第365話 妹と愛娘たち

 お正月。

 それは新年の始まりであると同時に、高木家に関わらずおめでたい行事である。


 前年に不幸があった場合はその限りではないが、家族や友人たちとゆっくり過ごせるのも葉月にとっては嬉しい限りだった。


「今年はあまり雪が降ってないねえ」


「やめてよ、はづ姉。そういうこと言ってると、二月あたりになってドカっと降り出したりするんだから」


 リビングのソファで半眼になった菜月が、冬蜜柑を一つ頬張る。

 年末年始に合わせて帰省中の妹に、葉月は拗ねた振りして抱き着こうとするが、


「うきゃん! 酷いよ、なっちー」


「そんな勢いで抱き着かれて、怪我でもしたらどうするのよ」


「でも、冬は人肌で温めあった方が快適に過ごせるよ」


「そう言うのは和也さんとどうぞ」


「そんな! なっちーを仲間外れになんてできないよ!」


「……なんか変なドラマでも見たの?」


 呆れ果てた口調の菜月が、キッチンから戻ってきた母親に尋ねる。


「葉月はいつもそんな感じだったでしょ」


「そうだったかしら……。

 子供を産んで母親らしくなるどころか、幼児退行している気がするのだけれど」


「重ね重ね酷いよなっちー。ほら、穂月もママを虐めないでって言ってるよ」


 床で遊んでいた穂月を顔のあたりまで持ち上げ、うりうりと菜月に近づける。


「ああ……かわい――ではなくて。幼児をそんな風に使うなんて言語道断だわ。

 嫌がって……ないけれど、はづ姉には任せておけないわ」


 母親に遊んで貰えて笑みが満開の一歳児を優しく受け取ると、菜月はクールぶるのも忘れて一気に頬筋を崩壊させた。


「ぷにぷにでもちもちですべすべで……まるで天使みたいね……」


 無意識だったのか、そう呟いた直後、菜月はハッとしたように周囲の様子を窺う。葉月だけでなく家族も幾度となく同様の光景を目撃しているので今更な反応なのだが、当人は何故か幼児を表立って可愛がるのに抵抗があるみたいだった。


 コホンと軽く咳払いをして誤魔化そうとする妹の隣に、葉月はよっこいしょと腰を下ろす。


「はづ姉、なんだかおばさん臭いわよ」


「仕方ないよ、実際におばさんなんだから」


 ケラケラと笑う葉月も今年で三十二歳になる。

 穂月には母親でも、他の人から見たら立派な中年に近づきつつある。


「それよりさ、穂月もなっちーのことが好きみたいだし、もっと素直に遊んであげてよ。無理に不愛想にして、大好きなこの子が大好きな妹と距離を感じちゃったら、母親としても姉としても悲しいよ」


