第565話 2021/5/1 可能とか

 本日は7時起き。曇天。強風。午後から雨になる模様。

 さて、5月1日だ。新しい月の始まり、また心機一転頑張ろう。とは思うのだが。しかし何かなあ。これといって理由もないのに調子が上がらない。気分が盛り上がらない。鬱持ちなんだからそれが平常運転であるとは言え、何かなあ。もう少し何とかならんものか。何とかって言われても困るのだろうけれど。


 かつてこの世には可能も不可能も存在しなかった。というと神話か哲学のようにも聞こえるが、実は可能という言葉は明治の日本人の作り出した単語らしい。もちろんそれ以前にも「できる」「できない」という言葉はあったので、日本人が特段困る事はなかったものの、「ちょっと賢そうな言い回し」が1つ増えた訳だ。

 しかし以前は文学や学問の世界などでしか用いられなかった言葉が人口に膾炙し、広く口語として使われるようになると、言葉の知能程度は下がる。いま「確かにそれは可能ですが」とか言ったからといって「賢そうだ」とか「文学に通じているっぽい」とか思われる事はまずない。もはや当たり前の言葉となっているのだ。それどころか言外の、本来持っていなかった意味まで持たされるようになっている。

 たとえば「この作業を期間内にできるか」と問われたとき、「できます」と答えれば、文字通り言葉通りできるという意味になる。ところが「可能です」と答えると少しニュアンスが違ってくる。「(理屈の上では一応)可能です」「(とりあえず技術的には)可能です」「(もしも予算が無限大なら)可能です」などなど、「条件を満たさなければ、できない場合も十分にあり得る」みたいな意味合いを含んでしまうのだ。だが本来的にそれは「可能」ではないのではないか。いったい可能とは何を意味する言葉なのだろうな。

 先般東京オリンピック・パラリンピック組織委員会が日本看護協会に対して、大会開催期間中に看護師を500人派遣して欲しいと依頼した。これについて国民の側から当然の如く批判が起きている訳だが、管首相は30日、

「現在休まれている方もたくさんいると聞いている。そうしたことは可能だ」(時事通信)

 と記者団に述べた。まあ、「(単に頭数を揃えるだけなら)可能」かも知れない。しかしわざわざ資格を取って看護師となって、それでも現在職から離れている人には相応の理由があるはずだ。500人集まれと言うのなら、その「相応の理由」を組織委員会や政府が何とかしてくれるのだろうか。「何も望まず、求めず、国家にご奉公しろ」と言うのでは、さすがに時代錯誤を通り越して、もはや精神科を受診すべきレベルである。

 確かにオリンピック・パラリンピックを開催する前提で動いているのであれば、大会期間中の医療態勢を構築しておく必要はある。そのために500人の看護師が必要なら、事前に募集する事は何も間違ってはいない。直前になって募集するよりはマトモな考え方とも言えなくもない。

 だが、募集したいからといって「募集します」と表明するだけでは話にならないだろう。まず最低限待遇の話から入るべきだし、何らかの理由で看護職から離れている人に対しては、「これだけのフォローアップができるので是非集まってください」と言わねばなるまい。それを抜きして可能か不可能かを述べる事にどんな意味があるのか。

 もしかしたら「大会公式サイトには書いてある」とか言うのかも知れないが、ざっと公式サイトを眺めた感じでは見つからなかった。そもそも公式サイト自体がかなり頭の痛くなるような作りだったものの、まあその辺は好き嫌いもあるだろうし、ツッコミはしない。しかしメディアで取り上げられた直近の話題くらい拾っておくべきなのではないかと思うところ。

 昨日の記者会見で「新型コロナへの対応を優先させるべきではないのか」と問われた首相は、

「そうした声があることは承知している。支障がないように全力を尽くしていきたい」(時事通信)

 と述べた模様。全力を尽くすのは良いが、「どのように」という具体策が挙げられていない。曲がりなりにも国家の最高権力者の言葉である、もう少し重みを持たせるべきではないか。「政府がその気になったらこのくらいはできるのだ」というところを明らかにしてもらいたい。オリンピックは東京都が主催するとは言っても、国家事業である事は明白だ。ならば首相は当事者である。いつまでも他人事のように話していては格好が付くまい。

