英雄

「ギ……ギョ……!?」

 アニミスの角に胸を貫かれた大型巨人は、呻きを漏らしながら膝を付いた。アニミスもゆっくり角を引き抜くと、それから膝を付く。

 ……大型巨人の胸に空いた傷は、深いものだが致命傷ではない。筋肉を貫いたが心臓や肺は外れ、あくまで肉を貫いただけだった。ハッキリ言って、野生の戦いで負ったものとしてはあまり大きな怪我ではないだろう。

 対するアニミスが負っている傷は、こちらも致命傷ではない。が、様々な骨が折れ、力が入らない。立ち上がるのもやっとといったところ。先程の突撃だって気合いで放っただけのものに過ぎない。無茶をした所為か、走る前よりも身体が痛かった。

 客観的に見れば、未だ大型巨人の方に勝機があるように見えるだろう。

 しかし大型巨人はその身を以て知った。

 アニミスは決して負けを認めない。不屈の心などという生温いものではなく、端から自分が勝つ事しか考えていないのだ。例えどれだけ痛め付けようと、どれだけ力の差を見せ付けようと、アニミスの心は折れない。

 そして燃えたぎる闘争心で何度でも、幾度でも立ち上がる。

 最早狂気。理性を持たない野生動物でありながら、あたかも人間のような狂気の域に達したアニミスの闘争心が、大型巨人の心を揺さぶる。何をしようが負けは認めず、最後まで戦い続ける……戦い始めた時となんら変わらぬ気迫が大型巨人を射貫く。

 胸に付けられた傷で精神が弱っていた大型巨人に、耐えられる恐怖ではなかった。

「ギョ、ギョヒギ! ギョギョギギィィ……!」

 大型巨人は尻餅を撞くや、情けない声で鳴き始める。それは人間が聞けば懇願、もっと言うならば命乞いの声のように感じるだろう。

 大型巨人は心が折れたのだ。数の暴力すらも押し退けた、アニミスの気迫によって。

 大型巨人が命乞いをする中、アニミスはゆっくりと大型巨人に歩み寄る。血塗れの姿で、足をガタガタと震えさせる姿はどう見ても死にかけだが、その目の鋭さと輝きが彼女の生命力の強さを示していた。

 歩み寄ったアニミスは、無様な逃げ姿を晒す大型巨人を見下ろす。しばしじっと、殺意に満ちた目で見ていたアニミスだったが……やがてその目を逸らした。

 そして大型巨人に背を向け、歩き出す。

「ギョ、ギョヒ……?」

 追撃せず、立ち去るアニミスの背中を見た大型巨人はキョトンとなる。微かに上げた声に反応してアニミスが振り返ると再び怯えるが、アニミスが何もせず前を向き直し、また歩き出せば呆けたように固まった。

 アニミスは情けを掛けた訳ではない。

 徹底的に戦い、必殺の一撃を喰らわせ……それで相手の闘争心が萎んだのだ。ならばこれは勝利と言えるだろう。

 アニミスは相手を殺したいのではない。自分より強い奴が居て、そいつを徹底的に痛め付けたかっただけなのだ。相手がこちらの強さに打ちのめされたのであれば、アニミスの目的を果たしたと言える。それにこんな情けない奴を虐めたところで、

 敗北した大型巨人を殺す必要など、ないのだ。

 ――――あくまで、アニミスには、であるが。

「ギ、ギヒ……ギヒヒヒヒ」

 背中を向け、離れていくアニミスを見て大型巨人はにやけた笑みを浮かべる。性根の腐った笑い声も出しながら、ゆっくりと立ち上がった。

 既に勝ったつもりのアニミスであるが、大型巨人はまだ勝負を諦めていなかった。彼は近くにあった瓦礫を手に取り、背を向けているアニミスに向けて大きくその手を振り上げる。油断しきった今ならば、怒りが萎んだこの時ならば、アニミスを討ち取れると確信したがために。

