イデオロギーは悪なのか〈11〉

 アルチュセールは「…イデオロギーは物質的な存在をもつ。…」(※1)と言っている。それは「イデオロギーは現実化される」というテーゼをある意味で言い換えたものでもあるが、要するに「イデオロギーは具体的なふるまいや行為において物質化=現実化される」ということである。

 たとえば、「ウルトラマン」とはもちろん「想像されたもの」である。だがデザイナーがペンを持って紙にその「想像された姿」を描くとき、「ウルトラマンという想像」は「物質的な存在を持つ」ことになると言える。また、そのデザイン画にもとづいて樹脂製のボディスーツが作られるとき、「その想像」はさらに新たな「物質的な存在を持つ」こととなる。そしてそれをスーツアクターが着用してアクションをとるときにもそうであり、それをフィルムに撮影するときもそうであり、それをテレビで放映して、その放送を視聴者が見ることにおいても、そこでは「ウルトラマンという想像が物質的な存在を持つ」こととなるのだと言える。そこからさらに進んで子どもたちがウルトラマンごっこをするということもそうであり、ウルトラマンのおもちゃを作ったり売ったり買ったりすることもそうだと言える。さらにはウルトラマンのボディスーツを着たスーツアクターをワイヤーで吊るせば、それは「ウルトラマンは空を飛ぶという想像」が、「ウルトラマンのボディスーツを着たスーツアクターがワイヤーで吊るされている」という「物質的な存在を持つ」こととなり、クロスさせた腕のあたりに光線の合成画像を加えれば、「ウルトラマンの必殺技という想像」が、「腕をクロスさせた実写映像に光線の合成画像が加えられる」という「物質的な存在を持つ」ということになる。このようにして、「ウルトラマン」という想像的な表象は、さまざまな人々のさまざまな具体的行為において現実化され、さまざまな「物質的な存在」として人々の目の前に現れることになる。そしてそれらを綜合して、「ウルトラマン」という想像的な表象が、それらの具体的な「物質的な存在」の現実的な意味を象徴し代表するわけである。


 ところで一般的に考えれば、ウルトラマンのデザイン画やボディスーツ、あるいは撮影されたフィルムや玩具などは、ウルトラマンという想像されたものが「物質化したもの」であるように思える。もちろんそうであってもかまわない。しかし、「想像が物質的な存在を持つ」というのは、ただ単にそういうことではない。

 アルチュセールは言う。

「…イデオロギーの物質的存在は、ひとつの舗石やひとつの小銃と同様の態様をもつものではない。…」(※2)

 たとえその「ひとつの舗石やひとつの小銃」が「イデオロギーにもとづく行為によって生み出されたもの」だったとしても、たとえそれを「イデオロギーの物質化」と呼びうるとしても、つまりその物質に「イデオロギーが転化されている」のだと言えるとしても、むしろそうであるがゆえに「その物質的存在をイデオロギーが持つ」ということには単純にはならない。

 「イデオロギーが物質的な存在を持つ」ということはどういうことなのか?

 それは、イデオロギーと物質的な存在との「関係」のことなのだと言える。


 「想像が物質的な存在を持つ」というのは、たとえば「ウルトラマンという想像」にもとづいてデザイナーがペンでそのデザイン画を紙に「描くこと」である。そしてそれにもとづいて樹脂製のボディスーツを「作ること」である。さらにそれをスーツアクターが着て「演技すること」もそうであり、その姿を「撮影すること」も、そうであり、その撮影フィルムを「テレビ放送すること」もそうであり、それを視聴者がテレビで「見ること」もそうなのである。

 アルチュセールは言う。

「…想像的な関係はそれ自身、物質的な存在を与えられている…。」(※3)

 言い換えるなら、「想像的な関係はそれ自身、物質的な関係を与えられている」ということである。そしてそれらの「関係」は、たとえば「ウルトラマンという想像にもとづいて互いに関連づけられた関係」である。

