ポーランド戒厳令
祭谷 一斗
第1話 路地を渡るマーシャ
夕刻、石畳の路地裏。
表通り病院脇から続くその道は、この時間には珍しく騒がしい。
逃亡あるいは追跡が佳境を迎えつつあったからだ。
「まだるっこしい、さっさと本題に入りなっ」
「――止まれ! マーシャ・マリノフスカ!」
「そいつは聞けねえっ、ユスティナ・ノヴァク!」
追いつけないことは分かっていた。
口にする台詞が無意味なことも。
「いいから止まれ、マーシャ!」
駆ける先は行き止まり、行き止まりにあるは建物。
開け放たれた門には蔦が這い、中庭の芝生は生い茂る。
その先にあるは何の変哲もない、古ぼけた建物。
それこそユスティナの右腰、備えた小銃で容易く撃ちぬける程度の。
しかし彼女にとって、そこは聖域だった。
本来立ち入ってはならない、教会の領域。
「止まれだ待てだ、甘えるんじゃねえよ……お先っ!」
「――くっ」
教会の中庭。
そこは明白に、主の領土だ。
ユスティナのそれとは違う主の。
1982年。
ポーランドには二人の主がいる。
ひとりが統一労働者党の長たる閣下。
もうひとりが教会の長、教皇だ。
党員のユスティナにとって、教会に踏み入ることは侵犯を意味する。
教会への侵犯。
一介の党員、その手に負える領域では通常ない。
「逃した、か」
敷地に入られたのを見て取り、歩みを止める。
遅れて、路地裏に現れる部下たち。
ユスティナの走りは全力に近かった。
遅れたと謗るより、よくついて来たと褒めるべきだろう。
「ノヴァク隊長、どうします?」
息を落ち着かせながら、代表して一人が問う。
短くひとつだけ問い、決して血気に走らない。
その端々から、普段からの統率が見て取れた。
結論は分かり切っている。
後は待つだけだ。部隊長たる彼女の言葉を。
口の端を歪めながら、部下たちに宣言する。
「相手は手負いだ、武器を持つ様子もない。だがこの路地裏だ、なまじ大勢だとかき乱されるだろう」
ここからは建前の出番だ。
「――ここは私一人でやる。私一人なら、万一にも単なる独断専行で済む。お前たちは引き上げて、夜間の哨戒に備えてくれ。追って私も行く。くれぐれも、よろしく頼む!」
「はっ!」
気配は遠ざかり。
辺りにつかの間、普段通りの静けさが戻る。
夕刻のワルシャワ、路地裏の教会。
ふたりの幼馴染は、こうして取り残される。
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