第367話 愛娘たちとムーンリーフ

 春の訪れに歓喜する木々のざわめき――


 ――ではなく。


 この日のムーンリーフで早朝から買物客を喜ばせているのは、三人の看板娘たちだった。


「いらしゃいせー」


 元気に母親の真似をする朱華の舌足らずな挨拶に、年配のご婦人が嬉しそうな皺を刻む。


 頭を撫でられる朱華も笑顔で、実に楽しそうだ。

 きちんと歩けるようになり、もう少ししたら走れるのではないかという穂月も、懐いている朱華の後ろをちょこちょこと付いて回る。


 その様子がとても可愛らしく、やはり朱華同様にお客さんを喜ばせている。


「穂月ちゃん、大きくなったわねえ」


「はい。この夏でもう二歳になります」


「あらあら。それじゃ私も歳をとるわけだわ」


「アハハ。菅野さんはまだ若いですよ」


 ご近所さんも多いので、常連客の名前は大体葉月の頭に入っている。

 お客様と呼ぶより、名前を呼んだ方が常連客は喜んでくれる。

 好美曰く、お客さん側でも特別感が増すのではないかということだ。


「皆、悪さもしてないみたいで良かったー」


 常連客を見送ったあと、店内できょろきょろする愛娘たちにほっこりすると同時に、葉月は心から安堵した。


 追加のパンを並べるためと、店内の様子を見るために顔を出してみたのだが、どうやら心配は杞憂に終わったようである。


「実希子ちゃんの突飛なアイデアには苦労するわね」


 レジで会計はパンの袋詰めを行いながら、子供たちの動きもチェックしなければならない尚はややお疲れ気味だった。


 発端は彼女の言った通り、すでに配送に出発している実希子の言葉だった。


『子供たちも大きくなってきたし、ちょっとだけでも店に出してみたらどうだ? 意外と客を呼び込むかもしれないぞ』


 子供嫌いのお客さんもいるので一概にその通りとは言えないのだが、他ならぬ好美が少しだけ試してみようと賛同した。


「もしかしたら好美ちゃんも、朝に子供の面倒を見るのが疲れてたのかしら」


「まあ……好美ちゃんの部屋、事務所兼休憩所兼託児所みたいになってるもんね」


「考えてみれば、一番の功労者よね」


 なんて感謝している間にも、続々とお客さんはやってくる。


「いららー」


 朱華みたいに振舞いたかったのか、笑顔の穂月が両手を挙げて大はしゃぎする。

 三十歳をとっくに過ぎた葉月には眩しすぎる制服姿の女子が、途端に大きな目を輝かせた。


「可愛いー!」

「わー、葉月さんの娘さんですか?」


 声に惹かれて、店の前の通りを歩いていた人たちがぞろぞろと集まってくる。

 売上に繋がるかは微妙なところだが、話題になっているのは間違いない。


「まだ子供だから、SNSとかに上げるのだけは勘弁してね」


「はーい!」


 葉月の注意に、元気の良い返事が返ってきた。

 中心地にいるのは南高校のソフトボール部員で、実希子がたまにだが、またコーチに復帰した関係上、顔見知りも増えている。


 なにせ差し入れはほぼムーンリーフのパンなのだ。

 部員たちが感謝して直接お礼を言いに来てくれたり、親御さんと一緒に買いに来てくれたりするので、仲良くなるのも早い。


 人が集まりだすと、気になるのは世の常である。

 野次馬も増えたところで、勢いよく制服に着替えたばかりと思われる好美が店に出てきた。


「葉月ちゃん! 試食の準備よ!」


   *


 カレードーナツやあんドーナツ。

 ムーンリーフでも売れ筋のパンを小さく切り、急遽店前に用意した机に乗せる。

 爪楊枝が刺さったパンは瞬く間にお皿から消えていき、美味しいという声が多数上がる。


「お昼用に少し買って行こうかしら」


「私もおやつ用に」


「太っても知らないよ」


「じゃあ、アンタはいらないの?」


「もちろん買うに決まってるじゃん」


 男性は遠巻きに見たりするだけなので、子供の可愛らしさに引き寄せられてくれるのは女性が多い。


 予想外の売上にはなってくれているが、このままでは不味い。

 そう思った葉月は女性陣の相手を看板娘たち――というより尚――に任せ、両手にパンを抱えて店の外でため息をつきそうな男子高校生に声をかける。


「おはよう。いつものパンでいいのかな?」


「あっ! あざーっす」


「おはようございます」


 調子の良さそうな茶髪の子やら、真面目そうな顔つきの子やら、色々な生徒が朝食代わりに買ってくれるのも朝の恒例だ。


 けれどこれだけ女子が店前にわらわら集まっていたら、ナンパ目的で近づいては尚に睨まれている男性以外は、なかなか店舗で欲しい商品を物色できない。


「今日はなんか凄いっすね」


「うん。娘たちがいてね、お客さんが可愛がってくれてるんだ」


「あー……葉月さん、結婚してるんですもんね……」


「失恋したなら慰めてやろうか」


「ち、違うって!」


「アハハ。こんなおばさんにそれはないよー」


