第381話 春道と和葉の留守番

「なんだかシンとしてるわね」


 春道の愛する妻が、そう言うのも無理からぬことだった。

 すっかり新築の香りも薄れ、我が家としての違和感もなくなった住居には春道と和葉の二人だけしかいなかった。


「普段は活気があるからな」


 前の家を壊す際に別々に生活しようと提案したが、愛娘が絶対に嫌だと拒否したため、春道たちは娘や孫と騒がしくも楽しい日々を送れていた。


 不思議なもので喧騒に慣れてくると、それがないと寂しささえ覚えてしまう。

 そして現在の和葉の寂しげな様子に繋がる。


「まあ、向こうも新しい孫をゆっくり見たいだろうしな」


 葉月は穂月と春也を連れて、夫である和也の実家に泊まりで出掛けていた。

 まだ春也は小さいが、先日の墓参りと違って同じ市内なので、初めてのお出掛けには丁度良いかもしれないと葉月も承諾した。


 先方は春道たちも一緒にと言ってくれたみたいだが、それこそ会おうと思えばすぐに会えるので今回は断った。向こうの優しさというか、社交辞令的な面も感じていたからでもあるが。


「私たちが可愛い寝顔を独占するわけにはいかないものね」


 寂しさは消えずとも、和葉も理解を示す。

 婿入りした和也に気遣い、仲町家側はあまりこちらに口を出してこない。


 葉月が催しを考えて招待すれば来るが、それ以外では静観することがほとんどだった。幸いにというべきか、和也との夫婦仲も良好で、ムーンリーフの営業も順調そのもの。やきもきする必要はないのだろう。


 もっとも愛息が他家に入った寂しさはあるだろうが。


「そういうことだな。和也君のご両親にとっても、穂月や春也は可愛い孫なんだ」


「わかってはいるけど、ふう、世話をする相手がいないと、なんだか寂しいわね」


 基本的には産休中の葉月が春也の面倒を見て、和葉はムーンリーフの手伝いに力を入れている。


 それでもまだ幼稚園に通っていない穂月のことも含め、あれこれと世話を焼いている状態でもあった。


「そんなに寂しいなら、俺の面倒を見てくれてもいいんだぞ」


 ニヤニヤしながら提案をしてみると、予想とは違う答えが返ってきた。


「それはいいわね!

 まずはより理想的な旦那様になってもらうために、普段の倍のジョギングから始めましょう!」


「あ、そういえばまだ仕事が残ってた」


「春道さん!」


   *


 真夏のピークが過ぎ去っても、昼下がりはまだまだ暑い。

 残暑とはよく言ったものだと、春道はハンカチで汗を拭う。


 ジリジリと照り付ける太陽から逃れるように、いつもの大型スーパーに飛び込む。午前中の雑談でジョギング云々の話が出ていたが、さすがの和葉も熱中症の危険が伴う夏の日中に走らせようとはしない。


 そもそも日が昇る前から和葉はムーンリーフに出勤する。

 今日みたいな定休日であれば早朝に散歩がてら軽く汗をかく。


 その際には家に残される春道が、きちんと早朝のジョギングというか散歩をしているかもチェックされる。


 年齢を重ねてきたことと、仕事に集中すれば椅子に座ったままで動かなくなること。甘いものやお菓子がいまだに好きだったりすることも加え、愛妻の心配は常日頃から高いレベルで行われる。


