第386話 菜月と春也

 日々を全力で生きていれば、時間は瞬く間に過ぎていく。


 産まれる際に冷や冷やさせられた葉月の愛する息子も、もう少しでその時から一年が経過する。


 穂月と違って比較的すぐに夜泣きしたりはせず、出産前から気合を入れていた葉月からすれば少しだけ拍子抜けだが、本音を言えばありがたい。


 平和な時間を過ごしてきた愛息の傍には、ゴールデンウィークで帰省中の菜月がいる。


「順調に成長しているみたいね」


 リビングに設置してある簡易ベビーベッドを覗き込んだ菜月が、すっかり叔母の優しげな表情を見せる。


 部屋にはしっかりしたベビーベッドがあるものの、産休中だからといってごろごろばかりしていられない葉月は、自分の代わりにムーンリーフで身を粉にして働いている母親の代わりに台所作業の多くを引き受けていた。


 もっとも和葉のためを思って春道が全自動食器洗い機やら、お掃除機械やら、やたらと性能のいい乾燥機付きの洗濯機などを揃えているため、さほど大変でもないのだが。


 お風呂洗いも割合簡単に済ませ、一週間に一度、専門の業者さんに入ってもらう。和葉は当初贅沢だと反対していたが、春道がその分の時間を家族に使えると、滅多に行使しない一家の主たる威厳と権力で強引に押し切った。


 確かに出費こそ嵩むものの、春道は煙草も酒もやらず、ゲームやDVDはいまだに好きみたいだが、それでも若い頃みたいな出費はなくなっている。


 使わなくなった分をそうした業者の費用などに充ててくれるため、実際に業者が来るようになると、労力の軽減に加え隅々まで綺麗にしてもらえるので、家族の誰もがありがたがった。


