主人公、胡蝶の夢から覚める
――彼は、薄暗闇から浮かび上がるような、意識が覚醒する感覚を得た。
続く動きで瞼を開く。
見知らぬ天井が視界に映る。
そうやって得られた情報に対して真っ先に浮かんだ感情は、落胆のそれだった。
●
「…………」
いやまぁ、命があることに安堵していないわけではなかった。
当然のことながら、こうして意識を取り戻せたことを喜ばしいと思う気持ちは確かにあった。
ただ、助かったという喜びよりも、こうして意識が戻ってしまったことこそが憂鬱だと、そう思う気持ちの方が強かっただけの話だった。
……普通だったら喜びの方が勝っているだろう状況なんだろうけどなぁ。
今の自分にとって生きるということは苦行でしかないので素直に喜べないのだった。
我ながらどうしてこんな道を選んでしまったのかと後悔しているところではあるし、そもそも自分でこの道を選んだのだから自業自得でしかないのだけども。
敵しか作らないような生き方を続けなければならないことを喜べ、というのはなかなかに難しいものであると言わざるを得なかった。
……本当に、どうしてこんな道を選んでしまったんだか。
とは言え、そんな風に考えていても、こうして生き残ったからには次の行動に移らなければならないと思ってしまうのも確かな事実だった。
生き長らえるということが地獄そのものであると考えつつも、今こうして考える頭がある以上は、消えることを簡単に許容できない自分がいるからだった。
……度し難いったらありゃしない。
だから、そういうものだと思って諦めて、行けるとこまで行くしかないのだろう、たぶん。
しかし、そんな益体もないことを考え続けている暇はないので。
「……しんどいわぁ」
そんな言葉と共に溜め息を吐いて、思考を切り替えることにした。
……さて、考えるべきことは多いが。
まずやるべきことは現状の把握だろうと、そう思い。再び瞼を閉じて思索を始めた。
――はっきりと覚えていることは、意識を失う直前に誰かしらから襲撃された事実だった。
おぼろげに認識できていることは、その誰かに夢を見させられていたという可能性だけだった。
……現状において考えるべきは後者だな。
必要なことは現状に対応するための情報整理であって、こうしていればよかった、などという後悔ではないのだから、どうにもならないことに労力を割くのは無意味だ。
もっとも、後者について考察が進められるほどの材料があるかと言われれば、無いと言わざるを得なかったりもするのがなんともしがたい現実なのだが。
……いつものことと言えばいつものことか。
この世界に来てから確実な情報と言えるものが得られた試しなんてないのだから、今更な話だった。
どこかの誰かが決定的で確からしい情報をもたらしてくれる幸運があるのなら、ぜひともそんな機会に恵まれてみたいものだと心底思ったりもするけれど。
……ないものをねだっても仕方がないからなぁ。
そう考えて、思索の方向を建設的なものへと切り替える。
「…………」
本来であれば、襲撃されて意識を失い、見覚えのない天井を見て現実にがっかりするまでの間に起こった出来事を自分の持っている情報だけで特定することは極めて難しい作業だった。
意識がなければ事象を認識することもできないのだから当然と言えば当然の話であるが、今回に限っては違った。
少しだけ情報らしいものが頭の隅に残っていたからだった。
……まさに夢のような話だ、とでも言えばいいのか?
かつて居た世界に戻ったような、そんな幻を見ていた。
蛇口をひねれば飲める水が出て、スイッチひとつで電気が通って気温も明るさも自由に変えられる利便性に溢れた豊かな世界を――もう二度と戻ることができない場所を思い出させられたのだから、忘れようにも忘れられなかった。
しかも――最後の最後には車に轢かれる場面まで見せられたのだったか。
――誰が忘れてやれるってんだ、こんなこと。
ふざけんな。
決定的な場面に至る前に終わったからいいものの、あんなの見たら精神的に死ぬだろうが。
異世界に飛ばされて。
夢に殺されて。
生まれ変わったかのように誰かに従わされる。
……ああ、本当にそうなったならどれだけ良かったか。
悩まず、苦しまず、誰かについていくだけでいい生活はすこぶる快適なことだろう。
――本当にそうなっていれば、どれだけ楽なことだっただろうと強く思う。
だが、現実はそうならなかった。
俺はこうして生き長らえた。
殺されかけた記憶を残したまま目が覚めてしまった。
そうなればもう止まらない。
止まる理由などないからだ。
こちらが売った喧嘩を相手が買ったのか、こちらが喧嘩を売られたのか。
そんなことも関係ない。
……害為すモノは全力で排除する。それだけだ。
結論が出れば、あとは行動するだけだった。
――瞼を閉じたまま全身に意識を巡らせる。
どうやら襲撃の際に受けた傷は治癒されているようだ。
手足も欠けた部分はなく、拘束されている感覚もなかった。
五体満足なら行動に支障はないだろう。
――瞼を開く。起き上がる。周囲を見回す。
寝ていた場所は、この世界ではよくある石材の壁で囲われた部屋のようだった。
窓はなく、壁にある燭台だけが光源の薄暗い部屋ではあったけれど、独房の類ではないと思われた。
空気が埃臭くないし、寝台に使われている布やらも清潔なものだったからだ。
――部屋の中に人影はなかった。
外部に繋がる唯一の扉、そのすぐ外に見張りが控えている可能性はあったものの、それはここから判別できる内容ではない。
……声をかけるか?
