第383話 ムーンリーフ二号店
涼しかった風が寒さを伴うようになり、必然的に着る服も増えた秋の終わり。
順調に成長中の息子を抱いた葉月は、産休中ではあるものの、様子を見に大切な店へと顔を出していた。
すでに午前のピークは過ぎており、店の財務を担当する親友の好美にも余裕があった。今回も店長代理として頑張ってくれている茉優は、午後の分の仕込みに入っている。
葉月の代わりにパートでありながらフルタイムで働いてくれている母親の和葉も、全力で店長代理を補佐中だ。
「機は熟した……と思うの」
好美が眼鏡をクイと上げる。年齢のせいか視力が落ちたらしく、以前よりも眼鏡の厚みが少しだけ増している。
「というと?」
すやすやとねんね中の春也を起こさないようにしながら、葉月は小声で親友の真意を問う。
「ムーンリーフ二号店よ」
好美の眼鏡が窓から差し込んでいる陽光に反射して、キラリと光った。
二号店の話は以前からちょくちょくあった。
業績が好調だというのもあって、特に取引先の銀行から話を持ち掛けられることが多かった。
設備投資も含めて融資するという話も幾度もされているので、資金的には問題がないのは好美に聞かされて、葉月も理解していた。
「葉月ちゃんたちが産休中だし、今すぐは無理だけど、計画としては動かしてもいいんじゃないかと思ったのよ」
「うーん」
即断即決が良い店長の条件……かは不明だが、すぐにやってみようとはならない。興味こそあるものの、学生時代とは違って、今の葉月には背負っているものも多い。
夫や子供たちの生活。
社員であり、友人でもある仲間たちの生活。
迂闊な判断をして失敗すれば、それらが破綻する可能性だってあるのだ。
「少し考えさせてもらっていいかな」
*
「いい話だと思うけれど」
好美から二号店の話があったその日の夜に、葉月は東京で大手銀行に就職した妹の菜月に電話をかけた。
二号店の相談をするなり、専門家でもある妹は一言でそう評した。
「でも、融資って実質借金だよね。きちんと返せるかって問題もあるし」
葉月が素直に心情を吐露する。
「銀行から借りるという意味は同じでも、融資と借金は明確に違うわよ」
「そうなの?」
「融資は銀行を含めた金融機関が個人や法人に、特定の目的を達成させるために資金を貸し出すこと。
一方の借金は目標のない使い道といえばいいかしら。ギャンブルとか趣味などのあまり資産とはならない消費のために借りるといえばわかりやすいかしらね」
個人の融資で最たるものは住宅や車のローンだと、一例を付け加えてくれる。
「そう言えば、はづ姉ってまだ個人事業主のままなの?」
「開店当初はそうだったんだけど、順調に売り上げが伸びて、年商が結構増えてきた時に好美ちゃんが手続きしてくれたみたい」
「それじゃあ現在は法人になっているのね。まあ、融資の話もあるし、取引先も増やしていたから、そうではないかと思っていたけれど」
一人納得している様子の菜月に、財政面は好美に任せきりだった葉月は恐る恐る質問する。
「個人と法人ってそんなに違うの?」
「簡単に言うと、法人は個人に比べて税金が高いけれど、経費が認められる範囲も広いの。個人事業主であっても所得税が法人税を上回るようになってきたら、法人化を検討してもいい頃ね。例えば年商が一千万円を超えて、消費税の課税対象になった時とかがタイミングかしら」
「じゃあ、好美ちゃんもそうしたんだね」
「恐らくはね。
というよりはづ姉も大卒で成績は悪くなかったのだから、任せきりなのはどうかと思うわよ。好美ちゃんが優秀なのは確かだけれど」
「アハハ……笑いごとじゃないよね、ごめんなさい」
「まあ、はづ姉は職人気質でもあるみたいだから、好美ちゃんとしてもパン作りに精を出してほしいのかもしれないけれどね」
「うんっ、もうちょっとしたら、またバリバリ作るよ。穂月や春也にも美味しいプリンを食べさせてあげるんだ」
幸いにして穂月はアレルギーも好き嫌いもない。春也はまだそこまでわからないが、とりあえず今のところは異常は見当たらなかった。
「そこは妹としてだけでなく、叔母としても素直に応援させてもらうわ」
優しく言ったあと、菜月は改めて声に真剣さを含ませた。
「話を戻すけれど法人の融資は基本、事業のためのものね。運転資金が欲しい場合に、銀行などから助けてもらうのよ。
とはいえ誰でも彼でも融資してもらえるわけではないわ。明確な使用目的や返済の目途が不明なら、少なくとも私の勤める銀行は融資の許可を出さないもの」
「厳しいんだね」
「審査も含めてね。
文句を言う顧客もいるらしいけれど、銀行側もリスクを負うわけだから、個人法人を問わず、融資相手を信頼できるかどうかが融資するかどうかの最大の鍵となるわ」
「でも、ウチはよく融資の話を持ち掛けられるみたいだよ」
「それだけ業績が安定している証拠よ。特に地方銀行であれば、確実に返済を求められる企業に融資したいでしょうしね」
銀行から融資の話が来ると盲目的に頷いてしまう経営者もいるみたいだが、断ったからといって必要な時に融資してもらえなくなるかもしれないと怯える必要はないと菜月は言う。
「銀行も利益を出したいわけだから、返済能力のある顧客と仲良くしたいのよ。だから断ったところで不利益はないに等しいわ。むしろ業績好調で財務の知識もあると判断して、さらに営業に来る頻度が増えるかもしれないわね」
「うわあ、私ならホイホイ頷いてそうだよ」
