番外編 温かな檻
父を名乗る人が迎えに来たとき、珈涼が抱いたのはただ恐れだった。
明らかにその筋と思われる男たちを連れて、言葉少なく車に乗れと言った人は、珈涼にとって家族ではなかった。珈涼が知っている家族というのは陽だまりの匂いと優しいまなざしを持っている存在、母だけだったのだから。
荷物をまとめる時間をくださいと言い訳するのが精いっぱいだった。与えられた猶予はたったの半日。夕方にもう一度迎えに来ると言われて、珈涼はまるで死刑を宣告された囚人のように怯えた。
一刻も早く遠くに逃げた方がいい。けれどどこへ? もしみつかったら、罰を与えられるのでは? 恐れが足を引っ張ってばかりで、結局一歩も家の外に出ることができなかった。
数日前に母は外出したきり、帰ってこなくなった。けれどここのところ様子がおかしかった母は、たぶん自分の意志で姿をくらましたとわかっていた。そしてたぶんそれは父の家の……不穏な集団にかかわることなのだろうと思った。
夕陽が赤く窓から差し込む頃。珈涼はリビングの椅子に座って、人形のように父を待っていた。向かい側に置いたままの母のコップを見やって、泣きそうな目をしただけだった。
インターホンの音を聞いて、のろのろと椅子から立ち上がる。足をひきずるようにして戸口に出ると、男が立っていた。
「お迎えに上がりました」
少し不思議な思いがした。今度は父はおらず、彼一人だけだった。
「月岡と申します。……初めまして、珈涼さん」
ただ高級そうな黒いスーツを隙なく着こなし、獲物を狙うような目で珈涼を見た彼は、確かに父と同じ世界の住民だった。珈涼はその目の光の強さにひるみながら、ひととき彼を見上げる。
怖くて目が離せなかったのも、もちろんある。けどそれ以上に、吸い寄せられるような心地がした。
彼は美しい空気をまとう人だった。珈涼では踏み込めない世界で、堂々としている力強さがあった。
「荷物をお持ちします。入ってもよろしいですか?」
「……あ」
自分より一回りも年下だろう珈涼に、彼は丁寧に話しかける。珈涼は彼にみとれた自分に気づいて、慌てて目を逸らす。
「だ、大丈夫です。自分で持ちます」
こんなときに何を思っているのだろう? 珈涼は感情を押し込めるようにごくんと息を呑んで、急ぎ足で部屋に引き返す。
珈涼がまとめた荷物はそれほど大きくない。けれど旅行鞄一つ分はあって、持ち上げた途端少しよろめく。
「珈涼さん」
月岡はあっさりと珈涼から荷物を取り上げると、首を横に振る。
「いいんです。私はそのために来たんですから」
「でも」
珈涼は口ごもって立ちすくむ。
父の家の厄介になどなりたくない。……行きたくない。
「でも……」
けれどそれを口にしても、連れていかれるのはわかっている。珈涼は未成年で、一人ではどこにも行けない。
黙りこくった珈涼に、月岡が迷ったのは一瞬だったように思う。
「いいんです。怖がるのは当然です」
ふいに月岡は少し屈んで、目線を合わせるように珈涼をのぞき込んだ。
「親父さん……珈涼さんのお父様だって怖がっていらっしゃったんですよ」
「た、龍守さんも?」
お父さんなどとはとても言えずにそう問うと、月岡はうなずく。
「父親が娘に嫌われたくないのは当然でしょう? まして私たちは真っ当な職業でもない」
目を見開いた珈涼に月岡は苦笑して、懐から名刺を取り出す。
シンプルな白地に会社名と名前。たぶんそれは彼の表の肩書の連絡先なのだろうが、彼はその裏面に携帯番号らしい走り書きを付け加える。
「どちらでもご連絡いただければ、すぐに参ります」
珈涼に名刺を握らせると、月岡はそっと珈涼の肩に手を置く。
「私にあなたを守らせてください。怖がらずに、こちらを見て」
その言葉に促されるように顔を上げると、月岡は優しく笑っていた。母を思い出させるような温度をそこに見て、珈涼は気づけばこくんとうなずいていた。
他に持っていくものはないですかと訊かれて、珈涼は大丈夫と答える。けれど慌てて支度したものだから、月岡が順々に挙げていくものに足りないものばかり気づかされた。
「途中でお店に寄ります。お金のことなど心配しなくていいですから」
月岡は安心させるように声をかけて、先に外に出ていく。
外で待っていたのは、父が乗ってきたような黒塗りの高級車ではなかった。荷物を積むのを考えてか大型車だったが、普通に見かける車で、珈涼は胸をなでおろす。
後部座席のドアを開けて、月岡はまず珈涼を乗せる。
「閉めますよ。お気をつけて」
……けれど扉を閉めるときには月岡はまた獲物を狙うような目をしていて、珈涼は息を呑む。
閉ざされた扉を見ながら、珈涼は何かに囚われてしまったような気がしてならなかった。
夢から覚めて目を開くと、いつものように温かな檻の中にいる。
珈涼の体を包んで、月岡が眠っている。触れ合う素肌の感覚は、明るい朝の光の中だと少し照れくさい。
「……珈涼さん?」
けれど少し体を離そうとすると、月岡は目覚めてしまったようだった。腕の中の存在を確かめるように顔をのぞきこんで、寝起きの低い声で問いかける。
「どうしました? お腹が空きましたか?」
月岡は珈涼がお腹が空いたと言うと喜ぶ。病弱な珈涼は食が細く、月岡はいつもどうにか珈涼に食べさせようと気遣ってくれていた。
珈涼はむずかゆそうに微笑んで言った。
「私、彰大さんがくださった名刺、まだ持ってます」
月岡は彼が最近時々見せる、少しだけ悪い表情で笑い返す。
「懐かしいですね。……あのまま私の家に連れ去ってもよかったんですが」
「あ、あの……」
月岡は珈涼の首筋に唇を落としながら、喉奥で笑う。
「怯えたさまの珈涼さんに、精いっぱい紳士的にふるまったでしょう? あのときの分、私にごほうびをください」
肌を滑っていく手に、珈涼の体は昨夜の続きを求めるようにうずいた。
あのとき抱いた感覚はまちがっていなかった。珈涼は自分では出られない檻に閉じ込められてしまった。
……それでよかったと思いながら、珈涼は今日も檻の中で甘い悲鳴を上げている。
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