声をあげれば誰かが来る可能性は高いだろう。
――いや、あるいは既にこちらが目覚めていることを察知して、誰かが向かってきている可能性の方が高いかもしれないが。
いずれにせよ、重要な最初の一手を相手に委ねるような行動は避けた方がいいに決まっていた。
声をかけるという選択肢は却下した。
……もちろん、逃げるという選択肢を選ぶ気もない。
そして、ここは手札を出し惜しむべき場面でもなかったし。
――襲撃されて命がある。
その上で支障なく動ける状況ならば、躊躇う理由も見当たらなかったから。
――火蓋は既に切って落とされている。
ゆえに。
意識を失ったことで止まってしまっていた、いくつかの魔術を再起動した。
逃げ道のない敵地で、囚われの身である自分がそんなことをすれば相手を刺激することにしかならないだろうことはわかっていた。
……だからこそやるんだろうが。
形振り構わず暴れる馬鹿を演じきる。
そうすることで"相手をするだけ損だ"と思わせることこそが、個人と集団の間に対等な関係を築くために最も必要なことだからだ。
……それに、実際にそうなってしまったところで結果に大きな差はない。
死ぬか生きるか。
こちらがやっているのは生存競争であり戦争だった。
だったら、やれることは全てやるのが当たり前なのだ。
「…………」
そうやって魔術を再起動して情報収集やらを進めていると、やがて室内に扉を叩く音が響いた。
こちらの返事を待たずに扉が開いて、そこから複数の人影が入ってきた。
薄暗闇の中でもわかる険しい表情を浮かべて、固い雰囲気を纏った集団が部屋の入り口を塞ぐように展開した。
そして集団のうちの一人が一歩前に出ると、口を開いてこう言った。
「目が覚めた直後で大変申し訳ないのですが、お会いして頂きたい方がいます。
ご足労を願えますか」
聞こえた内容に、浮かび上がる笑みをこらえきれなかった。
こちらの笑みを見て、相対する集団の纏う空気がさらに固くなったけれど。
言ってしまえばそれ以上の反応はなかったから、構いやしないと笑いがおさまるまで笑い続けた。
……わかりやすい連中だ。
物事の流れを想像するだけであれば、そのための情報はどこからでも得ることができるものだ。
襲撃して捕らえた相手が敵対行動をしても即応はなく、こうして状況を考えずに笑われたことに対して不快を示してくる一方で手は出してこない。
――その上で、選択肢がないはずのこちらにご足労を願うと来たもんだ。
ここまで揃えば馬鹿でもわかる。
……賭けには勝ったか。
まぁ結果がどう収まったかはわからないあたりが非常にしまらない話ではあるけれど。
そこも含めて笑える話だと、そういうことでもあった。
そうしてひとしきり笑ってすっきりした後で、返事を待っている相手がいることを思い出し、視線をそちらにやってから言う。
「……いや、いきなり笑い始めてしまって申し訳ない。
しかし、選択肢もなさそうな状況でそんな言葉をかけられては笑うしかないじゃないか。
そうだろう? あんたもそう思うだろう?」
「……ついてきていただけると思って構いませんか?」
こちらの問いかけに相手は応じることなく、確認の言葉だけを返して来た。
つまらない反応だった。
だから溜め息と共に両手をあげて従う意思を示してやった。
「ああ、ああ、従うよ。連れて行ってくれ」
ついでにこうも言ってやれば、
「では案内をさせていただきます」
相手は早速そう言って、黙ったままの連れも含めて部屋の外へと出て行った。
――ついて来いと、そういうことなのだろう。
その意図を汲んでやって、ぞろぞろと出て行く連中のあとに続いて部屋を出た。
油断ができる状況ではないし構えておく必要はあるものの、これから先はただ歩くだけの時間となることだろう。
……考えることは山ほどあるからちょうどいい。
そう思って、まずはこれから面会することになる誰かについて想像を働かせるところから思索を始めることにした。
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