第38話
「それなら!」
「だけどな、仕方ないんだ。理屈じゃないんだよ」
本当に不思議そうに自分でもわからないのだ、と笑った彼の声に気づけば音をたてないように外に出ていた。扉を背に、何度も息を整えた。大丈夫、大丈夫だ。自分に言い聞かせる。
声だけでも分かった。私はあの感情を知っている。諦めたくて、手放せない。離れられない。目をそらしたいのに、その輝きばかりが視界に入る。耳を塞ぎたいのに、その声を聞く機会を失いたくない。正解を知っているのに、……そう、笑っていて欲しい。健やかにあってほしい。多くは望まない。同じだけのものが返ってくるとは思っていない。分かっている。それでも時折、無性に感じてしまうもの。私が兄に感じる思いを、私は章に感じさせている。
涙が出た。それが、章に対してなのか、自分に対しての涙なのかは分からなかった。夏の日差しで温められた扉が熱い。しばらくしてなんとか気持ちを整えると、インターホンを押した。
「なんだゆかりか。どうした? 実家帰るんじゃなかったのか」
章の声はいつもどおりだった。顔もいつもと変わらない。
「蚕、桑やっていないの思いだしたから」
「そうか」
手伝うよ、と部屋へと向かう彼のあとを歩いた。
私の姿を見ると和哉は部屋から出て行った。
「ラインくれればやっておいたのに」
「でも、楽しみだから」
「そうだよな。大きくなってきてから、桑食うの見ているだけでなんか癒されるものな」
新聞紙を換えて、蚕を移動し、新しい桑にする。持ち上げれば潰しそうだった蚕も、今は人差し指くらいの太さになり、そのひんやりむにむにの感触が癖になっていた。吸盤のような足の先で少しだけ持ち上げるときに抵抗があるのも可愛く感じ始めていた。葉の端から順に食べていくのもいれば、葉の真ん中から円形に食べ進めるのもいる。吟味でもするように桑の上を動いてから食べるのもいる。シャムシャムと桑を食むその音は雨音のようで、漣のようだ。こんな時でも心地よい。
彼もまた大きな桑の葉を一匹の蚕の上に乗せた。とりわけ食欲旺盛なその蚕は真新しい桑の葉に移動する。彼はそれを片手で持ち上げ、片手でシャッターを切った。
「かわいいな」
「うん」
肩が触れ合う距離。彼の筋肉質な二の腕に、半袖が触れるたびいいようのない気持ちになった。あっという間に、一枚の葉を食べつくす蚕を二人で眺めた。
「そろそろ、行かないと時間大丈夫か?」
「うん」
彼の顔に、後悔の色も迷いも見えない。見つけられなかった。
「ゆかり」
玄関先、振り返ると封筒を渡された。
「お兄さんに渡して」
心臓が跳ねた。
「兄さんに?」
「この間写真やっていること伝えたら見たいって言ってたからな。我ながらいい出来だと思う」
「ありがとう。気を遣わせて」
気にするな、彼は私の髪に触れた。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
「気をつけて」
車の中信号待ちの間に渡された封筒を開いた。そこには風景写真に交じって、月に手を伸ばすあの日の自分の姿があった。
月明かりに照らされた私の横顔、遠くに映りこむ兄の背中。届かない人を求めて手を伸ばした私と、それに気づかない兄が映っていた。そして、切り取った瞬間の章の葛藤が痛いほどに映し出されていた。一枚、その写真を抜き取ると、ダッシュボードに押し込んだ。
胸が痛い。だけどそのことにほっとする自分がいた。まだ私はこちら側にいられる。
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