匯畏憚-かいいたん-
遊安
第1話 夜歩く
残業で疲れた体を引きずるようにして
人がやっとすれ違えるほどの狭さの路地を
歩いていた。
自分と同じ目線の高さのブロック塀が圧迫感を与えてくる。
いつもの帰り道であるが、家までが途方もなく遠く感じる。
街灯も消え、密集する住宅のセンサーライトがたまにパッとついて道を照らす以外何もない。
あいにく月に雲がかかっていて、いつもよりいっそう暗い。
帰りたい、と心の中で呟いて笑ってしまった。
自分は今、家に向かって歩いているのに。
それほど疲れているのだろう。
仕事が大変なのではない。
単調で代わり映えのない仕事をして、
電車に揺られて、同じ道を通って
一人アパートの一室でテレビを流して寝る。
そんな変化のない毎日が繰り返されれば、
知らぬ間に疲れが溜まり、
たまの残業でそれがどっと体にのし掛かる。
もう年なのだろう。
普通に歩いているつもりが、
たまにズッズと革靴の底をアスファルトに擦ってしまう。
住宅街を抜けると、路地が広い道に交わっており視界が開いた。
角を左に曲がり、最初にあたる十字路を渡って少しいけばアパートに着く。
一灯式信号の黄色い点滅が眩しい。
ふと、道路の向こう、進行方向に人がいることに気づいた。
のりの効いていないスーツ姿のサラリーマンが俯いて立っている。
背中しか見えないが、
すり足で歩幅狭く歩いているところから
よっぽどお疲れか、仕事で何かあったのだろうと分かる。
出来ればこういう時、関わりたくないので後ろをついていくのだが…。
今日は疲れもあり早く帰りたかったし何しろその歩みだ。
こちらがどれだけ遅く歩いても追いついてしまう。
仕方なく早歩きで側を通る。
心の中で(お互い苦労するな。)と労って。
抜かして、少しした時だった。
「おい。」
後ろから声をかけられた。
低い年配の男の声だ。
(ああ、抜かすんじゃなかった。
機嫌が悪いと因縁をつけられちゃうことあるんだよな。)
と自分を責めて
相手の気を逆撫でしないために
努めて愛想よく「はい?」と振り向いた。
2、3メートル先だろうか、さっき抜かした男が見えた。
白髪混じりの頭はつむじが見えるまで俯いて、だらんとたらした両腕は手の甲をこちらに向けぼうっと立っている。
見れば見るほど、それは異様な雰囲気を漂わせている。
全身に脂汗がにじみ出て、ざわざわとした感覚が襲った。
(まずい。)
気づいた時には遅く、何故か体を動かせない。
男がゆっくりと顔をあげていく。
この内に逃げればいいのに、
足が吸い付いたように場から離れられない。
ゆっくりとゆっくりと
灰色の肌が見えていく。
顔を見てはいけない。
何故かそう思った。
「…わっ…わ、わ、わあああ!」
情けなく裏返ってしまったが、
その声が口火を切って体を動かせた。
足と手をばたつかせ、
とにかく走る。
無我夢中だった。
気がつくとアパートが見えてきた。
息が上がって苦しい。
浅い呼吸を落ち着かせようと歩くが、
頭の中の混乱が邪魔をする。
あれはなんだったんだ?
人ではなかった!
ついてきてはいないか?
不安と興奮と焦りが入り交じる。
外階段のそば、駐輪場の灯りが見えてやっと体の力が抜けた。
大きくひとつ息を吐いて
ふらふらとそこに向かう。
普段は情けない光だと思っていたのに
こんなにも心強い。
ライトの柱に体を預けて呼吸を整える。
瞼が重くて目を瞑った。
「はは…。」
安堵から笑ってしまう。
きっと疲れていたのだ。
あんなものを見るほど。
明日はたまに高いビールを飲もう。
自分を労ってやろう。
そう考えると心が落ち着いた。
最後にもう一度、息を吐いて姿勢を直し、階段に向かおうと顔を上げた。
「…ひっ。」
男が、立っていた。
すぐ、側で。
こちらに向けられたその顔は
やはり、灰色の肌をしていて
油絵のように濁りよく見えない。
目がどこにあるかも分からないのに
まっすぐこちらを見ているように感じる。
「なあ、見えているんだろう?」
男の声が聞こえ、そこで意識が途切れた。
目覚めたのは駐輪場のコンクリートの上だった。
痛む体を起こしあぐらをかく。
頭がまわらない。
昨日のことを思い出せなかったし、思い出したくはなかった。
空が白んできている。
朝がくるようだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます