第40話
「よく迷子になってたよな、おまえ」
「何、突然」
「いや、迷子になってビービーなくおまえを探しにいくのが小さいころの役目だったな、と思ってさ」
どうしたら一本道で迷えるんだか不思議だった、と兄は私を見た。
「それがいまや彼氏連れてくる年になったのかと思うと、感慨深くてさ」
「結婚するのは兄さんでしょ」
「はは、そうだな」
もし、好きって言ったらどうなるだろうか。向こうの歩行者用の信号が点滅する。酔いがさめるだろうか。驚くだろうか。どんな顔をするのだろう。兄の赤くなった頬をつつく。
「うん?」
酔った兄は可愛らしく小首を傾げた。
「あの、さ」
スマホが鳴った。母だった。ため息一つ。
「もしもし、そう私。兄さん?……ああ大丈夫今一緒にいる。そうなの?兄さん、母さんに何も言ってこなかったの?心配してるけど」
「はあー? 酔いざましに歩いてくるって言ったけど」
街路樹にもたれかかった兄は笑った。
「もしもし、聞こえてた、ああそう。分かった。大丈夫。うん、タクシー拾うわ。じゃあ」
「どうした、ゆかり。道違うぞ、家はまっすぐだ」
背中を押せば兄はすっかりご機嫌だった。背中にあてた私の手に体重を預け、家のある方角を指差し、しゅっぱーつと叫んだ。
「行くよ、歩いて。タクシー乗るから」
「えー、歩いてこうぜー、酔い覚ましにさ」
左へ曲がろうとしたが、兄はまっすぐ指さした。
兄は酔っている。これが、最後だ。思えば、力を抜いていた。後ろへもたれかかっていた兄の全体重を受け止める形になりたたらをふんだ。ビール一杯で十分酔っ払った相手にさえ力はかなわない。
「どーした?」
体を起こした兄は心配そうに顔を覗き込んでいた。そうだ、最後なのだ。いいじゃないか。最後だから。
日常からはみ出さぬためならば、レールの上から外れぬためならば、私は私の心がどうなろうとかまわなかった。大切な人を傷つけぬそのためならば、心などどうと言うことはない。叶わぬ夢でも諦められぬものならば、それとともに生きていくしかないと諦めた日から私は人を愛することを諦めた。他の人を愛そうとしたこともあった。
それでも消せなかった感情だった。それなら――。家に帰るまでの少しの間くらい。
「歩いていこっか」
信号が青になった。
一歩踏み出す。横断歩道の、白線だけを渡って兄と二人歩き出した。
私は黙って前だけを見ていた。あふれる思いを押さえつけ、ただ歩くことだけに専念した。ただの二足歩行がこれほどまでに難しかったのは、これまでもこれからもきっとないだろう。
「ねえ」
つぶやいた。隣を歩く人は明日からは別のひとだ。私と彼をつなぐ唯一のものは血のつながりになってしまう。私にとって一番厄介で一番取り去ってしまいたかったものだけが私たち兄弟に残されたものになる。どうにもならない現実をまざまざと見せ付けられても、私は笑うことしかできなかった。
「なんだ」
何度この笑顔に心のうちを吐露してしまおうと思ったことだろう。最初のころは純粋に、やがて兄がどう反応するのかと歪んだ思いで、そして今はもう完全に手の届かぬ人になる、いやなってくれるかこの人として。そこまで考えて苦く笑う。過去の人に対する痛みはこんなものじゃなかった。やはり現在進行形なのだ。
「手繋ぐか」
「え?」
笑顔の兄に私は硬直した。
日常って、どこだっけ。夏の夜風に溺れそうだった。
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