 もしも。

 もしも大型巨人がここで腕を振り上げていなければ、咄嗟に身を守る事も可能だった違いない。意識をアニミスに向けていなければ、迫り来る気配を察知する事も出来ただろう。

 しかし彼は腕を振り上げ、アニミスだけを見ていた。故に彼は気付かず、反応も出来なかったのである。

 自分の脇腹に噛み付いてきた、巨大なトラの存在に対して。

「ギョッ!? ギョアッ……!」

 大型巨人はトラの攻撃に怯み、混乱し、辺りを見回す。助けを求めようとして、パクパクと口を喘がせながら声を発しようとした。

 だが、巨人達の姿は何処にもない。

 一瞬困惑から固まる大型巨人だったが、彼はすぐに理解した。仲間の巨人達が、自分の敗北を見て逃げ出したのだと。巨人の群れは、種の繁栄を目的にした集団である。勝ち目のない戦いになろうとも、指導者のために命を散らそうという、心意気のある個体など居やしない。敗北すれば見捨てられるのは必然だ。

 彼もまた同じように逃げていれば、こうはならなかっただろう。しかし彼は賢く、屈辱を理解する頭があった。動物には不要な感情が、彼を危機に陥らせたのだ。

 この危機は大型巨人自らがなんとかしなければならない。アニミスとの死闘で傷付いた身体であるが、それでもまだ戦える。勝つ事は難しくとも、隙を作って逃げるだけならまだなんとかなる……そう信じるしかない大型巨人はトラを殴ろうと腕を振り上げ、

 その振り上げた腕を空中で掴むモノが現れる。

 大烏だ。大型巨人の拳を握り締めた大烏は、その拳を強引に捻るように動かす。関節に刃向かうような動きに、大型巨人は苦悶の表情を浮かべるものの、大烏は動きを止めるつもりなどない。

 全体重を腕に掛けてくる大烏と、片腕で抗おうとする大型巨人。体躯が同格ならば、どちらの力がより大きいかは明確だ。すぐさま両腕の力で刃向かおうとする大型巨人だが、しかし噛み付くトラの牙が内臓に達した傷みで力が抜けた

 瞬間、大烏は大型巨人の関節を砕いて捻じ曲げた。

「ギョガアアアアアアアアアアッ!?」

 悲鳴を上げ、のたうち回る大型巨人。しかし大烏もトラも情けなど掛けない。

 怯んだ隙にトラは大型巨人の首に喰らい付き、大烏は無事な方の腕に組み付く。大型巨人の目に涙と絶望が浮かぼうと、二匹のケダモノは何も感じない。

 トラは一番大きくて食べ応えがある獲物を、大烏は自分の巣を壊した不埒者の親玉を、仕留めたいだけ。

 骨と肉の砕ける音が、人間達の王都に響き渡るのだった。




 ジークフリートは駆けた。

 彼の身体はたくさんの贅肉が付いているが、手足は決して太くない。ハッキリ言えば醜い格好で、彼自身それをよく自覚している。無能な貴族を焙り出すため、望んで手にした肉体だ。

 その肉体が今は煩わしい。

 こんな重たい身体でなければ速く走れたのに。こんな細い手足じゃなければ重たい身体でも走れたのに。

「陛下! 陛下危険です!」

「お待ちください陛下!」

 速く走れたなら、後ろから追ってくる二人の親衛隊に捕まる事を心配しなくて済むのに。

 勿論彼等がこの身を心配してくる気持ちはよく分かる。王城の周りから巨人共は姿を消したが、自分が駆けている王都の中にはまだ残っているかも知れない。統治者の不在を知らぬ間抜けが人間殺しを楽しんでいて、物陰からひょっこり現れる可能性はまだ否定出来ないのだ。もしもそんな間抜けに見付かったなら……親衛隊諸共殺されるだろう。

 それに大型巨人を仕留めたトラと大烏が、まだ王都に陣取っていた。巨人達の群れすらも壊滅させた彼等を、巨人によって壊滅させられた王国軍でどうこう出来る筈がない。その二匹はジークフリートが城を出た時には、広間で巨人を喰らったり亡骸を弄んでいたりしていたが、走っている間に気紛れに町へと繰り出していたなら……

 王の命は王だけのものではない。暗愚扱いとはいえ統治者がいなければ末端の統制が乱れ、動乱が引き起こるかも知れない。そしてこれを好機と見て隣国が攻め込む可能性もある。そうした危機がなくとも、後継者争いが起きれば内紛だ。ここで自分が死ねば、この国の民が大勢巻き込まれ、不条理に殺されるだろう。民を愛するジークフリートに、そんな悲劇は容認出来ない。