 何もいきなり有能バリバリのスーパーマンになれと言っている訳ではない。ただ自分にできる事、言っていい事の範囲を把握しておくくらいは、その辺の新入社員でもやっている事だ。まずはそのレベルから始めてもらえないだろうか。


 死者数が40万人を超えたブラジルでは墓地が不足し、道路まで掘り返して死体を埋めているらしい。キリスト教圏は普通土葬だからな、こういうとき大変だ。

 もっとも火葬のヒンドゥー教国であるインドでも死者数が20万人を突破し、火葬場に遺体があふれているそうだ。しかもあまりに死者が多すぎて火葬に使う薪が不足しているという。

 いまや日本の新型コロナのメッカとなった大阪府であるが、さすがに上記のような状況と比較すると平和そのものである。まして虫けらの住む大阪府南部地域においては、新型コロナの騒ぎなど対岸の火事に等しい。

 うちの市の一昨日時点の、つまりこの1年数ヶ月の累計感染者数は505名。人口は8万人ほどで、新規感染者数が10人を超える日がときどきある程度。精神病院でクラスターが出た事もあるのにこのレベルで済んでいる。大阪中に、あるいは日本全土に新型コロナが蔓延しているかの如きいまの報道の仕方には、いささか疑問を持つ次第である。


 昔から「理屈と膏薬はどこにでもつく」と言うが、最近はここに陰謀論が混ざる。まあ気持ちはわからんでもない。陰謀論は誰にでも唱えられるし、それはそれで何かがわかったかのような気になるしな。SNSなどで発信して賛同が得られれば承認欲求も満たされる。メリットがいっぱいだ。クソのような戯言をバラ撒かれてウンザリする世の中の側からすれば笑えないが、個人単位では楽しいだろうと思う。

 そもそも陰謀論はいわゆる「根も葉もない」事ではない。根や葉を見つけるのだ、無理矢理にでも。たとえばこういう話題など最適である。

 ペルーのアルベルト・フジモリ元大統領の娘、ケイコ・フジモリ氏は6月6日に大統領選挙の決選投票を控えている。対抗馬は先月11日の大統領選挙で最多得票のペドロ・カスティジョ氏。カスティジョ氏は19%、ケイコ氏は13%だった。候補の数が多かったのだろうが、それにしても得票率の低いトップ2である。

 まあそれはさておき、父のアルベルト氏への恩赦を勝ち取り、同時に自らの政治家生命を少しでも延ばしたいケイコ氏としては、今回の大統領選挙――3回目の決選投票である――は是が非でも勝ちたいところ。しかし、現状はカスティジョ氏が優勢と見られている。

 ところが先月29日、カスティジョ氏が突然首都リマの病院に緊急搬送された。陣営のツイートによれば呼吸器不全とのこと。カスティジョ氏は一度新型コロナに感染し、回復している。もしかしたら肺に後遺症があるのではないか。国家のリーダー候補に健康不安があってはイメージが悪い。今回の入院はケイコ氏側に有利に働く可能性がある。ただ。

 こういうときは気をつけないと、陰謀論が湧いてくるのだ。つまり、ケイコ氏側が「一服盛った」のではないかと。おそらくそういう言説は流れるはずだ。この疑惑が大きくなるか立ち消えるかはペルーの諸事情によるところだが、大統領選挙はただでさえ国家を分断させるものだからな。単なる陰謀論的疑惑がより大事になる危険性もはらんでいる。この先突拍子もない展開にならないとも限らない。注視はしておくべきだろう。

 

 本日はこんなところで。うーむ。うーむ。うーむ。昨日も全然書けなかった。本当にスランプだ。頭に何のアイデアも浮かんでこない訳ではない。浮かんでくるのに書けないのである。どうしたものかなあ。まあ、悩んでどうにかなる訳ではないので、ため息つきつつ今日も頑張るしかないのだけれど。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る