 本気で言ったつもりだったのだが、そんなことはないと全力で否定されて戸惑わずにはいられない。


 年齢を重ねて急に美容を気にし出した和葉の気持ちも、三十歳を過ぎてなんとなくわかるようになった葉月だが、無理に若作りをするつもりはなかった。


 だからなのか、繰り返し褒められるとほんの少しだが嬉しくなる。


「ありがとう。でも、そういう誉め言葉は、いずれ本当に好きになる女の子に贈ってあげてね」


 だが感情と好意は別物だ。

 葉月が笑顔でそう言うと、心なしかガックリした様子で男子高校生は頷いた。


   *


「ほー、そんなことがあったのか」


 県内各地を回る和也に比べ、市内回りの実希子は戻るのも比較的早い。

 昼過ぎ用の仕込みは葉月と茉優、それに遅れて出勤する和葉が担当するので、実希子はその間に使い終わった器具の清掃やメンテナンスをしてくれる。


 そうして一段落着くと、今のように好美の部屋に集まって休憩を取る。

 子供たちと外で遊んだりする場合は抜けだしたりもする。

 毎日、好美の部屋でばかりだと、人の好い彼女もきっと息が詰まる。


「う好美ちゃんが素早く指示を出してくれたおかげで商機を逸しなくて良かったよ」


「さすが……と言いたいところなんだが、その好美はどうして難しそうな顔をしてるんだ? 穂月たちを客寄せに使ったことに罪悪感でも抱いてんのか? 好美にも人の心があったんだな」


「人を鬼か悪魔みたいに言わないで。それに子供たちを店頭に出すと発案したのは実希子ちゃんだったでしょう」


 ハアとため息をついて、頭痛を堪えるようにこめかみをグリグリする好美。


「そうだったな。じゃあ何で喜んでないんだ?」


「喜んでるわよ。ただ……お昼の売上に影響しないか悩んでたの」


「ああ、そういうことね」


 子供たちの昼食を、代表して見守ってくれていた尚が訳知り顔で頷いた。

 いまだ理解できていない実希子は噛みつく――というほどではないが、それでも不満げに唇を尖らせる。


「一人だけで納得してんなよ。つーか、本当にわかってんだろうな」


「実希子ちゃんじゃあるまいし、当然でしょ。

 いい? 確かに予想外の売上にはなったけど、購買者の大半は女子高生だったの」


「それのどこが問題なんだ? あっ、男子の売上が減ったってことか?」


「そこは葉月ちゃんが的確に対処してくれたから、問題ないわ。

 好美ちゃんが気にしてるのは、本来昼に買う予定だった子たちが、単に朝に買っただけじゃないかってことよ」


「ほーん」


 腕を組んで真面目そうな顔つきはしているが、その返事から実希子が理解していないのは明らかだ。


「つまり高校生に対する売上はトータルであまり変わらず、逆に私が声をかけ損なった、店に入れなかった本来のお客さんの分だけ損失を出したんじゃないかってことだね」


「うおっ、葉月までわかってんのか!」


「何、言ってるのよ。学生の頃から好美ちゃんは別格にしても、葉月ちゃんと柚ちゃんは成績上位者だったでしょ。

 下位者で苦労した挙句、スポーツの力に頼ったのは私と実希子ちゃん」


「そんなに褒めるなよ」


「さすが成績下位者ね」


 半眼で睨まれても、トレードマークのポニーテールをゆらゆら揺らす実希子はまったく動じない。


「それなら学校にも看板娘を連れてくか? パンを持たせて職員室に売り込みをかけるんだ」


「……確かに効果は絶大そうだけど、あまり繰り返すと悪感情を抱く先生も出てきかねないわね」


 実希子の意見具申をやんわりと撥ね退け、しかし好美も効果的な対策は打ち出せず。


「とりあえず普段通りに売って、様子を見るしかないんじゃない」


 店主らしくそうまとめた葉月は、それよりもと三人の愛らしい天使を見つめる。


「頑張って働いてくれた子供たちにお給料を払わないとね。茉優ちゃん」


「待ってましたぁ。デザートだよぉ」


 普段より少なめの昼食の最後に、茉優が持ってきたのは甘いミルクに浸した食パンだった。

 これならまだ一歳の二人も食べられるし、朱華も好物だ。


 案の定、わあいと喜んでスプーンやら手掴みで食べ始める朱華と穂月。

 しかし希は黙って実希子を見つめるばかり。


「もしかして、あまり手伝えなかったのを気にしてるのかしら」


 目立っていた二人と比べて、基本的に希は眠そうに椅子に座っていただけだった。

 愛想の欠片も見せなかったが、逆にそれがいいと言っていた女子高生も少なくなかったのだから人間は不思議である。


 だが尚の呟きに、実希子は目を閉じて首を左右にゆっくり振った。


「こいつがそんな玉かよ。これは自分で食べるのを面倒臭がってやがるだけだ。まだ一歳児だってのに先が思いやられる」


 そう言いながらも実希子が食べさせてやろうとする気配を見せると、真顔のまま希はすかさず口を開いた。

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