第410話 学校のプールに現れたらっこ、怖いからせめて目は開けて

 じめじめとしながらも、じわじわと暑くなってくる7月。額に汗が滲もうとも、穂月は元気一杯に駆け回る。途中で教師に廊下を走らないように注意されたが、ウキウキ気分を抑えられなかった。


「ほっちゃんはそんなにプールがすきなんですか?」


 驚きを通り越して呆れだしていた沙耶が、人差し指と中指で眼鏡の位置を直しつつ問いかける。


「うんっ、よくおうちのおにわでもみんなであそんだんだよ」


 夏になれば庭にビニールプールを設置し、希や朱華とはしゃぎまくった思い出を話す。沙耶と一緒に穂月の後方をついてきていた悠里が、瞳を輝かせつつも羨ましそうにする。


「ゆーちゃん、おさそいされなかったの……」


「おー」


 考えてみれば同じ幼稚園に通い、しかも園内ではよく一緒に遊んでいたのに、園外ではあまり行動を共にしなかった。


 というのも幼稚園が終われば穂月は朱華や希を加えた3人でムーンリーフに帰っていたため、そのまま母親たちの仕事が終わるまで遊ぶ機会が多かったからだ。


 悠里が不満というか寂しがっているのがわかったので、穂月はそれなら今度遊ぼうと提案する。


「うんっ、ゆーちゃん、ほっちゃんともっとなかよくなりたいの」


 幼稚園ではよく兎のぬいぐるみを抱きながら過ごしていた悠里の笑顔はとても愛らしい。反射的に穂月は友人の頭をなでなでする。


「あはは、くすぐったいの」


「おー」


 などとお喋りをしながら歩き、穂月たちは体育館内にある更衣室に到着した。


   *


「勝手に入ったりしてはだめよ。まずは準備運動をしっかりやりましょう」


 穂月たちのスクール水着と似たような色とデザインの水着に身を包んだ柚が、プールサイトではしゃぐ男子に注意を飛ばす。


 長い髪は白いプール帽にきちんと収まっている。それは穂月たちも同様だ。


 家の庭でビニールプールで遊ぶ時は好きな水着を選べたが、学校では男女ともに指定された水着でなければならない。いわゆるスクール水着である。


 ダサいなんて愚痴るマセた同級生の女子もいたが、初めて身に着けるスクール水着は穂月には新鮮で自然と瞳をキラキラさせてしまう。


「ゆずせんせい、もうはいっていいー?」


「足からゆっくりとならね。飛び込んだら宿題を増やすわよ」


「うえっ」


 調子に乗りかけていた男子が、小学生には恐怖の脅しに屈してそろそろと足から水につけていく。


 それを見ていた他の生徒も笑顔でプールに入る。身長の低い穂月たちは背伸びをしないと口が水につきそうになる。


「ゆずせんせい、いっしょにあそぼー」


「こらこら、水泳も体育の授業なのよ」


「いいじゃん、あそぼうよー」


「しかたないわね」


 肩を竦めながらも頷いた柚に、クラスメートたちが大喜びする。


「ゆずせんせい、やさしいからだいすきー」


「おっぱいはちいさいけどなー」


「……次同じことを言ったら、口にした本人は宿題百倍。他の子も連帯責任で倍にするわ」


「「「えぇ……」」」


 この日、目がまったく笑っていない笑顔の柚を前に、生徒たちは揃って彼女にバストサイズの話は禁句なのだと理解した。


   *


「ゆーちゃん、はいらないのー?」


 水面から顔を出した穂月は、プールサイドでしゃがみ込む友人に声をかけた。


「ゆーちゃん、せがひくいから、きっとおぼれちゃうの」


「おー」


 きょろきょろと周囲を見渡した穂月は、柚が用意してくれていたビート板を一つ手に持つ。


「これがあればだいじょうぶだよ」


「う、うん……ほっちゃんがそういうなら……」


 恐る恐る腰まで水に浸かった悠里を両手で受け止める。傍に待機させていたビート板を掴ませ、そっと手を離す。


「はわわ、ういてるのー」


「よかったね、ゆーちゃん」


「うんっ」


 にこにこ笑顔でぷかぷか浮かぶ悠里。それでも万が一があったら困るので、彼女も含めて泳げない児童はいつでもプールサイドに掴まれるようにその傍で遊ぶ。


「ほっちゃんはおよげるんですか」


「あいだほっ」


 ビート板を両手に訪ねる沙耶の前で、穂月は得意のバタ足を披露する。家の庭だけでなく、市民プールや海に遊びに連れて行ってもらったおかげで、多少は泳げる。


「はわわ、ほっちゃん、すごいのー」


「えへへ、のぞちゃんママがおしえてくれたんだよ」


 後頭部に手を当てて穂月が照れていると、そういえばと沙耶が左右を見渡す。


「その、のぞちゃんがみあたらないです」


 着替える時までは確かに一緒にいたはずが、いつの間にか姿が見えなくなっている超ものぐさな友人を心配しているみたいだった。


「きっと、どこからでらっこになってるよ」


「らっこ……ですか?」


「うん。あ、ほら、あそこにいたー」


 プールということで眼鏡をかけていなかっただけに、沙耶にはすぐに発見できなかったのだろう。


 穂月が指差した先を悠里と、かなり目を細めた沙耶が一緒に見る。


「らっこなの……」


「らっこです……」


 2人の声が見事に重なった。