 もし想像の物質化したものが「存在している」としても、それもまた結局のところ「想像的な関係において、その想像と物質が関連づけられている」がゆえにそうなのだ。そしてそれがその存在を「条件づけている」のでもある。つまりそのような「想像的な関係の中で物質化されているものとして、その存在は条件づけられる」ということなのである。その存在はたとえば想像的な関係に与えられた物質的な関係を「とりもつ役割」を果たすということはあるだろう。ウルトラマンのボディスーツは、それをスーツアクターが着用するという「物質的な関係に関与する」だろう。しかしそういうことがなければそれは、それ自体として一体何を表現できるというのだろうか?「何を表象することができる」だろうか?せめてそれを「見る」という最低限の関係もそこに「ない」としたら、それにおいては「ウルトラマンという想像の何をも表象するところがない」のである。


 ここでアルチュセールがイデオロギーに対して与えた定義をあらためて取り上げてみよう。

「…イデオロギーは諸個人が彼らの存在の現実的諸条件に対してもつ想像的な関係の表象である。…」(※4)

 ウルトラマンのデザイナーにとって、その存在の現実的条件とは、何よりもまず「彼自身がウルトラマンのデザイナーであること」であり、その条件に対する彼自身の「関係」とは、「彼自身がウルトラマンをデザインする、あるいはした」ということだ。そして彼自身にとってウルトラマンという「表象」は、「彼自身のその現実的な関係を表象するもの」だと考えることができる。

 ありていに言えば、ウルトラマンのデザイナーにとってウルトラマンという「言葉」は、彼自身が携わろうとしている、あるいは携わった「仕事=行為」を指し示している言葉なのであり、それを「象徴している言葉」なのだと言える。もし彼が「俺はウルトラマンをやるんだ」と、あるいは「俺がウルトラマンをやったんだ」と言うとすれば、それは、彼自身がウルトラマンをデザインするという「行為・ふるまい」を意味しているのであり、その言葉はスーツアクターにとっては彼自身がボディスーツを着用して演技するということであり、カメラマンにおいては彼自身が撮影してフィルムに収めるということをそれぞれ意味するのである。そして彼らそれぞれが、「俺はウルトラマンをやる、あるいはやった」と言うとき、その仕事=行為に対する彼ら「それぞれの関係」が、その言葉に「表象されている」のである。

 そこで、次のようなことが言えるものとなる。

「イデオロギーの中で人間が思い描くのは、何よりもまず、その存在諸条件に対する人間の関係である。」

 「俺がウルトラマンをやる」ということにあたって、ウルトラマンのデザイナーは彼自身に与えられた仕事として、つまりウルトラマンをデザインすることにおいて、「さて、俺はウルトラマンをどのように描き上げようか?」と考えることだろう。ウルトラマンのデザイナーである彼自身の、そのペンさばきや色使いを、彼自身は「想像の中で思い描いている」ことだろう。それが、ウルトラマンのデザイナーであるという彼自身の「存在条件」に対して、「彼自身がしようとしていること(関係しようとしていること)」についての、「彼自身の想像」なのである。彼にとって「俺がウルトラマンをやる」ということは、「俺はウルトラマンに関係する仕事をする」ということであり、そこで彼が考えるのは「俺はそこでどういう仕事をしたらいいだろうか?」ということ以外ではない。スーツアクターであれば「俺はどうアクションをとったらいいだろうか?」ということを考えるだろうし、カメラマンなら「俺はどう撮影したらいいだろうか?」ということを何よりもまず考える。彼らがそれぞれにウルトラマンという表象、すなわちウルトラマンという「作品」について考えるとき、それに関連づけられるそれぞれの仕事のことを、何よりもまず考えるのである。そのように考えられているところのそれぞれの仕事が、ウルトラマンという「表象の中」において、それぞれに「思い描かれている」のだと言えるわけである。

(つづく)


◎引用・参照

(※1)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」 柳内隆訳

(※2)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」 柳内隆訳

(※3)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」 柳内隆訳

(※4)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」 柳内隆訳


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