 柔らかい葉月の口調に感じることがあったのか、菜月はしばし瞑目し、


「……だったら、私に似合わないとか……笑わない……?」


 真っ赤に染まった顔を軽く逸らして、そんな言葉を口にした。


「もちろんだよ。むしろ私は喜ぶわ」


「……そう。わかったわ。それなら……」


 菜月は姪を抱え直すと、自分の膝に座らせる。


「まだわからないと思うけれど、穂月、私は貴方の叔母さんよ」


 とてもとても優しい笑顔だった。

 葉月の心がポカポカとしてくる中、茶目っ気たっぷりに菜月が舌を出す。


「自分で言っておいてなんだけど、可愛いからこそ、この子に叔母さんと呼ばれるのは抵抗があるわね。例え事実でも」


「そんなこと言ったら、私はおばあちゃんよ。穂月が会話できるようになるのが、今から恐ろしくてたまらないわ」


 和葉がついたため息は、ここ近年では見たことがないくらい盛大なものだった。


   *


 学生時代は友人と一緒に過ごしたりもしたが、やはり大人になると家族と年を越すことが多くなる。


 とりわけ友人たちも家庭を持つ人間が増えてきたのもあるだろう。それでも一緒に働いているのもあって、大晦日は皆でムーンリーフの大掃除もした。


 徹夜せずにゆっくり迎えた新年はとても和やかで、イベントといえば午前中の菜月と穂月のやりとりくらいだった。


 けれど午後になれば様相も一変する。


「いよーっす、新年おめでとさん」


「……こっちは盛大におばさん化を果たしているわね」


 挨拶のために上げた右手を使ってマフラーを脱ぐ実希子を、頬をヒクつかせる菜月がそう評した。


「三十過ぎたら、女はこんなもんだって」


「世の女性全員を敵に回す発言はどうかと思うわよ」


「ハッハッハ! まあ気にすんなってこった」


 どっかりとソファに腰を下ろした実希子に続いて、ぺこぺこと恐縮しながら夫の智之もやってくる。


 両手にしっかりと抱かれている希を見て、菜月が一瞬だけ目を輝かせた。当人はすぐに平静を保っていたが、意外と鋭い実希子がその変化を見逃すはずもない。


「おやおや、なっちー。私の可愛い娘を愛でたいのかな? かな?」


「ウザっ、ちょっと、まさかもうお酒呑んでるの?」


 近づけられる顔を両手で防ぎながら、菜月が眉を顰める。

 答えをくれたのは、相変わらず申し訳なさそうな智之だった。


「昨晩から家族で呑み始めて、そのまま……」


「その割には智之君は酔ってないね?」


 穂月を抱っこしたまま葉月が尋ねると、人の好さそうな笑顔が返ってくる。


「万が一があったら困るので、誰か一人は素面でいた方がいいと思いまして」


「デキ婚と聞いた時はどうなるかと思ったけれど、意外と常識的な方で良かったわね。もっともそんな人がどうして順番を、と首を傾げたくはなるけれど」


 さすがに自分の恋愛事情を明かすのは恥ずかしいらしく、実希子も智之も愛想笑いで逃げようとする。


 けれど葉月は知っている。

 その流れになった時、躊躇していたのは智之の方だったと。


 元気づけるという名目があったにせよ、あまりにも軽はずみすぎると、葉月と一緒に実希子本人から事情を聞きだした好美は、その場で大層お冠だった。


「まあ、それはともかくとして、私も実希子ちゃんにはお似合いの旦那さんで良かったと思ってるよ」


   *


 実希子たちを皮切りに、高木家には続々と新年から人が集まってくる。

 元々はお正月も家族で過ごしていたのだが、葉月や菜月が学生時代から皆で賑やかにするのが恒例行事になりつつある。


 家庭持ちの尚は二日以降に旦那や自分の実家に挨拶に行くらしく、お年玉を貰えるのを朱華はすでに楽しみにしていた。


 もっともお金について正確に把握しているわけではなく、母親の尚曰く、本人はお菓子の引換券みたいに思っているらしい。さらにいえばひらひらしたお札より、五百円玉の方が重くて立派で好きだそうだ。


 事前に皆で申し合わせていた結果、それぞれが朱華に五百円玉を渡し、両手一杯の硬貨に三歳児らしく大はしゃぎだった。


「うちだけ申し訳ないわね」


「大丈夫だよ、大きな金額じゃないし」


 そんなやりとりをしていたら、実希子がやおら立ち上がった。


「よっし! 初詣に行くぞ!」


 大勢で騒ぐのが大好きな彼女の号令に、苦笑しながらも葉月は賛同するのだった。


   *


 元旦とはいえ、午後三時にもなれば初詣の客もずいぶん少なくなっている。

 それでも普段は近所の神社にこれだけの人は見かけないので、日本人がどれだけこのイベントを楽しんでいるのかがわかる。


 全員でお参りを済ませたあと、おみくじ売場に行くと誰よりはしゃぎだしたのは三歳児の朱華――


 ――ではなく実希子だった。


「久しぶりの皆での初詣ではしゃぎたいのはわかるけど、少し落ち着きなさい三十一歳児」


 朱華と一緒に駆け出そうとする実希子の襟首を、好美がむんずと掴む。

 全員が着物ではなく私服で、幸いに晴れているので汚れたりはしないだろうが、大の大人が子供じみた行動をすれば、さすがに外聞が悪い。


 そういう理由で注意したのだが、実希子には通じていなかった。


「子供を抱いて走ったら危ないもんな。ほい、なっちー」


「あのね、そういう問題じゃ――え?」


「おいおい、これはどういうこった」


 親指と人差し指で眉間を押さえようとした好美も、希を菜月に預けておみくじを引こうとした実希子も、それを見守っていた葉月も、とにかくこの場にいる関係者のほぼ全員が目を丸くしていた。


「そんなこと私に言われても……」


 物事にろくな執着を示さないことで身内では有名な希が、コートの上からしっかと菜月に抱き着いているのである。


 もう離れたくないと言わんばかりの勢いに、ただただ圧倒される。


「あっ、もしかして……」


「何だ、葉月」


 実希子の問いに頷きを返しつつ、葉月は予想を披露する。


「なっちーが本好きだからじゃないかな」


 現役大学生の今も活用できるお小遣いの大半は本に変わっているらしく、しかも電子書籍の便利さは認めつつも、紙の本が大好きと言い切る菜月である。

 新刊独特の匂いが服に染み込んでいたとしても、何の不思議もなかった。


「そうか! アタシの服も本と一緒に置いとけばいいのか!」


「少しくらい染み込ませても、実希子ちゃんの体臭に掻き消されてしまうのではないの?」


「なっちーはアタシを何だと思ってやがる!」


 恒例のやり取りをしながらも菜月が頭を撫でてあげると、予想以上に希が心地良さそうに甘えだした。


「ふわぁ、お母さんの実希子ちゃんより懐いてるねぇ」


 茉優にまで言われ、さしもの実希子も本気でショックを受ける。


「嘘だろ……うわあああ、なっちーがアタシの天使を寝取ったあああ」


「ちょっと! こんな場所で変なことを叫ばないで!」


 菜月にお願いされた茉優が、笑顔で実希子の口を塞ぐ。

 ふがふが言う母親を見つめながら、力一杯菜月にしがみつく一歳児は、初詣から高木家に戻っても、なかなか離れようとはしなかった。

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