよ。くっそ、驚いて損した」
「はははっ。聞いた、聞いた。雑音の真剣な声、しっかり聞いた。おまえ、あたしのこと大事なんだな」
「せっかくできた友達なのにって、思っただけだ」
「ふぅん、ふーん。そういうことにしとくよ」
「うるせっ。嫌いな食べもんは?」
「ない、ないよ。ちなみに昨日からピザが食べたい。ガッツリ食べたい。焼肉でもいい」
昨日、ピザに誘って、来れなかったのをまだ根にもってやがる。
「この時間の売店にあるものといえば、菓子パンぐらいだぞ」
「絶望した。あたし、もう生きらんないよ。最後に焼肉が食べたかった。ガクッ」
「死んだふりすんな。雪姫、常に顔色悪いからまじで心配になる」
「悪かったよ、雑音。心配させたのは知ってる。ごめん、ごめん」
「いいよ。売店、行ってくるわ。チョイスに期待すんなよ」
「ネタに走ったら、二度と口聞いてやんないからな」
「なんでバレてんの」
雪姫を抱えたままそんな話をしていた。抱き合うぐらいの近さが、なんだか恥ずかしかった。
「とりあえず、どこか座れよ」
「おもいついた。このまま売店いかないか?」
「俺がお前を抱っこしてか? いやだね」
「えー、えーっ。しょうがない。がまんするから、あっちの椅子に座らせてくれよ」
「持ち上げるぞ」
「あー、あーっ、撫でてる。ふとももの裏、撫でてる」
「不可抗力だ。おまえの足が長くて、スカートに収まりきってないのが悪い」
雪姫をお姫様だっこした。手足が収まりきらず、持ち上げにくい。華奢な体だなと思った。雪姫の線の細さは、花恋のように小柄の女性のそれだった。
「ちゃんとご飯、食べてるのか」
「それ、結構言われるけど、いっしょにご飯食べたらビックリすると思う」
「野菜しか食べないとか」
「ふふふ、逆だね、逆だよ。なんだ、なんだろ。すごい安心する。女の恰好してるけど、やっぱ雑音は男だなー」
「そういや、俺だってすぐにわかってたな」
「声だよ、声。雑音の声は特徴的だから。よく響いて、太くて、音色が豊か。クラスメイトと話してるのが、教室の前を通るだけでわかるよ」
「やめろ、くすぐったい」
「照れるなよ。ちょっとうれしいくせに」
「うるせ、ここ座ってろ。なんか適当に買ってくるから」
「はい、はーい。はやくはやくー」
机に突っ伏した雪姫が横顔を向けながら、そんなことを言って来る。とても楽しそうだった。
俺は、雪姫を音楽室に置いて売店へ行く。あんまり、人のいるところへ行きたくなかったけどしょうがない。さっきまでだれかいてくれたからよかったけれど、ひとりだと本当にこの格好でいることが心細くなる。そう思いながらも売店に急いで行って、急いで食べ物を買って来てやらなきゃいけない。なんて状況だよと笑っていた。コンビニで雑誌を立ち読みするほうが、よっぽど楽だった。
昼休みが終わりそうなころ、売店にひとはほとんどいなかった。ただし、商品もほとんどなかった。
仕方なく残っているもので適当に選ぶ。あんぱんとエネルギーゼリーと牛乳。俺に食い物を買わせたら、こんなチョイスになった。
白いビニル袋をぶら下げて音楽室に帰る。
音楽室に戻ると、雪姫は椅子に座って寝ている。ほんとうに力が入らないんだな。
「ゼリー食べるか。なんかビタミンとエネルギーチャージみたいなやつ」
「よしよし、思ったよりいいチョイスだ。ほかには?」
「あんぱんと牛乳」
「うん、うん。ちょっと張り込みっぽいチョイスだな。けど、ま、ありがたい。食べる気力はあっても動く気力がない。雑音、ざつおーん」
「わかったよ。手のかかるやつだな」
とりあえずゼリーからか。キャップをあけて、珍しくうるさい口に突っ込む。
「んむっ。むーっ、むー」
いきなり口にいれたせいで、びっくりしたらしい。低い声があがった。
けれど、すぐズルズル中身を吸う音がする。10秒チャージとはいかなかったが、すぐに中身がなくなった。
「ぷはっ。生き返るー。昨日の夜からさ、雑音が飯テロするからずっとお腹へってたんだよ。そういえば今日も朝から何も食べないで、お腹へったって思ってたんだった。あーっ、満たされたよー。あんぱんたべる」
雪姫の顔の横にパンと牛乳を並べる。
もぞもぞと雪姫は動き始めた。なんか動物にえさをやっている感じになる。ちゃんと食べるかな、食べてくれるかなって思う。
あんぱんと牛乳を食べた後、しばらくしたら雪姫がピアノを弾き始めた。ピアノの譜面台に譜面を乱雑に置いて、丁寧に弾き始める。
俺は教室に置いてある問題集を持ってきた。
『私の考えた最強の問題集 高校1年総集編』
何回みても、これはジョークかなと思うタイトルとまじめすぎる内容のギャップがひどい問題集。これをつくってくれる九鬼先生には悪いけれど、すぐに解いてしまいたいと思う。内容が面白いってのもあるけれど、九鬼先生が問題集を作って不安がってたから、良かったとか、悪かったとか、どちらでも良いから伝えたい。今のところ内容は良い感じだし。
俺はピアノの音を耳で聞きながら、静かに問題集を解くことにした。
やっぱ勉強するのめんどくさいって思って、すぐにシャーペンを投げようとする心と戦いながら。
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