第3話 2月16日(火) 17:30

僕は昨日と同じ場所に、同じ時間にいた。

時間も場所も特に決めていなかったけれど.

なんとなくこの場所であることはわかっていたし、昨日と同じ時間に彼女もやってきた。

相変わらず人気のないこの場所は、僕らだけの世界で、今日も彼女は黒を基調とした服装だった。


「涼ちゃんはずっと変わらないんだね。あの頃と一緒。」

彼女の言葉は本当にいつも唐突だ。



当時の僕はとても体の弱い少年で、友達が全くいなかった。小学校に入学してからずっと入退院を繰り返しており、久々に学校に行ってもみんなの輪の中に加わることが難しかった。

そんな僕は、いや、だからなのかもしれないが自分のいる病室が好きだった。

なんの味気もない黄味がかった病室はただそこにあるだけで、何も求めて来なかった。


そんな僕のお気に入りの場所に、梅雨の終わりと同時にやってきた少女が杏だった。



「初めてあった時は涼くん、こっちも向いてくれなかったよね。挨拶しても外見てるし、ずっとカーテンは閉めてるし、名前もお母さんから教えてもらったんだよね。」

彼女は笑いながら横目にちらっと眼くばせする。



確かに僕は初め、自分のテリトリーにやってきた彼女を拒絶していた。クラスの輪に入らないのと同じように。

こんな田舎の病院では、病室の中は老人ばかりで、自分と同じ歳くらいの子が入ってくるのは完全に想定外のことだった。

だけれど、それ以上に気に障ったのは、自分の母が彼女の面倒も見始めたことであった。病院に住んでいた当時の僕にとって、唯一の話し相手は母であった。

嬉しい時、辛い時、いつも側にいて僕を見守ってくれる存在。

そんな母を奪われたとしか思えなかった僕は、余計にわがままになっていた。食事を嫌がり、着替えを嫌がり、ベットを揺らして、夜は力つきるまで寝付かなかった。それでも母はいつも優しく僕のわがままに付き合ってくれていて…だからこそ、それが余計に悔しかった。

どうしようもない混沌とした感情は行くあてを失い、日に日に大きくなって…彼女の方へと向いていった。


彼女が入院してから1ヶ月がたった頃、母はいつものように優しく

「涼ちゃん、ほら、杏ちゃんにそのマンガを貸してあげましょ。」

といった。

僕は嫌だといった。

即答だった。絶対に貸したくはなかった。

母から何を言われても、僕は外を向いて黙っていた。


その時だった。


ベットのカーテンが少し開き、彼女が自分で僕の目の前にやってきた。

そして何も言わずに両手を差し出し、深く頭を下げたのだった。

見えていないふりをしようたしたが、もう抑えるのが限界だった。

母のことにも、そして自分のしていることにも限界を感じていた。

だから僕は一言だけ呟いた。

「お前さ、親は何してるの?」

それからのことは、あまり覚えていない。

頬にものすごい衝撃が走り、あたりは無音に包まれた。

いきなりのことで何が起こったのかわからなかったが、気がつくと自分首が勝手に外を向いていた。僕が首を戻すと、さっきまで座っていた母がすぐ横に立っていた。

その顔はよく見えなかったが、頬には涙が流れ、右手は赤く腫れて震えていた。

その姿を見たとき、やっと僕は全てを理解した。

生まれて初めての経験に僕の目からは涙すら流れなかった。



「でもさ、涼ちゃんは本当は優しかったんだよね。マンガを貸してくれてから、本当に色々なモノを貸してくれた。

私ね、実は全然興味のないし、欲しくないモノまで涼ちゃんに借りてたんだ。

ただ…涼ちゃんの持っているモノが欲しかったんだ。」

そういって、遠くを見る彼女の横顔に、僕は当時の幼かった彼女の横顔を重ねていた。



あの日以来、彼女は僕に色々なモノを借りに来た。彼女は毎日なんの遠慮もなく、僕のモノを借りにきた。そのうちに彼女は、僕のベットの横にまできて話しかけるようになっていた。

しばらくの間、僕は彼女の顔をちゃんと見ることができなかった。

そこに流れる空気感を僕は直視できなかった。

それでも、彼女は無口な僕に愛想を尽かすことなく話しかけてくれていた。よくもそれだけ話せるなと感心するほどに色々な話題を投げかけては、その場その場でとっておきの表情を見せてくれた。

気がついた頃には僕は彼女のことを待っていて、僕と彼女は常に同じ時間を過ごす仲になっていた。いつの間にか、彼女がいない病室を考えられなくなっていた。


僕の居場所は…なんの味気もない黄味がかった病室は、何も求めていなかったはずなのに、彼女の居場所にもなっていたのだ。

二人の時間は、病室という極限られた飾り気のない空間ではあったが、そこに流れる時間は永遠で、2人だけしかいないからこそ眩しいくらいに輝いていた。ずっと話していても、話題は尽きることなく、ただ他愛もなく話しているだけなのに毎日が24時間があっという間に過ぎ去っていた。


そんな日々の終止符はあっという間に打たれてしまったが…


あの日、杏が入院してから3ヶ月くらい経った頃、彼女はいつもとは明らかに違う表情で僕のところにやってきた。幼かった僕にもその空気の違いを感じることができた。


「涼ちゃん…ごめん…」

彼女は少し声を詰まらせて、ただ単に謝った。

俯いたまま、ただ単にただ単に謝った。

けれど、僕はその意味を、たったそれだけで、充分すぎるくらい理解した。

それ以上の言葉は必要なかった。


それなのに僕は何もいうことができなかった。

また以前のように彼女を見ることができずに、ただ目に映らない外の風景を眺めることしかできなかった。


どれくらい時間が経ったのだろうか。

そこには耐えられないほど長い時間があった気もするが、本当は僅か2、3分もなかったのかもしれない。

彼女は無言のままカーテンを閉めて、そこに写っていた影とともに病室を去っていた。僕は、相変わらず外を見たまま動けなかった。


その目には、夕焼けに伸びる2本の飛行機雲が綺麗な平行線を描いていた。


その日が、杏にあった最後の日だった。

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