 それもそのはずで、希は背泳ぎというより顔を上にしてただ浮かんでいた。はしゃぐ児童たちが発生させた波に身を任せ、ゆらゆらとたゆたう。


「希ちゃん、プールで眠らないで! 怖いから! 本当に怖いから!」


 焦った柚が抱き起して呼吸を確認する。穂月からすればいつものことなので気にならないのだが、周囲の慌てぶりを見るにかなりの問題行動らしかった。


   *


「ちーちゃんもこっちにおいでよー」


 穂月の手招きに応じて、クラスメートの1人が笑顔で駆け寄ってくる。怖がらないようにプールに入るのを手伝い、ビート板に掴まらせる。


「ほづきちゃん、ありがとう」


「プールにはいれてよかったねー」


 少し前の悠里と同じように水を怖がる女児たちに積極的に声をかけているため、穂月の周りにはかなりの人だかりができつつあった。


 プールに入れてもあまり泳げずに隅にいた子も合流し、大きな輪になってきたところで泳げる女の子たちもやってきたからである。


「穂月ちゃん、何か困ったらすぐ先生に言ってね」


「あいだほっ」


 おかげで柚は女子の面倒を穂月に任せ、泳げない男子にかかりきりになっていた。時折、ちょっかいをだそうとする悪ガキにアイアンクローをかましかけたりもしているが。


「ほっちゃん、およぎをおしえてー」


「わたしもー」


「あいだほっ」


 頼まれるままにバタ足を披露しつつ、希の母親である実希子から教わったことを皆にも伝える。


 覚えがいい女児は早くもバタ足を覚え、泳ぎながら歓声を上げる。皆でわいわいきゃあきゃあと楽しいが、中には上手く輪に入れない女児もいる。


 そういう子らの姿は、相変わらずらっこになっている希の傍に見かけた。ぼっち気質というか、群れるのを好まない女児らにとって、穂月よりもさらに自由気ままに我が道を行く希の近くは心地いいのかもしれない。


「せんせいにいわれてめをあけてるのはいいですけど、あれはあれでこわいです」


 沙耶の呟きに悠里も頷く。瞬きもせずにぼーっと空を見つめながら浮かぶ希は、まるで遭難者のようだ。


「あれ、のぞちゃん、またねてるー」


「えっ、めをあけながらですか!?」


「うんー」


「あぶなくないんですか?」


「だいじょうぶー。のぞちゃん、やればすごいこだからー」


 よく母親たちが話しているのをそのまま伝えると、沙耶はすぐに納得した。


「たしかにのぞちゃんはうんどうもとくいですし。でもおぼれたらたいへんなので、わたしがきをつけてみていることにします」


「はわわ、さっちゃん、えらいのー」


「いいんちょうですから」


 えへんと胸を張る沙耶。周りの女児たちも口々に褒めたたえる中、降り注ぐ日差しを水面で心地よさそうに浴びながら、希は一人ゆらゆらしていた。


   *


「希が心臓に悪いと柚からLINEがきた件について」


 放課後になっていつものごとく穂月がムーンリーフで夜までの時間を潰していると、午後の仕事を終えたらしい実希子がスマホ片手に好美の部屋へやってきた。すぐ後ろには葉月もいる。


「ママー」


「穂月、プールで希ちゃんが何かしたの?」


「らっこになって、ゆずちゃんにおこられてたー」


「ええと……実希子ちゃん?」


「言葉もなくひたすら浮かんでるだけだから、溺れて最悪の事態になったのかと今日だけで何回か慌てたそうだ」


 葉月のみならず、事務作業をしていた好美も事情を理解して苦笑いを浮かべた。


「柚ちゃんは学校があるから、あまり夏の遊びには一緒に行けてなかったものね」


「ビニールプールだろうが市民プールだろうが海だろうが同じだからな、希は」


 その希は自力で簡易布団を作って、すやすやと就寝中だ。たまに朱華がちょっかいを出しているが、大事な用件でもない限りまったく反応を示さない。


「きっと大丈夫だよ」


 楽観的に葉月が続ける。


「海でも溺れたり波に流されたりもしないで浮かんでるし、穂月が溺れかけた時もすぐに助けに入ってくれたし」


「そういう常人離れしたところは、さすが実希子ちゃんの娘よね」


「褒めてるのか、呆れてるのかわからない反応はやめろ、好美」


 大人たちの会話が一段落したところで、穂月は取り掛かっていた宿題から顔を上げる。


「のぞちゃん、たまにねてたけど、ちかくにいた子たちもちゃんときにしてあげてたよー」


「そうなんだー、穂月は希ちゃんのことがよくわかるんだねー」


「あいだほっ」


 元気に右手を挙げたあと「ともだちだもん」と続けると、実希子が涙ぐんだ。


「希の近くに穂月がいて本当に良かったよ。柚も強権を発動して、強引に同じクラスにしてくれたしな」


「最初は非難もあったみたいだけど、入学式でのやり取りを見て、そうした声はなくなったって言ってたね」


「親として喜ぶべきか悲しむべきか」


 難しい顔をしながら実希子が希の頬をつつく。


 嫌がったりするのも面倒臭いとばかりに希は無反応だが、穂月だけは友人がほんの少しだけ照れているのがわかっていた。

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