第360話 愛娘たちの水遊び
そろそろ梅雨も明けようかという時期になれば、日本の北の方に位置する葉月たちの地元も当然のごとく暑さを増す。
都会や南の方みたいに連日三十五度を超える猛暑日は滅多にないが、冬や春が肌寒いだけに三十度を上回ると肌が溶けそうな気分になる。
「こういう日こそ、この秘密アイテムの出番だよ!」
「おお、懐かしいな。ウチにもあるぞ、ビニールプール」
じゃじゃーんと自声の効果音付きで、高木家の庭に設置済みの秘密アイテムを披露するなり、一緒にいる実希子にネタ晴らしをされてしまった。
もっとも誰でも幼い頃に使った経験があり、一目でわかるものなのだが。
とにもかくにも実希子の言う通り葉月が――正確には頼んでおいた春道が――用意したのは水遊び用のビニールプールだった。
昔の女児用アニメのキャラが底や周りに描かれた一品は、葉月の子供時代に和葉が買ってくれたもので、妹の菜月も小さい頃に利用していた。
「穂月も希ちゃんも大きくなってきたし、外も暑いし、そろそろ水遊びを解禁してもいいんじゃないかと思ったんだ」
「アタシは賛成だな」
実希子の傍には、当然のように朱華もいる。
両手を突き上げて水遊びを期待する様は微笑ましい限りだ。
「もちろん私もよ。昨日の夜に水着を用意しておいてって言われた時点で予想はついてたし」
パートで働いていても、子供と一緒に遊びたいのは尚も同じだ。
早朝からの混雑時期を抜けた正午の少し前までの間は、こうして店を抜けて子供たちとも遊んであげられる。
それも店長代理から完全な主力になってくれた茉優と、葉月たちにこうした時間を作るため、入れ替わるように出勤してくれる和葉のおかげだった。
「事前に調べた通りプールは日陰に設置したし、一時間くらい前から水を入れて適温にしてるし、日差しはちょっと強いかもだけど」
「これくらいなら大丈夫だろ。水着の上にTシャツも着せてるし」
赤ちゃんの肌は大人に比べて弱いので、なるべく太陽に晒す面積を少なくし、尚且つ水着もUVカット仕様のものを選んでいる。
「それじゃ、早速遊んでもらおうかな」
「おうっ!」
誰より元気に返事をしたのは実希子だった。
他に誰もいないとはいえ、屋外には変わりない高木家の庭でおもむろにTシャツを脱ぐ。
「ちょっと、実希子ちゃん!? まさか自分も遊ぼうとしてないわよね!?」
予期せぬ友人の行動に、母親になってだいぶ落ち着きを得ていたはずの尚が目をひん剥いた。
ぶるんと盛大に弾む巨大な物体を迫り出させ、何故か実希子は得意げに笑う。
「当たり前だろ。アタシはさ、気付いたんだ。希が積極的に遊びたがらないのは、親のアタシが一緒に楽しんでないからだってな」
「いや、それ違うから! ていうか脱がないでってば!」
豪快にぽぽーんとビキニ姿になった実希子の肢体は産後の崩れもなく、若い頃に比べて筋肉量は落ちているものの、逆にそれが女らしさを強めている。
「なんか目に毒だから! ご近所さんに見られたらどうすんのよ!」
「いいだろ別に。三十過ぎのオバハンの体なんか、誰も興味ねえって」
「あああ、話にならない! こうなったら実力行使よ!」
「ハッハッハ! 返り討ちだ!」
「尚ちゃんも実希子ちゃんも待って! このビニールプールは子供たちのためのものだから!」
*
日陰に水もあるとなれば、吹く風も肌にありがたい涼やかさになる。
梅雨真っ盛りの草が濡れたような、独特の臭いも抜けた風は非常に爽やかで、前髪を揺らされるたびに心が弾む。
そんな葉月の視界では、ビニールプールではしゃぐ朱華の姿がある。
たまに隣の穂月にも水をかけてくれて、目一杯遊びながらも姉御的な一面を見せたりもする。
そしてさらに視界の隅では、力ずくで愛娘たちとの触れ合いを止められた実希子が心なしかしょんぼりしていた。
いまだ水着姿のままなのは、隙を見て乱入しようと企む心の現れだろうか。
なんとか防衛に成功した尚はTシャツを濡らしてしまったが、下着が透けているわけでもないので、むしろ冷たくていいと放置している。
「穂月も朱華ちゃんもご機嫌だね」
「ハッハッハ。なあ、葉月さんや。どなたか一人、忘れてはおりませんかな」
「ええと……希ちゃんは……ラッコ?」
わざとらしい口調の実希子の隣で、葉月は僅かばかり笑顔に苦味を添える。
ぷかぷかと浮く姿はなんとも微笑ましいのだが、当人は興味なさそうに目を閉じている。
はしゃぐ穂月のせいで顔に水飛沫がかかっても、まったく意に介さない。
ある意味で大物なのだが、葉月や尚が微妙な表情になるのも仕方ないと言える。
「唇の色も普通だし、体調が悪いってわけではなさそうだから、あれが希ちゃんの遊び方なのね」
プール近くでしゃがみ込んだ尚の感想に、頑張って作っていた笑顔を実希子がしかめる。
「なんだかこの間の公園デビューの時と、大差ない展開のような気がするんだが」
葉月と尚は申し合わせたように、それぞれ逆の方にそっと顔を逸らす。