 それでもジークフリートは止まらなかった。沸き立つ衝動が彼の疲れきった足と腕を動かし続ける。彼が走る町は夜明け前で空が暗く、火が消えたため暗闇に閉ざされていた。故に足下の瓦礫も見えず何度も蹴躓いたが、彼はそれでも止まらず走り続ける。

 そして焼け焦げた王門を潜り抜けた時――――彼は目の当たりにした。

 王城に背を向け、悠然と歩いている鹿の姿を。

 王都の外に広がる草原をゆっくりと進む様に、此度の戦いで付いたであろう生傷を労る事もない。東の空から昇る太陽に照らされ、ボロボロの毛皮がキラキラと輝く。自らの勝利を誇示するでもなく、一直線に歩いていた。

「ば、化け物鹿だ!?」

「じゅ、銃を持ってこい! 頭を狙えば……」

「巨人を突き飛ばすような頭だぞ!? この距離で銃なんて通じるものか!」

 ジークフリートの背後で、親衛隊達が揉めている。とても大きな声で相談しているため、銃であの鹿を倒そうとしているのだという事はジークフリートにも聞き取れた。

「手を出すな!」

 だからこそジークフリートは、声を荒らげてでも親衛隊達を止めた。

 親衛隊二人は驚くように跳ね、次いで困惑したように表情を曇らせます。何故王に止められたのか、それが分からないかのように。

 王は無言のまま、鹿の背中を見る。

 あの鹿は恐らく先日村人からの陳情があった、銃も効かないという『魔物』であろう。狩人達を殺めた獣に、人間を、ましてやこの国を守ろうとする意思があるとは思えない。

 それでもジークフリートはその姿に『神話』を重ねる。

 ……溢れ出る巨人達の群れ。喰われ、蹂躙され、壊される人間達。悲劇が止まらず、世界が巨人に支配されようとした……そんな時だった。

 一人の乙女が、勇猛果敢に巨人達の長に挑んだ。

 小柄で華奢な乙女を、巨人達の群れは嘲笑った。事実乙女の細腕では巨人の腕力を受け止める事は出来ない。大剣を振るう事は勿論、分厚い筋肉を切り裂く事も出来まい。

 ところが乙女は軽やかな身のこなしで巨人達の攻撃を躱した。そして鋭い一本の針で巨人達の長の胸を貫いたという。

 これまで傷を負った事のない巨人達の長は、走った痛みに驚いた。混乱のあまり走り回り、岩に頭を打ち付け……呆気なく死んでしまった。

 長を失った巨人達は乙女を恐れ、山へと逃げ帰った。かくして世界に平和が戻り、乙女は生き延びた民に奉られるようになった。

 ……古文書の中にあった一説だ。どこまでが本当か、何処までが作り話なのか。考えたところで五百年前の出来事を記したという古文書の話であり、物語に出てくる乙女は既に故人。真偽は分かるまい。

 だが、乙女の名は残されている。

 巨人を打ち倒し、人々を救った英雄の名は――――

「……アニミス」

「えっ?」

「あの鹿の名だ。これから彼奴をどうするにしても、名前は必要だろう?」

 ジークフリートの言葉に、親衛隊二人は少なからず戸惑ったような表情を見せる。が、王からの御言葉を無下にも出来ない。敬礼をし、王が付けた鹿の名前を手元にあった布に刻んで忘れないようにしていた。

 ジークフリートはそんな兵士達から、再び鹿の背中へ視線を戻す。

 あの鹿はこの国に住まう村人を殺めている。その事実はどうあっても消せない。やがて臣民達は鹿の真実を知り、様々な意見を持つだろう。世論や貴族達次第だが、もしかすると何時の日か討伐隊を結成せねばならない時が来るかも知れない。

 だからジークフリートはアニミスと名付けた。古文書の記述を知る者はごく一部。鹿に与えた名が神話の英雄を示すものだと知るのは、その中の更に一部だけ。大半の者達はこの名を聞いてもその意味が分からず、由来も分からず使うだろう。討伐隊が結成され、万一かの者を討ち取ったとしても――――英雄の名は後世に語り継がれる。

 ジークフリートはアニミスを英雄と呼びたかった。

 何故なら例え望んだ訳ではなくとも、相手が考えもしていなかったとしても。

「……ありがとう。この国を、救ってくれて」

 もたらした結果に感謝を抱くのが、人間というものなのだから。

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