目覚め

◆1-1

 眠りというのものは、死に等しい。そう言っていたのは、誰だっただろう。

 ヴィオレが寝物語に語ってくれたのだろうか。塔の中一の知恵者だったゴズ老だろうか。記憶が酷く曖昧で、思い出せない。

 まるで、生まれてから15年間の月日が、夢のようで――

「――ぁ、」

 小さく呻いて、リュクレールは浅い夢から覚めた。何度も瞬くと、金と青が丁度半分ずつの瞳から、滴が零れ落ちてシーツに染みる。

 柔らかい寝台の心地良さに、またとろりと意識が弛みかけるが、彼女を苛む違和感がそれを拒んだ。僅かに身を震わせて、ゆっくりと起き上がる。

「……ここは」

 緊張を含んだ声を漏らし、辺りを見回す。リュクレールが15年を過ごした塔の中と、全く違う場所だったからだ。

 まず部屋の広さからして全く違う。寝台を初めとする家具は、数も少なく古びてはいたが、どれもきちんと手入れをされている質の良いものだということは解った。板敷の床に絨毯が敷かれており、窓には鎧戸の他に板硝子がはめ込まれている。リュクレールの知識にある貴族の屋敷としては、十二分の佇まいだった。

 鎧戸の隙間から漏れる光は金陽の輝きを満たしており、既に中天に昇りつつあるのだろう。その光が頬に当たって、ぼんやりとしていた意識が少しずつ鮮明になる。

 そうだ、自分はもうあの塔から出たのだ。つまりここは――というところまで考えた瞬間、こつこつと几帳面なノックの音がした。

「! ――はい」

 状況が解らなくても、ノックで誰何してくれる相手が居るのならば答えねばならないと、当たり前のようにリュクレールは思っているので、返事をした。扉の向こうから僅かにくぐもった、年季の入った女性の声が聞こえてくる。

『御目覚めになりましたか、奥方様。朝の御仕度に参りました。お伺いをお許し頂けますか?』

 言葉の内容に何度も瞳を瞬かせてから、寝台に寝転がったままでは駄目だと気づいて慌てて降りる。しかし足がまるで萎えてしまったかのようにかくりと力が抜け――床へ強かに膝を打ってしまった。

「っいた……!」

『! 奥方様、失礼致します!』

 大丈夫、と声をかける前に、恐らく有能な使用人なのであろう声の主は、部屋の異変に気付きすぐさま踏み込んできた。

 入ってきたのは、まるで針金のように細身で長身の、年嵩のメイドだった。床に座り込んでいるリュクレールに、慌てずだが素早く歩み寄り、そっと膝を折った。

「ご無礼、お許しください。お怪我は?」

「……いいえ、大丈夫です。何故だか、足に力が入らなくて」

「当然でございましょう。奥方様は、七日間眠り続けておられましたから」

「えっ!?」

 淡々とした声で言われて驚き、はしたない声をあげてしまった。同時に、はっきりと思い出す。

 生まれ育った塔が崩れ、自分を含めた全ての者があの地獄から解放されて。同時に自分は、あの男爵様の妻になったのだということも。

 一気に、リュクレールは頬が熱くなった。自分が既に既婚者なのだという事実と共に、貴族の妻としてあまりにもな体たらくの、今の状況が恥ずかしすぎる。慌てて立ち上がろうとすると、素早くメイドが支えてくれた。

「どうぞ、ご無理はなさらず。旦那様も非常に心配しておられました。昨日の晩から、目覚められる兆候があった為、今日は食事を共に出来るやもしれぬとお喜びでもありました」

 淡々と告げられる言葉の意味を、ゆっくりとリュクレールが飲み込んでいる内、メイドはてきぱきと廊下に置いていたらしいワゴンを運び込み、湯や櫛、化粧品などをチェストに並べている。リュクレールをベッドに座るように促してから、改めて深々と臣下の礼を取った。

「ご挨拶が遅れ、まことに申し訳ございません。私、シアン・ドゥ・シャッス男爵家現当主、ビザール様にお仕えしております、ドリスと申します。生憎この家には女手が私しかおりませんので、何分ご不自由をおかけするやもしれませんが、誠心誠意努めさせて頂きます。以後、お見知りおきを」

 丁寧な挨拶に対し、リュクレールは力の入らない足を堪えて立ち上がった。貴族の淑女として様々な霊達から礼儀作法を仕込まれていた彼女にとって、ドリスの礼には答えるべきと自然に体が動いたのだ。凛と背筋を伸ばし、しっかりと相手を見据えて告げる。

「こちらこそ、丁寧な挨拶、痛み入ります。わたくし、リュクレールはまだ未熟な身ではありますが、男爵様のお力になれるよう、精一杯務めさせて頂きます。どうか、力を貸してください、ドリス」

「……勿体ないお言葉にございます、奥方様。坊ちゃま――いいえ、旦那様は大変良い方を選ばれました」

 いいえと謙遜しそうになったが、一度細い目を瞬かせたドリスが、まるで安堵したように、ほんの僅か肩の力を抜いたので、リュクレールも緊張を解くことが出来た。

 ……もう、一番自分の近くにいた従者はいないのだ、という寂寥を飲み込みながら。

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