第8話 姉とお風呂

 夕食が終わると同時に、遥が横から話しかけてくる。


「そうだ。流斗、お風呂に入ってきなさい。何日入っていないのか知らないけれど、随分と体が汚れているわ。それに……少し臭うわよ」


 遥が自分の鼻を軽くつまんで、手を払う動作をする。


 流斗は遥たちに治療をしてもらったときに体を拭かれ、服も病院にあるような白い患者服に変えられていた。それでも《スラム街》に流れ着いてからは、川で三日に一度の割合で体を洗っていただけだ。その体はお世辞にも綺麗とは言えない状態である。


「香織さん、お風呂は沸いているかしら?」

「はい。いつでも入れますよ」


 遥が問うと、香織から肯定が返ってきた。


「というわけで、お風呂に行くわよ。レッツゴー♪」


 流斗のほうを見て、遥がもう一度言った。


「悪いけど、そうさせてもらえると助かるかな」


 流斗の言葉が言い終わらないうちに、遥は流斗の腕を勢いよく引っ張って、食事の終わった部屋から出ていこうとする。


「じゃあ~、香織さーん悪いけど、後片付けお願いね~」

「ちょ、え? 片付けなら俺も手伝いますよ」

「いいから。あなたはさっさとお風呂に入りなさい! 臭いし汚いっ!」


 遥が流斗の言葉を無視し、強引に部屋から連れ出す。


「…………酷い」


 もう少しオブラートに包んでほしかった。

 良くも悪くも、彼女の言葉はいつだって真っ直ぐだ。


「本当にいいんですか?」

「何が?」


 流斗の問いかけに、遥は歩みを緩めずに聞き返してくる。


「俺も後片付けを手伝わなくて」

「いいのよ。あなたは私の弟になるのだから」

「そう……ですか」

「また敬語になってる~!」

「すみません。まだ慣れなくて」

「早く私の弟になった自覚を持ちなさいよね!」


 遥はぷりぷりと怒りながら、歩みを速めた。


「……うん」


 話しながら長い廊下を進み、やがて扉の前にたどり着いた。


「ここが浴場よ。私は流斗の着替えを持ってくるから、その間にお風呂へ入ってなさい」


 そう言い残し、遥はどこか別の部屋に向かっていった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 一人になった流斗は、目の前にある扉を開く。


「うおっ……」


 眼前には、流斗が小さいときに父に何度か連れていかれたことのある、銭湯のような広い脱衣所があった。


「自宅の風呂が、これか……」


 ゴクリと音を立てて唾を飲み込む。

 自分の家にあった申し訳程度の風呂を思い出し、改めてこの家の凄さを理解した。


「とりあえず入るか」


 白い患者服を脱ぎ、まだ血の滲んでいる包帯を解く。


「そういや、これはどうするかな」


 ひびの入ったあばらと右腕は、骨が痛まないように添え木で固定されていた。


「付けたままじゃ、入れないよな」


 あばらと右腕の骨を固定していた添え木を外す。

 風呂の入り口にあったタオルを持ち、浴場へと続く扉を横に引いた。


「おおおっ!」


 視界に大きい浴場が広がる。

 体を洗うところが四つもあり、浴槽は人が十人くらいは入れそうだった。


 脱衣所があれだけ広い時点で想像はついていたが、それでもなお、この広さには驚かざるをおえない。


 浴槽の隣にある桶で汗を流してから浴槽に浸かる。

 温かい湯船に浸かることで、蓄積した疲れが取れていくような気がした。


「……そういえば、俺の体は結構汚れていたし、汗を流すだけじゃなくてちゃんと体を洗ってから入ったほうが良かったな……」


 と湯船に少し浸かってから気づいたが、


「……まぁ、もう遅いか」


 そう思い直して、しばらくそのまま湯船に浸かる。


 長い間そんな常識的な思考は放棄していたので、これからは他人からの見られ方にも気を付けなければならない。


 久しぶりに温かい湯に浸かっているからか、ずっと入っていられるような気がする。

 とはいえ、そういうわけにもいかない。

 それではさすがにのぼせてしまう。


「そろそろ体を洗うか」


 浴槽から上がったところで、脱衣所から遥の声がした。


「流斗~、着替え、ここに置いておくわよ~」

「はい、ありがとうござ……ありがとう」


 返答してシャワーのあるところに行き、プラスチックでできた椅子に腰を下ろす。

 体を洗おうとした。

 が、利き手である右腕は骨にひびが入っている。

 無理に動かすと状態が悪化しそうだ。


「左手を使うか」


 流斗は本来右利きだが、戦闘の際に多種多様な小道具を扱うので、自然と左腕も右腕と同じくらい細かい作業ができるようになっていた。


「流斗~、入るわよ~」


 唐突に、遥の朗らかな声が聞こえてきた。

 数秒困惑で脳がパニック。

 流斗は驚いて入り口のほうを向く。

 すると、扉のところに女性らしい、肉付きの良い輪郭が浮かんでいた。


「――――えっ? え? ちょ、ちょっとま――」


 慌てて持っていた白いタオルを腰に巻き、制止の声を上げたものの間に合わず。

 浴場のドアが引かれて、遥が姿を現す。


 目に映ったのは、雪のように白い肌。

 バスタオルからは引き締まった太股が覗き、柔らかそうな胸の谷間がはみ出していた。

 豊満な胸にタオル巻き付けた遥が、動転している流斗に近づき、笑顔を浮かべて言う。


「怪我をしてて体が洗いにくいでしょう。私が背中流してあげる」

「え、あ、いや、いいです。けっ、結構です。謹んで遠慮致します!」


 高鳴る胸の音を誤魔化しながら、赤くなっている顔を必死に逸らす。

 女性の裸に近いものを、こんなにも間近で見たのは初めてだった。


 ダークな世界で生きてきたので、精神的には同年代の者より成長しているつもりだが、こういう経験はまだしたことがない。


 流斗はバスチェアから立ち上がり、浴場から急いで出ようとした。

 しかし遥の手が伸びてきてその肩を掴み、無理矢理バスチェアに座らせ直す。


「まぁまぁ。そんなに遠慮することはないのよ。ほらっ、いいからここに座りなさい」

「は、はい……」


 謎の圧力に負けて体が動かない。


(もしかして重力操作の魔術、使ってる?)


 そんな疑問が脳裏をよぎる。

 もう逃げ出すことはできそうにない。

 遥に言われた通り、流斗は大人しくバスチェアに腰を下ろした。

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