第5話 呑み込んだ言葉

 いつ眠ったのか、そしていつの間に月岡が帰ったのかはわからない。


 翌朝目覚めると、珈涼は広いベッドの中で子どものように丸まっていた。


 恐る恐るシーツから顔を出して辺りを窺う。部屋には珈涼一人だった。珈涼はちゃんとパジャマに着替えさせられていて、シーツにも昨夜の痕跡はなかった。


 けれど体の奥に刻まれた痛みと、血が流れた感触だけは覚えている。


 珈涼は急いでベッドを抜け出した。朝食を食べるという考えも浮かばず、ただ着替えて戸棚を探す。


 昨日、この辺りの病院の場所を記した地図をもらった。それをみつけて場所を確認すると、珈涼は財布だけを持って外に飛び出す。


 珈涼が向かったのは産婦人科だった。まだ診療時間ではなかったが、青ざめて玄関の前に立っていた珈涼を見て、看護師が中に入れてくれた。


「どうされました?」


 看護師が気遣わしげに問いかけてくれたが、珈涼は事情を話すことができない。診療時間まで待つことを告げて、待合室で凍りついたように座っていた。


 珈涼がいることを伝えてくれたのか、三十分もすると院長が起き出してきて診察室に入れてくれた。看護師と同じように、そっと問いかけてくれる。


「あ、あの」


 つっかえながら、珈涼は言葉を紡ぎだす。


「早く産婦人科にかかれば、妊娠しなくて済むって……どこかで、聞いて」


 珈涼は昨日のあのことで子どもができていたらと思うと、怖かった。月岡にがっかりされるどころか、疎まれてしまう。


 院長はそれを聞いて眉を寄せた。


「乱暴されたのですか?」

「ち、ちがい、ます」


 珈涼は反射的に否定した。


「ただ、妊娠していたら迷惑をかけてしまうので。それは絶対に避けなきゃいけないと思って」


 しどろもどろになりながら話す珈涼を見て、院長は少し考えたようだった。


「検査はすぐにでもできますが、何かお悩みなら秘密は守りますよ」

「い、いいんです。検査だけして頂ければ」


 こうしている間にも妊娠していたらどうしようという焦りが、珈涼を追い立てる。そんな珈涼に、院長はそれ以上の詮索はしなかった。


 妊娠の心配はないと言われたが、院長は珈涼にピルの使用を勧めた。いつも妊娠の不安を抱きながら生活するよりは、その方がいいと言う。


 珈涼は使う機会はないと思いながら、一応それを購入した。


 たぶん月岡が来ることはもうない。昨夜のようなこともない。そう思うと、あれほど怖がっていたのに寂しい心地がした。


 部屋まで戻ってきたら緊張が切れて、倒れるように眠った。


 夢の中で、母のことを考えた。母はなぜ珈涼を生んだのだろう。父にとって、珈涼は邪魔なだけだ。


 きっと月岡だって、珈涼が子どもなど産んでも喜びはしない。


 意識が戻ると喘息の発作が出てきて、体を折って咳をする。体が疲れ果てて意識を失うと、また咳で目が覚めるという繰り返しだった。


 喉が切れて血を吐き出すようになる。珈涼はこのまま死ぬのかもしれないとぼんやりと思う。


 でも今は、助けを求めてまでやりたいことが浮かばなかった。


 上っては落ちる意識の中を行き来して、やがて静かな海に下りたような気がした。

 

