第493話 穂月が練習の合間に演劇部を少し覗いたら、思わぬ大騒動に発展してしまいました
入学してから1年が経過すると、仮宿みたいに思えていた校舎にも大分慣れる。当初は穂月も物珍しげにキョロキョロしていたが、今ではどこに何があるか大抵知っているので、1人でも鼻歌混じりで歩けるほどだ。
「あ……」
トテトテと動いていた足がピタリと止まる。教室前に掲げられたプレートには演劇部の文字。
中から聞こえてくる元気な声に引き寄せられ、穂月はこっそりと少しだけドアを開ける。
「皆、楽しそうだな……」
ほんの少しだけ所属した穂月は、当時を思い出して目を細める。
親身になってくれた部長は卒業してしまったが、部員には顔見知りも多い。
そのうちに部員の1人が穂月に気付いた。
「穂月ちゃん、演劇部に戻ってきてくれた……ってわけじゃなさそうだね」
一瞬だけ瞳を輝かせた同年の女生徒が、すぐに顔を俯かせた。ノリツッコミみたいになってしまった理由は単純明快、穂月がソフトボール部の練習用ユニフォームを着用中だからである。
「あはは……ごめんね、ちょっとだけ気になっちゃって」
「穂月ちゃんなら大歓迎だよ、是非、見学してって」
そう言われると断り辛い穂月だ。生来の芝居好きも相まって、お邪魔しますと部室に入る。
放課後というのもあり、グラウンドからは元気な掛け声が届いてくる。恐らくはソフトボール部員のも含まれているだろう。穂月が何故に1人で校舎内を走っていたかというと、投手用の体力増強用メニューを消化中だったからだ。
なのでサボッたりするのは言語道断なのだが、楽しい雰囲気に当てられてしまっては抗うことなど不可能だった。
「コンクール用の練習してるの?」
穂月の問いかけに、最初に声をかけてくれた女子がにっこり笑って首を振る。
「今は新入生に慣れてもらうため、大筋だけをなぞって、あとはアドリブで演技してるの。だから穂月ちゃんが混ざっても平気だよ」
「ふおおっ!?」
思わぬチャンスを得た穂月は、瞳が輝くのを抑えきれない。ソフトボール部内でも穂月を気遣って演劇が行われたりするが、やはり本職に混ざるのは一味違う。
「ううう……でも練習が……でもちょっとだけなら……」
悩みに悩んだ末、穂月が出した結論は少しだけ参加するというものだった。
ユニフォーム姿でも、久しぶりの演劇部の部室でのお芝居だ。思う存分に体を動かし、声を出している間に自然と頬が緩んでいた。
心から楽しんでいたからこそ、穂月が気が付けなかった。こっそりと部室内を窺う視線があったことに。
*
「……っていうわけなんだよ」
胡坐をかいた陽向は合わせた足裏を無意味に擦り合わせながら、掴んだ指をぐにぐにと弄る。少しだけ唇が尖るのを自覚しては平静さを保とうとするが、すぐにまた元の拗ねたような表情に戻ってしまう。
「んー……まあ予想できた事態ではあるのよね」
顎に当てた人差し指で厚めの唇を軽く押し上げつつ、朱華は視線を僅かに上へ向けた。
「まあな……で、どうしようかなって悩んでるんだよ」
小さい頃から何かと面倒を見てくれた年上の友人が、所用で進学した大学の寮から一時帰宅していると連絡を貰うなり、そのまま相談を始めた陽向。
その足で朱華宅にお邪魔し、彼女の部屋で改めて事情を説明したばかりだ。時刻は夜の9時過ぎ。母親の仕事の都合で1人が多い陽向には何でもないが、女の子だけで夜に出歩くのは危険だからと、泊まっていくのが決定していた。
「どうしようって……ほっちゃんを演劇部に戻すってこと?」
予期せぬ発言だったのか、朱華は顔の位置を戻すなり目を見開いた。大学生らしく薄い化粧が施されており、いつにも増して大人の女性的な雰囲気が強い。
きっと自分はこんなふうにはなれないだろうなと少々羨みながらも、陽向はコクンと首を縦に動かした。
「あれだけ楽しそうなほっちゃんを見てたらさ、どうしても考えちまうんだよ。このまま無理にソフトボールにつき合わせてていいのかなって」
「確かにね……小、中と演劇部がなかったから、私たちで協力するなり作ったりしてたけど、高校にはきちんとしたのがあるものね」
決してソフトボールを嫌がっているわけではないが、穂月という友人内で中心的な少女はやはり何よりも芝居を好んでいるように見える。
「私もそう思ったから、ほっちゃんには演劇部でいいって伝えたこともあったわね」
「ああ見えてすごく優しいから、結局ウチに入ってくれたけどな」
「まーたんは、その優しさに甘えてるのが嫌なのね?」
「嫌っていうか……無理させてないかな、とは思うな。それに1年経って気持ちが変わってるかもしれねえし」
「どうしてそう思うの?」
「……俺にはあーちゃんと違って人望がねえからな」