「はづ姉は素直だからね。でもそこは長所でもあるのだから、無理に変えては駄目よ。そのために好美ちゃんも協力してくれているのでしょうし」
葉月は「うん」と即座に頷いた。
銀行とのやり取りも好美が全面的に担当してくれているからこそ、葉月はパン作りや子育てに専念できるのだと、改めて感謝の念を抱く。
「その好美ちゃんが二号店を持っても大丈夫と言っているのなら、私は信用してもいいと思うわよ。
もちろんどこに出店するのかは吟味する必要があるでしょうけれど」
「わかった。よく話し合ってみるよ、疲れてるとこありがとね、なっちー」
「これくらいなら問題ないわ。仕事にも少しずつだけれど慣れてきているしね」
それから少しだけ雑談したあと、もう一度お礼を言って、葉月は電話を切った。
*
穂月の時と比べて春也の夜泣きは控えめで、体力的に前回より余裕を保持できている葉月は、翌日の午後にムーンリーフを訪れた。
すでに夕方分の仕込みも終わっているため、やや緩やかな空気が店内に広がっている。いつも緊張していたら疲れるだけなので、葉月が店にいる時からこんな感じではあるのだが。
居心地が悪くならない空気感になっているだけでも、茉優が店長代理という重責を過不足なくこなしてくれているのがわかる。
「昨日の話なんだけど、店を出す場所の目星はついてるの?」
正面に座った葉月が春也をあやしながら訪ねると、好美は机の引き出しから県内の地図を取り出した。
「県外だと配送も大変になるだろうから、県内はどうかしら。現在も配送で各地を回っているから、商品を置くだけの形態にしても営業は可能だと思うわ」
「こっちで手作りしたのを売るってこと?」
「各スーパーや高校に卸しているのと大差ないから、人員の配置は少数で済むわ」
パン屋というより商店みたいな形になるのだろうと葉月は想像する。
調理場はいらないだろうし、初期費用も安く済む。
「利点はわかったけど、私は反対かな」
ごめんねと謝ったあとで、やっぱり二号店であっても、そこで作ったパンを提供したいとの希望も伝える。
「葉月ちゃんなら、そう言うと思った」
怒るのではなく、予想通りと好美が笑う。
「そうなると葉月ちゃんの復帰に合わせて、二号店には茉優ちゃんを店長として配置するか、もしくは一号店を茉優ちゃんに任せて二号店に葉月ちゃんが入るか。
後者を選んだとしても、軌道に乗ったら茉優ちゃんと配置換えをすることもできるし」
「どれにするかはこれから選ぶとしても、
茉優ちゃんなら安心してお店を任せられるよ」
「人口や周囲の環境も考えると、県中央が望ましいわね」
「でも、激戦区になるんじゃ……」
「葉月ちゃんの味がどこまで通用するか、試してみるのもいいんじゃない? 幸いにしてスーパーなどではまだ売上も落ちてないし」
だからこそ好美も二号店という野望を口にしたのだろう。
「まあ、まだ先の話よ。
二号店を作るにしても、茉優ちゃん一人じゃどうにもならないし」
「そうだよねえ」
なんて話を続けていると、調理場から茉優がやってきた。そこで二号店の話をしてみると、いつも通りのふわふわした感じであっさり頷いた。
「人が足りなかったら、
はづ姉ちゃんと同じように恭ちゃんに手伝ってもらうよぉ」
「いや、それはさすがにどうかと思うよ」
茉優の彼氏の沢恭介は、現在も県内の企業で働いている。
二号店を手伝うとなれば会社を辞めざるを得ず、そうなると店が失敗した時のダメージは計り知れない。
「好美ちゃんも言ってたけど、私や実希子ちゃんたちが復帰してからになるから、すぐにどうこうじゃないよ」
「わかったよぉ、えへへぇ、なっちーは喜んでくれるかなぁ」
*
その日の夜、昨日とは逆で、菜月から葉月に電話がかかってきた。
「茉優と沢君が婚約したらしいの。はづ姉、何かした?」
「えっ!?」
驚きを隠せない葉月はしばし茫然としたあと、今日の会話内容を妹に伝えた。
「なるほど。県中央に住む可能性もあるから、茉優も観念したのかしら。それとも沢君の執念が実を結んだ……?
どっちにしても茉優の性格は読み切れないところがあるから、推測は難しいわね」
「打算的な結婚ってわけじゃないんだよね?」
「他人にはわかり辛いかもしれないけれど、間違いなく茉優は沢君を好いているわ。そうでなければ時間を作ってデートしたりもしないでしょうし」
「それじゃ、やっぱり二号店の話をしたからかな」
「きっかけにはなったかもしれないけれど、そればかりではないと思うわ。前々から茉優は、パン作りが楽しいって私に話してくれてたしね」
菜月の言葉で、ほんの少しだけ葉月も安心する。
「もしかしたら愛花の結婚を聞いて、結婚に憧れを持ったのかもしれないし」
「身近な友達が結婚すると、どうしても意識しちゃうもんね」
葉月の結婚式に参加した友人たちも、当時は色々と結婚について考えたり、話したりしていたのを思い出す。
「茉優には茉優の考えがあるでしょうし、愛花の結婚やムーンリーフの二号店を任される話を聞いて思うところがあったのでしょうね」
「フフ、茉優ちゃんも小さい頃から見てるから、なんか感慨深くなるね」
「良くも悪くも成長しない人間はいないってことかしら」
「本音を言うと、私はもうあまり成長したくないんだけどね」
「人間の宿命よ。諦めなさい」
がーんとスマホを持ったまま頭を抱えると、遠く離れた東京で楽しそうに笑う妹の顔が見えたような気がした。
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