すかさず実希子が両腕で葉月と尚の顔を捕まえた。
「おいおい、ママ友同盟の仲間だろ。アタシの相談に乗ってくれよお」
「絡まないでよ。実希子ちゃんがそうやって変にプレッシャーをかけるから、希ちゃんも楽しめないんじゃないの?」
早口で抗議する尚が、パンパンといまだ腕力旺盛な実希子の手を叩く。
「そんなことねえって。旦那にも言われたから、かなり自由にさせてるぞ。本当だからな!」
「わかったから離して! 私を殺す気っ!?」
ようやく解放された尚がゴホゴホと咳き込む。
葉月はさほどでもないので、恐らく力の入れ方に差をつけていたのだろう。
*
「……結局、希は浮いているだけだったな」
出かける前に和葉が作っておいてくれたおにぎりを頬張りながら、実希子が唇を尖らせる。
これから葉月たちは店に戻らなければならないので、子供たちともども早めの昼食を取っていた。
穂月は初めての水遊びを堪能したらしく、葉月の膝の上で相変わらずのご機嫌ぶりを披露してくれている。
希は実希子に離乳食を食べさせてもらいながら、いつもの真顔を崩さない。
葉月は友人の子供ながら、本当に笑うことがあるのか少し不安になる。
「わたし、ぷーるすきー」
母親から分けてもらっていた梅のおにぎりを食べ終えた朱華が、元気に声を張り上げる。
元気さでは負けない穂月がすかさず「だー」とノリノリで叫び、冷静さでは他の追随を許さない希は黙々と離乳食をはむはむし続ける。
「公園でも水遊びでも普段と変わらない。一体、希は何になら興味を示すんだ」
Tシャツから僅かに藍色の水着を透けさせる実希子が頭を抱えていると、突然に希が顔を上げた。
「おっ! どうした! ようやく母ちゃんの苦悩を解決してくれる気になったか!」
しかし実希子の天使がじいっと見据える先は、ダイニングに冷えたほうじ茶を飲みに来た春道だった。
高木家ではミネラル豊富な麦茶の他に、子供でも飲めて体にも優しいほうじ茶をさらに水量多めで薄めに作ったのを水分補給用に用意していた。ちなみに麦茶は夏の間だけだが、ほうじ茶は冬でもある。特に春道が愛飲していた。
「ん? どうかしたのか?」
視線が集まっているのを敏感に感じ取った春道が首を傾げる。
「希ちゃんが珍しく反応を示したんだよ、それもパパに」
「俺に?」
春道が近づいてくると、にわかに嬉しそうにする希。
その様子に尚が軽い悲鳴を上げる。
「ど、どうしたの、尚ちゃん」
「だ、だめよ、言えないわ」
「ええっ!? 何があったの!」
「だって、春道パパにだけ懐くってことは……」
「まさかパパの子!?」
「「待てっ」」
春道と実希子の声が同時にリビングに響いた。
「その理屈でいくと、アタシにも懐いてないとおかしいだろうが! それにアタシは旦那一人だけ――って何を言わせんだよ、ちくしょう!」
「全部、実希子ちゃんの言う通りだ!」
ハアハアと呼吸を荒げる二人に、さすがに冗談が過ぎたと思ったのか、尚が素直に謝った。
「でも希ちゃんは、春道パパの何に反応したのかしら」
「パパは普通に仕事してたんだよね?」
「ああ、今日はいつもと気分を変えようと……ってもしかして……」
「何か思い当たることがあるんスか!」
自分の娘のことなので実希子も必死だ。
掴みかかられそうなのを必死に押し留め、春道は自分の見解を口にする。
「あくまで推測でしかないんだが……」
*
変化は劇的だった。
春道に連れられて行ったのは、高木家の二階にある書斎だった。
ビニールプール設置後はここで仕事をしていたらしく、本の匂いが服に染みついていて、それに希が反応したのではないかと考えたのである。
扉を開けるなり奔流のように溢れてきた紙とインクの匂いに、これまでの無表情ぶりが嘘みたいに希は瞳を輝かせた。
「アタシの娘が文学少女の素養十分って……マジか……」
予想外の展開に脱力しきった実希子が、たまらずといった感じで床に両手をつく。
「でもパパ、よく希ちゃんが本に興味あるってすぐわかったね」
「菜月も似たような感じだったからな」
「そういえばそうだった!」
納得する葉月の傍で頽れ中の友人は、まだ立ち直れていないみたいだった。
「本好きとはな……本なんざないアタシの家ではそりゃ何の反応も示さないわな」
興味を示すとは言ってもなんだか楽しそうにするだけ、さすがに本を読んだりといった常識の埒外の行動は取らないものの、それでも今日に至るまでほぼほぼ真顔を貫き通して来た愛娘の現状は衝撃的だったようである。
「これからは希ちゃんのためにも、実希子ちゃんも本を読まないとね」
「……頑張る」
そう言って力なく頷いた実希子のすぐ前で、小さな天使は飽きることなく書斎を眺め続けていた。
ちなみに穂月と朱華も物珍しそうにしていたが、動き回れるスペースの少ない書斎に徐々に飽き始めているみたいだった。
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