第486話 夏の大会と様々な決着、最終的に家訓に従った智希が逆恨み先輩の財布を空にしました

 野次にも似た応援がグラウンドに飛ぶ。発奮する選手が縦横無尽に走り回り、降り注ぐ太陽と相まって暑さが熱さに変わっていくみたいだった。


「熊先輩、何であの巨体であんなに走れるんだろうな」


 ベンチ横で肩を温めつつ、横目で見ていた春也は正面にいる智希にボールを投げた。


「阿呆か、貴様は。元来、熊は足の速い生物だぞ。特に山下りでは、とても人間は敵わないだろう」


「だから、昔から熊に会ったら死んだふりしろって言われてんのか」


「それも迷信みたいな話だろうがな。そんなことよりキャッチボールをしないのであれば、俺はベンチに戻らせてもらうぞ」


「何だ、もう疲れたのか?」


「たわけめ。隠し撮りした姉さんの写真を見つめながら、色々と語り掛けたいからに決まっているだろうが」


「おまわりさん、こっちです」


 などと傍から見たらアホとしか思えないやりとりをしていたせいか、ベンチから監督が声をかけてきた。


「高木、次の回からショートに入ってくれ」


「え? もうお役御免っスか?」


「追加点が入ったからな。地区大会で全力を出し切りすぎて、本番の県予選で息切れなんてことになったら、目も開けてられんからな」


「了解っス」


 素直に5回まで守ってきたマウンドを他の投手に明け渡す。初戦で投げたエースに代わるのかと思ったが、監督が声をかけたのは一緒に準備をしていたもう1人の投手だった。


「次の回から逆恨み先輩の出番っスか」


「お前……チッ、まあいい、今は構ってる暇もないしな」


 ここがチャンスとばかりに気合を入れて体を温めている。野球に関しては真摯なのだから、後輩にもそうあってくれればと思わずにはいられない。


「春也君、さすがにあの呼び方を本人の前でするのはどうかと思うよ」


 守備位置が変わるのでベンチに戻った春也に、様子を窺っていたらしい晋悟が額に冷や汗を滲ませながら歩み寄ってきた。


「確かにそうなんだが……逆恨み先輩の名前って何だっけ?」


「春也君……」


 気に入らないからそう呼んでいるのではなく、単純に名前を覚えてないだけと知り、晋悟が頭を抱えるように俯いた。


「先輩の名前くらい、きちんと覚えておこうよ」


「そうは言ってもな……智希は知ってたか?」


「つくづく阿呆だな、貴様は。先輩とだけ呼んでおけば、どのような名前であったとしても正解になるだろうが」


「お前、天才だな!」


「それ、絶対後で困るパターンの逃げ方だからね!? お願いだから僕の胃袋のためにも、ちょっとは努力してくれないかな!?」


   *


 金属を打ち鳴らすような甲高い音が次々と響くグラウンド。5回終了時点で7点もあった差は、今しがた打たれた本塁打で残り1つだけになった。


 ここで慌てて監督が飛び出し、春也にショートからピッチャーに戻れという指示が飛んだ。普段なら喜び勇んで従うところだが、さすがにそうもいかない。


「先輩、大丈夫っスか」


「……いつもみたいに逆恨みはつけないのかよ」


「そんだけ言えれば大丈夫そうっスね。後は俺が何とかしとくっス」


「平気な――いや……頼む……」


 激昂しかけて、すぐに唇を噛んだ逆恨み先輩が肩を落としてベンチに戻って行く。1塁手の熊先輩がグラブで軽く尻を叩いて慰めていたが、何の気休めにもならないのは明らかだった。


「そうっスよね、悔しいっスよね」


 去り際に見せた涙に、春也の腹筋にグッと力が入る。中学に上がって厳しくなった練習のおかげで、体は一回り大きくなっていた。


「高木とは色々あっただろうが、練習は誰より真面目にしてたからな。野球は好きなんだよ」


「性格に難ありなのはいかがなものかと思うがな」


 ふんと鼻を鳴らす智希に、滅多なことでは感情を乱さない熊先輩も目を大きく見開いた。


「……揃いも揃って何の真似だ」


「お前が言うなって顔をしてんだよ」


「失敬な連中だな。常に姉さんのことしか見ていない俺のどこに難がある」


「見渡す限りだよ。けど、変なプレッシャーはなくなったかもな。ランナーも全部いなくなったし、先発する気持ちで投げるとするか」


「1点のハンデを貰って先発したがるとは贅沢な奴だ」


 まったくだと熊先輩たちも笑い、それぞれの守備位置に戻っていく。余計な気負いはくだらない雑談でなくなり、あとは本来の実力を発揮すればいい。ふーっと息を吐きだしながら、春也や2度、3度と肩を解すように上下させた。


   *


 春也たちが加入し、チーム力がアップしていただけに、1試合だけ途中で少し緊迫したものの、地区大会は危なげなく突破した。


 本番となる県予選ではチーム数も増え、あまり練習試合を組むこともない学校とも対戦していくことになる。相手に困らない強豪校とは、こういうところで差がついてしまう。


「姉ちゃんたちがいた頃には、県外からも練習試合の申し込みがあったらしいぜ」


 練習で汚れた足に、蛇口を回して落ちてきた水を当てる。すぐ下が排水溝となっているので、水飲み場とは違ってこうした真似も気軽にできるのだ。


「チームが県でトップレベルなのに加えて、穂月お姉さんは全国でも注目されてる逸材だからね」


 春也と違って晋悟は汚れた部分をタオルで拭いている。


「相変わらず、貴様らは考えが足りないな」


 ユニフォームやスパイクについた土に興味を示さないかと思いきや、誰より綺麗にしたがるのが智希である。薄汚れた格好で姉さんの前に出られるかというのが、当人が教えてくれた理由だ。