 薄く目を開くと月岡がいて、珈涼の髪を撫でていた。

 珈涼が瞬きをすると、その手が止まる。


「珈涼さん。苦しいところはありませんか」


 喉が痛くて答えられずにいると、月岡は慌てて続ける。


「失礼しました。無理に声を出そうとなさらないでください。医者もとにかく安静にと言っておりましたので」


 いつの間に医者が来ていたのだろう。不安げに視線を動かした珈涼に、月岡が告げる。


「苦しかったでしょう。お一人にして申し訳ありませんでした」


 珈涼は与えられたマンションの一室にいたが、外は既に日が没している。

 訊きたいことは山ほどあったが、とにかくこれは現実らしかった。


「それから、これなのですが」


 月岡はためらいがちに紙包みを取り出す。それは珈涼が産婦人科からもらってきた妊娠の検査結果と、処方された薬だった。


 珈涼は跳ねるように起き上がって、すぐに月岡に制された。


「ご、ご迷惑を、おかけしたくなかったから」


 喉の痛みをこらえながら、珈涼は必死に言葉を紡ぎだす。咳き込んだ珈涼の背を月岡が擦った。


 珈涼の背を支えながらベッドに寝かせて、月岡は諭す。


「昨日のことで妊娠はしません。避妊しましたから」

「あ……」


 そう言ってもらえて、珈涼はようやく安堵する。産婦人科の検査も、実は今この瞬間まで半信半疑だった。


「あれだけ怖がっていては、気づかれないのも無理ないですが」


 月岡はそう言ったきり黙りこくる。


 ベッドの脇で眉を寄せて座っている月岡を見上げながら、珈涼はふと問いかける。


「どうしてここにいらっしゃるのですか?」

「珈涼さんが、朝食も昼食も召し上がっていないと聞きましたから」


 月岡は珈涼の前髪をかきあげながら言葉に詰まる。


「合鍵を使って入らせて頂きました。そうしたら……」


 珈涼は意識もなく血を吐き出していたのだろう。見苦しいところを見せてしまったと思って、珈涼はうつむく。


 ごめんなさいと言おうとして、視界が滲む。


 昨夜珈涼は縮こまっていて、彼が日頃付き合っている大人の女性たちのように快楽をあげられたとは思えない。キス一つ、したことがなかったのだから。


 それで今日はうろたえて病院に駆け込んだ挙句、意識を失って医者を呼ぶ騒ぎになった。


 ……こんなに迷惑をかけて、何が言えるというのだろう。珈涼は声も立てずにぽろぽろと泣き始める。


 月岡は息を呑んで、何かをこらえるように唇を噛む。


「珈涼さん」


 次の瞬間、珈涼は月岡の腕の中にいた。体温を間近に感じて、珈涼は目を見開く。


 月岡は珈涼を引き寄せて背中をさする。


「ごめんなさい。……ごめんなさい。泣かないで」


 月岡が謝ることなんてない。珈涼はそう思ったが、喉が詰まって言葉にならなかった。

 月岡は繰り返し謝って、泣かないでほしいと乞う。


「珈涼さんが欲しいものは何ですか。私に教えてください」

「いえ……」


 珈涼は言葉に迷った。月岡は有り余るものをくれた。家だって、食事だって。


 だけどもし一つ、望むのなら。また月岡にここへ来てほしい。


 珈涼の体を心配して月岡が来てくれた。その喜びは確かなものだったから。


「……いいえ。ありません」


 望みは心にあるのに、珈涼はそれを口にできない。


 幼い頃からそうだった。ずっと母と二人、穏やかに暮らしていきたいと思っていた。それ以外の望みを持ったら、永遠に母と離ればなれになる気がした。


 月岡は体を離して珈涼をみつめていたが、ふいにぽつりとつぶやいた。


「珈涼さんは、アルバイトをしたがっていらっしゃいましたね」


 珈涼は顔を上げる。つうっとこぼれた涙を、月岡がすくった。


「お体に無理がないようなところで、私がどこか紹介いたしましょう。気分転換にもいいかもしれません」


 月岡の意図とは違うけれど、珈涼もその提案には心が引かれた。


 今日、月岡は来てくれた。でも明日は、その次は?


 いつまでも月岡が気にかけてくれるはずがない。だったらいつそれが途切れても大丈夫なように、少しずつでもお金を貯めて自立の準備をしよう。


「……では、お願いします」


 頭を下げた珈涼を、月岡はようやく表情を和らげてうなずいた。

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