フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン
紫堂文緒(旧・中村文音)
第1話
一週間の仕事が終わった日曜日の夜、村にたった一軒しかないバーで冷たいビールを一杯飲むのが、とかげの何よりの楽しみでした。
古くて小さい店でしたが、いつも隅から隅まで掃除が行き届いていて、塵ひとつ落ちていたことがありません。
グラスはひとつ残らず、どれもぴかぴかに磨かれていました。
そのグラスにほんのり酔った自分の顔が、表面のカーブに沿ってユーモラスに間延びして映っているいるのを見ると、とかげはほっとして思うのでした。
「今週も一週間、よく働いたなあ。
今日はビールを飲んでぐっすり眠ろう。
そうして明日から、また頑張ろう」
とかげはひとりっきりで小さな家に住んで、朝暗いうちから狭い畑を耕して暮らしていました。
それだけでは到底食べていけないので、自分の田畑の世話が済むと、村の地主さんの農場へ行って働きました。
田畑を耕すのはもちろん、鶏小屋に行って卵を集めたり、豚小屋で豚にえさをやったりもしました。
小屋の掃除もしましたし、寝床つくりも手伝いました。
農家の仕事には土曜も日曜もなくて、その上そこではいろいろな種類の野菜や穀物が作られているものですから、いつも何かしらすることがあって、ほとんど休みも貰えなかったのです。
けれどとかげは働くことが好きで、また、性に合ってもいたので、少しも辛いとは思いませんでした。
よく働ける丈夫な体があって、自分を必要としてくれる人がいることを、とかげはいつも「うれしいな」「ありがたいな」と思っていたのです。
それに、週に一度飲むビールが、十分にその疲れた体を癒し、心を安らかにしてくれました。
時折、お金に余裕があると、お店の旧いジュークボックスで好きな曲を一曲かけるのが、とかげのささやかな贅沢でした。
「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」
この曲を聞くと、とかげはいつでも、この店に初めて入った日のことを思い出すのでした。
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