 春道としても長生きしてほしいからという理由を上目遣いで言われれば、とても反抗する気にはなれない。


 一人で生活していたら出不精になるのは確実で、瞬く間に健康を損なっていくのが明らかだからだ。


「ふーっ、一息つけるな」


 フード付きで吸汗作用の優れる薄手のシャツをパタパタとしながら、春道は浅めの呼吸をする。人工的な冷風は言葉だけ聞くと体に悪そうだが、清涼さをもたらしてくれる。


「家からここまで歩くだけでも、汗ばんでしまうものね」


 春道よりはずっと涼しげな様子だが、和葉も冷房の風を受けて安堵しているのがわかる。


「今年は特に湿気が凄いからな」


 本来お盆を過ぎると春道たちの住んでいる地方は、朝晩を中心に涼しさを増す。

 同時に湿度が低下した秋の空気に切り替わるのだが、今年は数日そういう日があっても、すぐに夏のような蒸し暑さに戻ってしまう。


「七月前半くらいから堪える日が続いてるものね。ご近所さんでも体調を崩した人がいるみたい」


 子供時代はどうとも思わなかったが、歳を経る事に夏がキツくなってくる。


 さらに年を取ると暑さをあまり感じなくなり、気付いた時には熱中症という状態になりかねないという。


 独り身であれば今から恐怖しそうだが、春道には頼りになる家族がいる。そこまで不安視はしていなかった。


「俺たちも気を付けないとな」


   *


 会話をしながら買物をしていると、見知った顔を見つけた。


「実希子ちゃんのお母さん、お買い物ですか?」


 瞬時に余所行きの声に切り替えた和葉が、普段の三割増しの笑顔で声をかけた。

 対する向こうもほぼ同時に余所行き顔を作り上げるのだから、春道は素直に感心する。


 性別に問わず、そうした対応を難なくこなす人間もいるが、春道はさほど得意でないからだ。実希子の父親もそうらしく、目が合うなり互いに苦笑いする。


 父親同士が奇妙な親近感を覚えている間に、母親同士の会話が盛り上がりを見せる。話題はもちろんそれぞれの娘と、孫についてだった。


「不思議なもので、希が傍にいると智希は落ち着くみたいで。もうお姉ちゃんだってわかってるのかしら」


「そうかもしれませんね」


 実希子が産んだ子ではあるが、智希はわりと大人しそうなイメージを持つ。

 希も率先してはしゃぐタイプではないだけに、春道ならずとも実希子を知っている人間なら不思議に思うかもしれない。


 とはいえあくまでも生まれたての話。

 成長するに連れてどうなっていくかは誰にもわからない。


「春也君はどんな感じなの?」


「元気一杯ですね。赤ちゃんだった頃の穂月以上なので、葉月はさらに激しい夜泣きに襲われるのではないかと、今から戦々恐々としていますよ」


「大変だったらしいものね。

 うちは実希子が不安そうにしてたけど、希は手のかからない子だから助かった面もあるわ」


 言っている途中で何かを思い出したのか、吹き出すように実希子の母親が笑う。


「ごめんなさい。とにかく眠ってばかりいる希を相手に、実希子が毎日どこが手のかからない子だと嘆いてるのを思い出してしまって」


 どうやら家でも例のやりとりを繰り広げているらしく、和葉は「大変ですね」と相槌を打ったりする。


 その上で、しっかりしたフォローも忘れない。


「でも平仮名の習得はもう完璧ではないですか。読める漢字も着実に増えているみたいですし」


「それがねぇ」


 頬に手を当てた実希子の母親が、陽気そうな表情を一転させる。


「確かに読みはその通りなんだけど、書けないのよ」


「え?」


 思わず聞き返した和葉に、実希子の母親が具体的に説明する。


「本を読むのが好きだから文字は覚えるんだけど、書かせようとするとまったく反応しないの」


「……ええと……」


 さすがの和葉も返答に困りだす。

 春道が推測するに、きっと書けないのではなく書かないのだろう。


 考えてみればもっと幼い頃から、希にはそういう一面があった。

 祖母である実希子の母親も一緒に暮らしているだけに、その点は理解していた。


「動かないけど、運動神経も良さそうだったりする子だから、実希子曰く得意のものぐさぶりを発揮しているだけだろうって話だけど」


「希ちゃんはすでに自我がしっかりしている子供ですからね」


「あっはっは。強引に褒めなくてもいいわよ」


 基本的に子供らしい穂月や朱華と異なり、どうにも希は自分の興味あること以外は動こうとしない。


 根本的には高木家次女と似ているが、幼少時から大人顔負けに体裁を整えていたその菜月ともやはり少し違う。


 娘が産んだ子供なのだから、親のように心配するのも当然だった。


「まだ三歳ですし、これから興味を持つことも増えますよ」


「そうねえ。穂月ちゃんが一緒だとまた少し違うみたいだから、今後も仲良くしてくれると嬉しいわね」


「私たちが心配するまでもなく、葉月と実希子ちゃんは孫ともども仲良くしていくと思いますよ」


   *


 普段が騒がしい分だけ、今夜みたいに二人きりになると、ふとした時にその事実を認識して落ち着きがなくなる。


 春道がというより、幾つになっても愛らしい妻のことなのだが。


 ついついからかいたくなる衝動を抑え、

 静かな夜をリビングのソファで堪能する。


「葉月たちは今頃何をしてるかしら」


「楽しく過ごしてるさ。俺たちみたいにな」


 さりげなく肩に手を置くと、抱き寄せるまでもなく体重が預けられる。

 中年から老年に近づきつつあるからといって、イチャイチャしてはいけないということもない。


 ましてやここは自宅で、他の家族もいない。

 だからこそ和葉も素直に春道の求めに応じてくれた。


 夜になって少し気温が落ちた部屋で、互いの温もりに浸る。

 この上なく幸せだからこそ、老いを感じるようになってきたからこそ、春道は考える。


 幸せを噛み締める時間が、あとどのくらい残っているのかを。


「春道さん、険しい顔をしてる。何を考えてたの?」


「くだらないことさ」


「……きっとそうね」


「和葉?」


「だから考えないようにして。せっかく私と一緒にいるんだから」


「そうだな……ああ、その通りだ」


 すぐ傍にいる愛する女性を、春道はキツく抱き締める。

 腕から手のひらに通して伝わる妻のすべてが、現実はどこにも行かないと強く証明してくれているみたいだった。

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