狩猟者
岩だらけな山の中腹付近にある木は、今日も小さな果実をたくさん実らせていた。
中腹に辿り着いたアニミスは上機嫌に木へと近付き、赤い実を口先で摘まむように食べていく。小さな実であるが、量があるのですぐに口の中はいっぱいだ。もう入らないぐらい口に溜め込んだら、そこでようやく咀嚼。噛めば噛むほど甘みが広がり、アニミスを幸せな気持ちにさせた。
全身傷だらけの強面生物が甘い果実を頬が膨れるほど堪能している様は、なんともチグハグとした光景である。とはいえアニミスは全ての野性味を放り出した訳ではない。少なくとも周りを意識する程度の警戒心は残している。
というのも、もしかすると大烏がこの場に戻ってくるかも知れないと考えているからだ。アニミスの手により大怪我を与えたものの、最後は飛んで逃げたのだから致命傷という訳ではないだろう。完全回復には時間が掛かる筈だが、こっそり飛ぶぐらいは出来るかも知れない。後ろに回り込まれて奇襲されたなら……
アニミスはここまで深く考えていないが、何か嫌な予感はしていた。臨戦態勢、というほどではないが警戒心を高め、自分に近付く気配がないか注意している。
幸いにして今のところ大烏、或いは半年ほど前に戦ったトラなどの、危険な気配は感じられなかった。ユキネズミやキツネなどの小さな気配はたくさんあるが、それらはアニミスにとって有象無象に過ぎない。気に留める必要のないものばかりだ。
――――とある視線を除いて。
「……………」
ちらりと、アニミスはその視線を感じる方に目を向けた。
その視線の持ち主達 ― 少なくともアニミスには複数の気配を感じる ― は、大岩や木の陰などに身を隠していた。天敵を恐れているユキネズミの僅かな気配や、ユキネズミを狩るべく息を潜めているキツネ達の存在感に慣れたアニミスからすれば、その気配の隠れ方はあまりにもお粗末だ。
それらの存在感はキツネよりずっと大きいが、トラや大烏とは比較にならないほど小さい。なので別に無視しても良いのだが、視線の持ち主達はアニミスを囲うように分散していた。あちこちから気配を向けられるというのは、如何に有象無象のものとはいえ少々鬱陶しい。ましてや幸せな時間に水を差されるのは、何もしてない時に同じ事をされるよりも腹立たしいものだ。
一度蹴散らしてしまおうかとも思い、適当に食事を切り上げて気配の方にアニミスは向かおうとする。
するとどうした事か、気配達はこそこそと離れてしまうのだ。しかもある程度の距離を維持したまま、遠くまで行こうとはしない。
キツネや猛禽類など、この山に棲む肉食動物の場合、アニミスが自身の方に近付いてきたらそそくさと逃げる。自分よりも強い動物が距離を詰めてくるのだから当然の反応だ。しかしこの気配達はあまり逃げていかない。
自分を襲おうとしている捕食者なのだろうか? だがちっぽけな気配だ。勝ち目がないのは向こうも分かっている筈なのに、どうして自分に纏わり付く?
アニミスには訳が分からない。もしも彼女が優れた知性を持ち合わせていれば、気配達が見せる不審な行動に僅かな不気味さを覚えただろう……残念なのか幸せなのか、彼女の頭はそこまで良くなかった。
近付いてこない連中に興味を持つのも無駄だと判断し、アニミスは食事を再開。気配達は更に分散し、アニミスを完全に包囲する。アニミスはその気配の動きに気付いていたが、どうせ何もしてこないだろうと考えて気にせず食事を続け……
気配が微かな動きを見せた、丁度その頃に満腹となった。
腹が膨れたので歩き出すと、こちらを包囲していた気配の陣形が一瞬で崩れる。
気配達が何をしようとしていたのか? アニミスには分からない。しかし気にする必要もないと考え、自分が進みたいように歩く。自分が向かう先に居た気配は慌てた様子で移動し、アニミスに道を明け渡した。
さて、満腹になったアニミスが向かう先は自分の住処……ではない。
確かに身体は昨日の戦いの傷が残っており、すぐに休めた方が良いだろう。しかしアニミスの本能は、自分の身体がその傷を癒やすためたくさんの栄養を使っていると理解していた。満腹になった腹はすぐに減るだろう。
休むなら別の場所、出来ればこの近くが良いという感覚をアニミスは抱く。
そしてこの山で暮らす事一年に迫ろうととしているアニミスは、普段の寝床である洞窟以外にも良い『休憩場所』を把握していた。そこは暑いのであまり夏場には利用したくないとも思うのだが……本能はあの場所での休息を求めている。野生動物であるアニミスは、本能の衝動には抗えない。
彼女は山の中腹から、山頂を目指して歩く。気配達もアニミスの後を追うようにやってきたが、険しい山道に苦戦しているのだろうか。負傷しているアニミスの足取りの半分も速度が出ておらず、あっという間に離される。無論包囲された事さえもどうでも良いと考えていたアニミスは、気配達が置いていかれる事もまたどうでも良いと考え、無視して自分の目的地目指して進むのだった。
……………
………
…