地毛の茶髪をくしゃりとしてから、陽向は「あーっ」と叫んで頭をブンブン振る。トレードマークのポニーテールが勢いよく背中にぶつかった。短くしようか悩んだ時もあったが、穂月から「まーたんがまーたんでなくなるの?」と昔に言われて以降、ずっとそのままである。
「そんなことはないと思うわよ」
「慰めはよしてくれ、自分でもわかってんだ……」
「なら、ほっちゃん自身にまた選んでもらえばいいでしょ」
「やっぱり……そうなるよな……」
視線を落として陽向は下唇を噛む。悪い予感ばかりに気を取られていたせいで、年上の友人の「大丈夫だろうけど」という予想を上手く聞き取れなかった。
*
演劇部にお邪魔した翌日のグラウンド。今日こそ投手用メニューを全部やろうと意気込む穂月は、やたらと思いつめたような主将に呼び止められた。
小首を傾げつつ会話に応じると、ガシッと両肩を掴まれる。
「俺は……俺は……ほっちゃんがソフトボール部を辞めてもいいと思う!」
「え? ん? ……ふおおっ!?」
きょとんとしたあとで、何を言われているか気付いた穂月は危うく泡を噴きそうになった。
「まーたんが穂月を追い出そうとしてる!?」
「なっ……ち、違うって! そうじゃないんだって!」
一気に騒がしくなるグラウンド。真っ先に詰め寄った悠里にタジタジになりながら、陽向は両手を振りつつ事情を説明する。
話を聞いた部員一同に納得の色が浮かび、続いて不安そうな視線が集中する。地元の高校なのもあり、ソフトボール部員でなくとも穂月の演劇好きは知れ渡っていた。
「一緒にソフトボールやりたいけど、それと同じくらいほっちゃんだって演劇をやりたいはずなんだ……だから……だから……」
「ふおおっ!? なんだかいい感じなエンディングに繋がりそうな展開だよ! まさかこんなことになるとは予想外だよ!」
大慌ての穂月に、背後から落ち着いた声がかけられる。1番の親友と言ってもいい希だ。
「それで、ほっちゃんはどうするの?」
付き合いのいい少女は、穂月が辞めればきっとそれに従う。演劇部に入るかどうかは不明だが、仮に帰宅部になっても部室には勝手に入り浸るだろう。
それは悠里や沙耶といった、友人歴も長くなりつつある少女たちも同じだった。
「演劇部も楽しいけど……穂月はやっぱりソフトボール部がいいかな」
「ああ、それでいいんだ……1度しかない人生、誰だって好きなことをやるべきだからな。さあ、皆、笑顔でほっちゃんを送り出してやろう!」
「ふおおっ!? どうしてか追い出されモードが絶好調だよ!」
涙を零しながら別れのハグをしてくる陽向に、穂月はもう戸惑いを隠せない。
「勝手に1人で深刻になりすぎた結果、派手にぶっ壊れやがったの。こうなったら、りんりんが似非ヤンキーを蹴り飛ばすしかないの」
「どうしてわたくしがそんな物騒かつ、恨みを買う真似をしなければなりませんの!?」
「電化製品は蹴ったら直るの」
「最近のは精密機械だからとどめを刺すだけですわ!」
「……最初にツッコむところはそこではないと思うんですけど……」
ギャアギャアと喚き合う悠里と凛を、疲れたように横目で見る沙耶。その間に他の部員が錯乱中の陽向を落ち着かせて状況を理解させる。
「うおおっ!」
そして周囲がドン引きするほどに号泣すると、何度も穂月の背中を叩いて喜びを爆発させた。
*
「……なんてことがあったんだよ」
お風呂でまったり練習の疲れを癒し、少し遅めの夕食をとりながら、穂月は今日の出来事を家族に教える。弟も野球部で帰宅時間が小学校時代より遅くなっているので、高木家の晩御飯は午後8時過ぎが多かったりする。
両親や祖父母に申し訳なく思い、先に食べててもいいと何度か言ったことはあるのだが、そのたびに慣れているから大丈夫と笑顔で返された。考えてみれば両親の帰宅もそのくらいなので、次第にあまり気にしなくてもいいかと思うようになり、最近ではほとんど気にしなくなった。
「喜びを爆発させたまーたんにギュウギュウされて、なんだか全身が筋肉痛みたいになってるよ」
微笑ましい話のつもりだったが、1名だけそうとは受け取れない者がいた。
「さっきから自慢ばっかりしやがって! 姉ちゃんは俺の敵だ! ライバルだ!」
「ふおおっ!? 春也がいきなり訳わかんないことを言い出したよ!?」
箸で穂月を指そうとして、祖母にキツく睨まれた弟はコホンと軽く咳払い。行儀よく箸をテーブルに置いてから、改めて人差し指を突きつけてくる。
「姉ちゃんにまーねえちゃんは渡さないからな」
「ふおおっ!? さらに意味がわからないよ!?」
「はっはっは、青春だなあ」
キャイキャイと隣り合って騒ぐ穂月と弟を、祖父が楽しそうに眺めていたのが印象的な今夜の食卓だった。
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