「練習試合とはもののついでで、姉さんを見に来ているに決まってるだろう。古今東西あらゆる美術品よりも華麗で気高い姿に平伏し、この世に生を受けた幸せを噛み締め――」


「長くなりそうだから先に部室に戻ってるぞ」


 アハハと微苦笑しながらも、しっかり晋悟もついてくる。智希も慣れているので、1人で話し終えたら満足して追いつくはずだ。


 しかしその前に春也の前に立ち塞がる人物がいた。敵愾心はまだあるみたいだが、よく絡まれていた頃に比べればずっとマシになっている。


「何か用スか」


「……体調は大丈夫なのか?」


「全然問題ないっスけど……毒でも食わせたんスか?」


「んなわけあるか! ……お前の出番が増えてるだろ」


「あー」


 思い当たる節はある。エースの3年生が県予選では不調で、そのしわ寄せが全部春也にきているのだ。


「仕方ないっスよ、誰だってそういう時はあるっスから。俺も小学校の時にあったっスしね。そん時は仲間のおかげで乗り切れたから、恩返しってわけじゃないけど俺ができる限り支えるっスよ」


「……そうか」


 悔しいような、それでいて泣きそうな。逆恨み先輩が見せた眼差しはそんな感情を湛えていた。


「お前は……いいな、才能があって」


「そうっスかね?」


「そうだよ。同じ練習をしてるはずなのに、負けないくらい隠れても練習してるのに、野球好きな気持ちは絶対勝ってるはずなのに、2年も下なのに、それでも俺よりずっと上手くて……どんどん差ができていく。そんな背中を見せられるたびに、お前には才能がないと言われてるような気がして……俺は……俺は……」


 微かに漏れる嗚咽。


 シンとなる空気。


 そして絶妙なタイミングでやってくる問題児。


「おい、そんなところでマントヒヒをウォウウォウ鳴かせてたら邪魔だろうが」


「さすがにあんまりだろ。似てるのは前から思ってたけどよ」


「春也君、それフォローになってないからね!? むしろ追い打ちしてるからね!?」


 それを言うなら晋悟も今みたいによく悪意なく追撃しているのだが、幸せなことに本人は気付いてないらしかった。


「お前ら……チッ、けど変に慰められるよりマシか。少しスッキリしたしな」


「いや、逆恨み先輩だけスッキリされてもな」


「そうだな、特に高木には散々なことしてたしな。あんな陰湿なことしてる暇があったら、もっともっと練習してりゃよかったんだ。そうしたら今より少しだけマシになってて、チームの役に立てたかもしれないのによ」


 力なく笑う逆恨み先輩。過去を本気で後悔しているようであり、春也は嫉妬の醜さを知った気がした。


 同時に春也の中にはまだ絡まれた記憶が残っていて、以前に父親がしてくれた虐められた側はいつまでも忘れないという話を思い出してもいた。


「……後で1発殴らせてやるから、それまでは勘弁してくれ」


「それも魅力的っスけど、表沙汰になったら困るし、借りを返すって意味なら他のことがいいっス」


「他のこと?」


   *


 春也の奮闘で県予選を見事に制した。学校の期待も高まり、いざ臨んだ東北大会。結果は1回戦負けで終わったが、3年生は泣き腫らしたあとでやりきったと笑った。


 下級生ながらに感動した春也だったが、夏休みに入ったある日、智希と晋悟を連れ立って町に1件だけあるファミレスにやってきていた。


「おい、まだ食うのか……」


 正面で唖然としているのは逆恨み先輩だ。制服とユニフォーム姿しか見たことがなかったので、私服は新鮮だった。ダメージジーンズに、チャラチャラとしたチェーンなど、どこの輩かと言いたくなるような恰好ではあったが。


「これなら1発殴られた方がまだマシだった……」


 殴る代わりに春也が提案したのが、昼飯を奢ってもらうというものだった。智希と晋悟も絡まれたりしてたので一緒だ。


「変な男気を見せて、他の先輩の分も自分が責任を負うとか言い出したからっスよ。育ち盛りの野球部員の胃袋の恐ろしさを知ってるでしょうに」


「そうなんだが……十分、足りると思ったんだよ。東北大会に行く前に親から小遣いだって渡された分もあったからな」


「先輩の家、金持ちだったんスか?」


「だったら楽だったんだがな。生憎と普通だよ、自分の才能も含めてな」


 ケラケラと笑う姿は、どことなく吹っ切れて見えた。


「お前らには本当に迷惑をかけた。すまなかった」


 両手をついたテーブルに、額を擦りつけんばかりに逆恨み先輩が謝罪する。


「気にしないでいいっスよ。そのための食事会っスから」


「春也君の言う通りです。……少し食べ過ぎてる気もしますが」


「……そう言う柳井も結構な量の皿を積み上げてるんだが」


「アハハ……でも僕より凄い人が……」


 全員の視線が集まったのは、黙々とメニューを消化し続ける智希だった。


「本当なら姉さんの全国大会に付き添っているところを、わざわざこうして出向いてやってるのだ。この程度ではとても足りんな。ステーキをもう2枚、おかわりだ」


「まだ食うのかよ!?」


「ただ飯は容赦するなというのが我が家の家訓だ」


「本当にありそうだから怖えよな……」


   *


 後に春也がムーンリーフで智希の母親に確認してみたところ、大慌てで否定された。しかし誰もがさもありなんと思ったようで、財務を担当する春也の母親の友人からジト目で睨まれていた。

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