牛と人

「なんと言っても雌牛の価値は揺るがないなあ。頬のとろけるような旨味が凝縮されていて何度食べても飽きることがない」

 兄は自慢の前髪をかき上げながら雌牛がいかに美味であるかということを繰り返し語った。私がうんざりしている様子にも気がつくことなく、大きな口を何度も何度も開け閉めしている。しばらくすると満足したのか、口元をナプキンで拭いて、私を見て顎で指示をする。

 兄はついさっき食べたばかりの雌牛を私に持って来いと言っているのだ。

「そんなに好きなら自分で捕まえてくればいいのに」

 私が軽口をたたくと、兄は机を蹴り上げる。

「俺は忙しいんだ」

 こうなってしまっては言うことを聞かない。

「わかりましたよ。取ってくればいいんでしょう」

 農場へ行けばいくらでもいる。牛という生き物は家畜として生きることによって種を存続させている。人を生かすことで人に生かされている。いわゆる共生関係だ。ひとつやふたつ拾ってくるのなんて赤子の手を捻るより造作もない。

 私は家を出て、散歩をしながら村へ向かった。農場へは細くて長いあぜ道を通る必要がある。左右に金色の稲穂が立派な実をつけている。足元には短い雑草が所狭しと生えていて、轍の除く土という土に鮮やかな緑が蒸すように密集している。

 大きく息をすると肺胞のひとつひとつまで植物の魂が入り込んでいく。浮き上がるような自然の香りに心が安らいでいく。兄から受けるひどい仕打ちも、煙のように忘れられる。

 道で会う人は皆、似たような麦わら帽子を被り、青いオーバーオールを身につけている。誰もが少し太っていて、日に焼けているのか肌が浅黒い。毎日農作業を繰り返していた結果だろう。

 所々で犬や猫も見かける。彼らは家畜ではなく、ペットとして飼われている。怠惰な生き方をしているペットたちは肥えていて、脂肪分が多いので喉越しが悪い。周囲を見渡していると、目移りしてしまって仕方がないので、私はさっさと目的をたち果たそうと歩みを早めた。

 農場へ着くと、兄の所望する雌牛は柵の外側にいた。見ているだけでヨダレが垂れてしまいそうな素晴らしい白黒模様の魂だった。乳を毎日絞られて、最後は立派に屠殺されたのだ。つい数日前まで生きていたのか、かなり新鮮な状態だった。

 私は自分の欲求を抑えることが難しくなっていた。せっかくこんなにもグレードの高い雌牛の魂を見つけたのだ。自ら取り込んで消化してみたくなった。兄には悪いがそこら辺で適当な牛を見繕って差し出そう。どうせ、口にするまで魂の味などわからないのだ。

 雌牛は怯えていた。私が死神であることを理解したのかもしれない。

 私は傷だらけの紫色の右腕を突き出して、雌牛の魂の先端を摘まんだ。逃げようとしているのか、頭の方が空へと昇ろうとしている。

「逃げるんじゃない」

 どうせいつかは食べられる運命なのだ。諦めて私の胃袋に収まった方がいい。

 大きく口を開けて、丸ごと口の中に放り込む。上質な牛の脂の香りが鼻の奥まで広がった。噛まなくとも口の中で溶けていくのは感動的だった。飲み込むのが勿体ないくらいだ。

 私は存分に雌牛の魂を堪能すると、兄への土産にその辺で浮いている魂を片っ端からバッグに詰めた。雌牛だけではなく、犬も猫も鶏も人間も詰め込んだ。かつて生命だった者がごった返したバッグの中はひどいにおいになった。

 魂の味は見た目ではわからないし、においでも断定はできない。臭いのに旨い食べ物があるように、癖のある旨味を持った魂も存在する。

 私は自宅に着くと、バッグから雌牛らしき白黒模様の魂を引っ張り出して、兄に渡した。

「ご苦労」

 先ほど大暴れしていた者とは思えない、尊大な貴族のような振る舞いで私を迎え入れた。

 兄はご満悦のようで、さっそく下品で大きな口を開けて魂を丸呑みした。

 すると、苦悶の表情を浮かべて吐き出した。魂が床に叩きつけられて萎れている。

「うえっ! なんだこれ!? まさか人間の魂か? そんな物喰わせるんじゃない」

 兄は怒り狂って机を蹴り飛ばすと、罵詈雑言をばらまきながら部屋を出て行った。

 私は兄の吐き出した魂を観察した。なるほど。確かに人間の魂だ。牛の毛皮を着て田舎へ観光に来ていた太った女性だったのかもしれない。見た目が似ていて気がつかなかった。

 しかし、見た目は本当にうまそうな雌牛の魂に似ている。

 人間は食べるまで本当に価値がわからない。彼らはあまりにも生き方が多用でいい魂と悪い魂の区別がつきにくい。芳醇で素晴らしい魂もあれば、生ゴミのような臭いを放つこともある。

 原因は彼らが他の生物のように種を生かすための行動を取らないためだ。順風満帆の人生を送った人間も性根が腐っている場合もあるし、誠実だったはずなのに波乱万丈で不幸続きだった人間もいる。他の生物に比べて社会的な成功と魂としての価値が複雑なのだ。個を重んじる種族ゆえに、最低限の品質が保持されないというのは魂を食べて生きている死神たちからすれば、悩みのたねと言われている。

 しかしながら、私は人間が好きだ。

 バッグから農夫らしき魂を取り出した。かなり泥臭いが意を決して口に含む。

「……こいつは案外うまいな」

 最初は農夫らしいと土の苦味がぎゅっと押し寄せるが、口の中で解けていくにつれて、家畜への愛情による甘みと日夜あくせく働いた努力の塩気が相まって深い味わいを創り出している。

 実に複雑な味わいの生き物だ。おそらく子どものような舌を持つ兄には一生わからないだろう。

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