 今ではなくてはならない存在になりつつあり、慣れとは恐ろしいものだと葉月は思わずにはいられない。


「ほら見て、はづ姉。春也が楽しそうに笑っているわ」


 穂月の時もそうだったが、姪や甥を菜月は殊の外可愛がってくれる。

 姉としては嬉しい限りだ。


「目元なんかは私にも似てるかもしれないわね」


「フフ、なっちーってば穂月の時もそんなこと言ってなかった?」


「事実だから仕方ないわね」


 可愛い甥に夢中の菜月の隣で、同棲中の彼氏でもある真が穏やかに微笑む。


 絵画教室でアルバイトをしながら家庭の雑務を引き受けている青年は、菜月が帰省する際は必ず運転手を務めてくれる。


 よくよく話を聞けば、職場の銀行にも送り迎えしているらしい。理由は車で移動している間に、僅かでも菜月が安心して眠れるようにということだった。


 真は帰省すれば自分の実家に顔を出すが、その後すぐに高木家にも挨拶に来る。


 たまに泊まっていっては、将来のお嫁さん候補筆頭である菜月の家族――つまりは葉月たちと親交を深めてくれる。


 もっとも小学校時代から知っているので、今更な感もあるのだが。


   *


 夕方を過ぎると、ムーンリーフから和葉が帰宅する。

 和也に関してはまだ機械類の最後の清掃が残っていたりするので、仕事終わりはもっと遅い。


「あら、今日の夕食は菜月が作ってくれてるのね」


 手洗いとうがいを済ませたばかりの和葉が目を細める。


「で、葉月は何をしてるの?」


「手伝おうとしたら、産休中の人は休んでなさいって追い出されちゃった」


 菜月の口真似をして軽く肩を竦める。


「それを言ったら、あの子も帰省中の身じゃないの」


「私もそう言ったんだけど、元気さが違うって押し切られちゃった。きっと実家で真君とのラブラブぶりを見せつけたかったんだよ」


 事実の可能性が高いと葉月は踏んでいるが、聞かれると恐ろしいことになりかねないので、最後の部分は音量を小さくした。


「確かに最近ではすっかり所帯じみてきたわね」


「メガバンクに就職したとはいえ、なっちーもようやく二年目だしね」


 大手銀行だけに最初から誰もが羨む給料を貰えるのかと思いきや、当事者となった妹はそうでもないと教えてくれた。


 地元に比べるとそれなりの部類に入るかもしれないが、都内であれば安い方で、真も働いているがアルバイトなので援助を断っている現状ではあまり裕福でもないらしい。


 だからこそ帰省の際も新幹線や飛行機ではなく、多少時間がかかっても自家用車を使うようになった。


「でも給料の伸び率はさすがとしかいいようがないみたいだけどね」


「その分だけ、結婚したらすぐ家庭に入ろうとする女性には不利なんじゃないかってなっちーは話してたね」


 あとは社員寮があり、独身用と既婚者用に分かれているそうだ。

 入居が認められればかなりの負担軽減になるので大抵の新入社員は希望するみたいだが、菜月は真との生活もあるので拠点を動かさなかった。


「誰もが名前を知ってる就職先だからといって、いきなりバラ色の生活とはならないよね」


「菜月自身はある程度覚悟もしてただろうし、あまり気にしてないでしょうけどね」


   *


 菜月が作ってくれたハンバーグは、カリッと焼くのが好きな春道に合わせ、いわゆるヴェルダンな仕上がりになっていた。


 付け合わせには甘く煮た人参とフライドポテト。スーパーで売っている袋入りの生野菜にブロッコリーが添えられた小鉢。あとはデザートに切り分けられた林檎が並んでいる。


 がっつり費用をかけたわけではないが、品数もそれなりにあってお腹も膨れる。

 栄養バランスも考慮したメニューに和葉は満足そうに頷く。


「菜月も料理に関してはまったく問題ないわね」


「ママに鍛えられたからね」


 小さな胸を張る菜月だけでなく、その隣で一緒に夕食の席に着いている真も、昔からの菜月の手伝いなども経てそれなりに料理ができるみたいだった。


「俺はあんまりできないから、もう少し頑張るべきかもな……」


 菜月と真のやり取りを聞いて、和也がそんなことを言い出したので、葉月は慌ててフォローに入る。


「和也君は仕事を頑張りすぎてるんだから、これ以上は無理しちゃ駄目だよ」


「けどさ」


「大丈夫だよ! パパだって掃除や洗濯はともかく、料理はへっぽこだから!」


「はっはっは、事実だから何も言えないな」


 春道が朗らかに笑い、食卓を流れる空気が一気に穏やかさを増す。


「あれもこれもと欲張らずに、自分ができることで愛する妻を助ければいい。逆もまた然りだ」


「たまにはパパもいいことを言うわね」


「それだと俺の娘二人も、

 たまにしかいいことを言えない人間だということになるぞ」


 春道が反撃を試みるが、舌戦で他者に後れを取るはずもない菜月にあっさり撃墜される。


「残念だけれど否定させてもらうわ。私はママ似なの」


「あ、私も」


「それなら仕方ないわね」


 即座に同意した葉月も含め、娘二人からの評価に和葉はご満悦である。

 一方の春道は冗談だとわかりつつも、わざと寂しそうにする。


「せめて和葉は俺の味方になってくれよ」


   *


 食後はリビングでの団欒が高木家の取り決め――というほどではないが、恒例にになっていた。


 春也も簡易ベビーベッドで寝かせているため、問題が発生すればすぐに様子を見ることができる。


 午後八時になって穂月も少し眠そうにしているが、滅多に会えない叔母との触れ合いを楽しもうと、希の定位置になりかけている膝の上をしっかりと占拠中だ。


「騒々しい食事でごめんね。疲れなかった?」


 食後の紅茶やコーヒーを人数分用意しながら葉月が尋ねると、真はすぐに「いいえ」と首を左右に振った。


「何度も家で食事をしているのだから、とっくに慣れているでしょう」


 以前に確認したことでもあるのか、

 心配無用とばかりに菜月が小さく鼻を鳴らした。


「父が揃うと、母がはしゃいで家でも似た感じになりますし」


「どこの家庭も夫婦円満で素晴らしいね」


 葉月が視線を向けると、若干照れながらも和葉はしっかり頷いた。


「で、なっちーはその辺どうなの?」


「答えるまでもないわね」


「じゃあ真君に同じ質問をするよ」


 菜月に横目で睨まれ、困ったような笑顔を浮かべる真。

 言葉を得られなくとも、そのやりとりだけで二人の関係性がわかる。


「真君もすっかり尻に敷かれてるみたいだな」


「春道さん、も、ってどう意味かしら。も、って」


「……すみません、言葉を間違えました」


「まあ、こういうことです」


「葉月っ」


 最後に葉月も含めたやりとりに、和也のみならず真も笑う。


「でも春道パパを見てると、他から情けなく見えても、家庭では女性側がリードした方が円滑に生活できるような気がしますよね」


「それは確かに」


 和也の感想に、真も頷く。


「だからといって任せきりだと、いずれ愛想を尽かされるわよ」


「「「肝に銘じます」」」


 菜月の鋭い指摘に、男三人組が揃って真面目な顔で頷いた。


 もっとも葉月を含め、

 パートナーとそんな状態にならない間柄なのは幸運な限りだ。


「そう言えば、もう少しで春也も穂月も誕生日よね」


 春也が先だが、二人とも夏生まれで結構近い。


「二人分まとめて祝うの?」


 菜月の確認を、迷わず葉月は否定する。


「穂月も春也もしっかり祝ってあげるよ」


 それはもちろん、実希子や尚の子供に関しても同様だ。


「そうなると夏は子供たちのパーティー三昧ね」


「きっと楽しいよ。

 それに材料費だけで、ケーキ代は一般の人より高くならないしね」


「はづ姉が店をしていた利点が、思わぬところで発揮されたわね」


 学生時代に自らの誕生日も、葉月の手作りケーキで祝われていた菜月は、そう言うと懐かしむように口元を緩めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る