遠ざかる彼我
今日も誰かが柱に捕らわれ、火で炙られる。
何も知らない人達の地下深くで「秩序」を保つために、人間である事を放棄する。
街には呪いがかけられている。人が人を食い合う事で延命する呪いを。
ここに至るまで、見える未来は真っ黒だった。黒い日々に、より濃い黒を塗り重ねる毎日。
エスメラルダは不思議な子だ。
彼女の行動は毎日を少し違った形へと変えていく。
行動次第で未来が変化する事を教えてくれたのは彼女だった。
ネイサンが炎の中で灰になるはずの未来を変えて、別の地獄を見せてくれた、それが今いる極寒地獄なわけだ。
これから二人は死ぬ。だが、行動次第で未来が変わる。生きてはいて先が未確定の希望ある地獄のただ中だった。
それが唯一の希望だった。ネイサンは必死に頭を回転させては、己の中に宿る少し先の
未来を見通す魔法の力で、生き残るための策を練り続けた。彼の瞳に映る、二人が助からない残酷な未来をたくさん見つめ続けた。大事な人が、死んでいく未来を何度も何度も。寒さと嫌悪と、絶望で狂ってしまいそうだった。これでは火に焼かれて死んだ方がマシだと後悔した。
ネイサンは立ち止まり、後ろを振り返った。
宙に浮いた篝火が光の尾を左右に引きながら、目前まで迫っていた。
「何やってんの。ここまでやって諦めたら・・・・・・」
「観念したよ。さようなら、エスメラルダ」
冷たい手で頭を何度も殴られる。手袋をどこかで落としたんだな、と思った。エスメラルダをそっと背中から下ろしてやる。無言で睨んでいる彼女に笑顔で応える。上下のマツゲに雪がかかって泣いているように見えた。
「・・・・・・なんてね。これからだよ。助かる方法が一つある。僕の懐に入れたベレッタを渡す。僕の体温で暖まってる。寒気に長く晒されると動作不良を起こして発砲できなくなる、渡したら迷わず引き金を引いて」
緊急時なのにわざと困らせる事を口にするのは、彼女の本音が行動に見えるからだ。心が暖かくなり、勇気が出る。最期の我儘、最期まで楽しかった、ネイサンは別の気持ちを伝えた未来を見たが彼女にとって呪いになってしまった。今は希望を見るべき時だ。
ネイサンは両手の革手袋を外し、エスメラルダの右手を握った。少しでも暖めて引き金を引くための処置だ。それから、外した手袋を彼女の手にはめた。少しサイズが大きいが
五本の指が自由に使える手袋だ。引き金を引きやすい。
「困った時は神様にお願いをするんだ、エスメラルダ。お祈りするための数字の組み合わせは君の右腕に書いてある。あとは段取り通り。いいね?」
ネイサンは小物を詰めた革袋をエスメラルダの腰の革ベルトに結び付けてやる。
「ホントに大丈夫?」
「僕はよく神様の石板を使ってお祈りをしていた。問題ないよ、悪魔ではないという証拠だな」
彼女が微笑んだ。
「神は正しい者を導いてくださる」
ネイサンは神様は人間の善悪の外にいる存在だと思っている。
エスメラルダも故郷を離れれば、この街の観念である神だの悪魔だのは茶番である事に気づく。怯えた顔も消え、いずれは笑い飛ばせるようになるはずだ。
外の世界では信仰は寛容で、何を信じるかは自由だ。
「馬上の陰に。そいつが落っこちたら空馬に二人で飛び乗る。いいね?」
エスメラルダは頷いた。
「馬を奪って逃げるんだね」
「そういう事だ。ちゃんと、助かる。さっき見てきたから」
それでエスメラルダは助かる。馬の蹄が雪をかく音が近づいてくる、別れの時だ。
「もうすぐ、あの木の陰から出てくる。今だッ!!」
エスメラルダは受け取ったベレッタの引き金を即座に引いた。
その後突然、彼女の体が乱暴に掲げられ、気づいた時には宙を舞っていた。ネイサンが放り投げたのだった。上手く、馬の背中に彼女の腹部が当たり、痛みをこらえながら手綱を必死で掴んでいる様を確認すると笑みがこぼれた。馬の尻を拳で殴りつけ、馬は彼方へと猛然と速度を上げて走り去った。
エスメラルダが遠ざかっていく。必死に手を延ばし、何かを叫びながら。最後まで暖かい子だったと心の中で謝辞を延べ、ネイサンは現実へと向かって足を踏み出した。煌々と輝く松明のオレンジ色の炎は悪魔が乗り移った人々の表情を暴いていた。馬上から転がり落ちた陰に光が差し、その正体を見たが、彼女も周囲の村人と同じ表情をしていた。彼女はエスメラルダが走り去った後の暗闇を睨んでいた。
(姉さんか)
かつての姉だ。そう思う事にした。
ネイサンはもう、未来を見なかった。その必要はなくなったからだ。
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