しばらくしてアニミスが辿り着いた場所は、熱い湯気に満ちていた。
アニミスは知っていた。山の山頂と中腹の中間付近を、少し山頂側へ越えた辺りに、熱い湯が染み出す場所がある事を。湯は窪地に溜まっており、しゃがみ込めばアニミスの肩まで浸かるほどの深さがある。湯の熱さにより岩だらけの地面が暖かくなっており、冬場は大変居心地が良い。湯は変な臭いと味がするので飲み水には使えないが、湯気を鼻から吸うだけでそこそこ喉は潤う。また、湯の近くに生えている草の新芽は、不思議な苦味があるものの、吐き出すほど悪い味ではない。
アニミスからすれば不思議な『水溜まり』は、人間達から温泉と呼ばれていた。発生原理についてはこの世界の人間達も知らないが、山の内部に蓄積した溶岩の熱を地下水が受け取り、噴出したものである。変な臭いの正体は有毒な気体であるが、この辺りに漂うものは生物体に悪影響が出る濃度ではない。むしろその気体が溶け込む事により、人間が作ったちゃんとした薬ほどではないものの、消毒効果が湯に宿っていた。怪我を負った身だからこそ、浸かるべき効能である。
また湯が浸透する事で土壌の性質も変化し、この環境に適応した稀少な植物が小数ながら生えている。この植物は温泉に含まれる成分をよく取り込み、通常の植物からは少量しか摂取出来ない栄養素を多く含んでいた。こうした栄養素は普通の食事から大量に摂取するのは難しく、身体を治すために多くの栄養素が必要な今のアニミスにとって、重要な食料と言える。
アニミスの本能は自分の身体の状態を理解し、最善の方法へとアニミスを導いたのだ。そんな事など露知らずなアニミス当人は、しかし本能に刃向かうという意識もないので、突き動かされるがまま温泉にその身を浸す。
傷口に湯が触れ、じゅくじゅくとした痛みが走る。最初はびくりと身体が震えるアニミスだが、その痛みは左程強くない。痛みを我慢して身体を湯に沈めた。
一度肩まで浸かってしまえば、実に心地良いものだった。
湯の熱さにより血流が活性化し、全身の十分な栄養が送られる。豊富な栄養を得た身体は活性化し、未だ残る戦いの跡を塞いでいった。酷使されていた筋肉も断裂していた部分が再生し、より太いものへと生まれ変わる。
そうして身体を作り直す中で栄養が足りなくなれば、空腹という形でアニミスの衝動が刺激される。お腹が空いたアニミスは首だけを伸ばし、周りに生えている草を食んだ。ちょっと渋みのある味だが、本能がこの草を求めているアニミスは「偶には悪くない」と思う。
疲労を癒やし、栄養を補給し、アニミスの肉体は元の活力を取り戻していく。更なる高みを目指して成長していく。次の戦いに備えるために――――
尤も、その時はアニミスのすぐ傍までやってきていたのだが。
アニミスは気付いていた。自分の周りを、木の実を食べていた時に居た気配が囲っている事に。けれども脆弱な上に距離を取ったままのその気配が脅威だとは思わず、気にも留めないでいた。
その間に、気配達は準備を進めていた。
気配達は細長い棒のようなものを持ち、そこに黒い粉を詰め込んでいる。そんな事は猿でも出来る真似だが、しかし猿には出来ない事が三つあった。
一つは棒の『製造』。彼等が持つ棒は幾つもの凹凸なく削った木材と、成型した金属のパーツを組み合わせて作り出された。枝を振り回し、石を叩き付ける事しか知らぬ猿には、決して同じものは作れない。
一つは粉の『利用』。彼等が棒に詰め込む粉は硝石に硫黄と木片を混ぜ合わせて作り出されたもの。猿は硝石、硫黄、木片を単品では理解すれども、合わせた時に起こる事には考えすら及ばない。ましてや火を付けた時に爆発するなど、知ったところで恐怖から手放すだろう。しかし彼等はそれを恐れず、自らの力として利用する。
一つは『理解』。棒と粉を合わせて生み出された力で何が出来るか……恐ろしいものに恐怖しか抱かぬ猿では、例え作れたとしても使い方が分からない。されど彼等は使い方を想像し、理解出来る。
その生物は本能を克服していた。理性により行動を統率し、知能により新たなものを生み出す。自然を征服し、世界を己の色に染め上げようという野望を持つ存在。
人間である。
「へへ……すっかり気が緩んでやがる。こりゃ楽勝だな」
一人の年老いた男がアニミスを見て、にやにやと笑っていた。
彼の手の内にあるのは、棒と粉の力により鉛玉を吐き出す道具――――銃。
数多の動物の命を奪い、刈り尽くしてきたそれがアニミスの脳天を狙う。アニミスは気付いていない……いや、気付いてはいるが理解していない。人間達が手にする木も、粉も、鉛玉も、単体ではなんの力も発さぬ『脆弱』なものなのだから。
しかしそれらが合わされば、凶弾と化す。
「これで、老後の心配はいらないなっ!」
男は躊躇いなく銃の引き金を引き、
放たれた鉛玉は響かせた破裂音の直後、アニミスの側頭部に当たるのだった。
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