第323話 実希子の幸せな日常

「朝だーっ!」


 実希子の朝は早い。

 叫んで飛び起きると、勢いよくカーテンを開けた。


 夏本番のギラついた日差しを嘆く人間もいるが、こと実希子に関しては心躍らせるタイプの方だ。


「うっし! 今日も気合入れてくぞ!」


 顔を洗ってダイニングに行くと、すでに両親が揃っていた。

 実希子には歳の離れた兄もいるが、他県に就職が決まって高校卒業と同時に家を出ていた。


「あんたねえ、嫁入り前の娘だってのに、その恰好はなんとかならないのかい?」


 大きなちゃぶ台に全員分の味噌汁を運びながら、母親が苦言を呈する。


「楽なんだよ、この服装」


 だらしなく半分ほど出ているタンクトップの裾を軽く引っ張りつつ答える。

 ノーブラなせいでこぼれそうにもなっているし、薄生地のショートパンツからは太腿が剥き出しだ。


「それに見てるのは親だけなんだからいいだろ」


 女性だからといって、常に着飾っていろというのはあまりに横暴だ。

 その点を前面に押し出して抗議したつもりの実希子だったが、母親の次の一言であえなく撃沈する。


「あんたは外でも似たようなものでしょ! 縁日で見かけた時、眩暈がしたわよ」


「たはは……」


 実希子がたじろいだところで、母親の猛攻が始まる。


「もう三十も近いんだから、身だしなみには気をつけなさい。嫁の貰い手が本当になくなるわよ!」


「おいおい、いまだにアタシに期待してんのかよ。さすがに無理だって」


 現実を知ってもらおうとしたが、割烹着みたいなエプロンをつけている母親が酷く真剣で、そして泣きそうな顔になる。


「もうあんたしかいないんだから、仕方ないでしょ! お兄ちゃんはほとんど帰ってこなくなっちゃったし……」


「それは母さんが帰省のたびに、兄貴に結婚はどうだの、彼女はどうだのって口煩く言いまくったからだろ」


「全部、母さんのせいなの!? あんまりよおおお」


 あからさますぎる泣き真似で実希子をその気にさせようとする努力は買うにしても、すぐには了承できない事情というものがあった。


「んなこと言われても相手がいなけりゃ、どうにもならねえだろ」


「配達先とかでいい人いないの? あんたの腕っぷしがあれば、一人や二人や取っ捕まえてこれるでしょ」


「それが母親の台詞か! 娘を何だと思ってんだよ!」


「この際、子供が先でもいいから! 母さんに孫を見せてよおおお」


「うわあ、抱き着くなって! なんで今日はこんなにしつこいんだよ!」


 五十を過ぎている母親だけに力任せには振り解けず、実希子が参っていると、我関せずに勝手に食事を始めていた父親がぼそっと呟いた。


「ご近所の奥さん方の孫自慢に加われないのが寂しいらしい」


「そうよっ! うちは子供が二人もいるのに、どうして結婚すらしてないのよ! 高木さんのとこは葉月ちゃんが結婚して、菜月ちゃんだって半同棲の彼氏がいるって話なのに!」


「好美や柚は独身だぞ! ついでに美由紀先輩も! 彼氏だっていねえけど、皆、幸せに暮らしてるじゃねえか!」


「柚ちゃんは教師だからどうにでもなるのよ! 好美ちゃんもその気になればなんとかなるタイプよ! でも! あんたはその気になっても無理でしょうが!」


「だったら、いっそもう諦めようぜ!」


 素敵な笑顔にウインクまで加え、親指を立ててみたのだが、どうやら母親はそれが気に入らなかったらしく、とうとうちゃぶ台に突っ伏してしまう。


「母さんは不幸よおおお」


「いや、孫だけがすべてじゃねえだろ」



   *


「ちーっす、ムーンリーフです」


 大手スーパーの従業員入口から建物内に入り、守衛がいるカウンターで名前と来店目的を書く。そうして入店許可証を貰わないと、業者の実希子が店内に入ることはできないのだ。


 ムーンリーフを少しでも印象付けるために、制服で配送をしている実希子は開店前の店に入って、与えられている小さなスペースに出来立てのパンを並べていく。


 店長の葉月の方針で日持ちするパンでも賞味期限が近いものに値引きシールを張る。割引しすぎると通常価格では買ってもらえなくなるかもしれないが、捨てるよりはずっといいと葉月が決断した。


 とはいえ残りが少ない場合は値引きをせずに持って帰り、実希子を始めとした従業員の胃袋に入る。


「お疲れ様、ムーンリーフさんは好調だね」


「あ、課長。お疲れ様っす」


 大手だけに社員の入れ替わりも結構あるが、実希子に声をかけてきた中年の男性は課長として転任してきてからずっとこの店に在籍中だ。

 ちなみにムーンリーフの商品を、好美との商談で決めてくれた担当者でもある。


「たまに売り切れもあるみたいだし、仕入れを増やす?」


「いやあ、どうですかね。うちの財務担当と社長次第なんで」


 客のために商品を多く並べるのも一つの手だが、それで売れ残りも多くなれば元も子もない。割引は最終手段だし、そもそも安くしたからといってすべて売れるとは限らないのだ。


「今井さんか……彼女、手強いんだよね」


「聞いたっすよ。好美を引き抜こうとしたらしいじゃないっすか」


「ハハ、バレたか。今井さんは手際がいいし、強弱つけた交渉も上手いからね。引き抜ければ私の補佐か、総務にでも捻じ込もうと思ったんだけどね」


 大学も出ている好美はその気になれば、この大手会社にも普通に就職できた可能性が高い。


 改めて実希子は自分と親友の頭の出来の違いに苦笑したくなる。

 だがそんな実希子を、課長がじっと見つめる。


 何だと身構えそうになったところで、相手男性はにっこり笑った。


「佐々木さんはどう? その気があるなら、上に掛け合うけど」


「アタシを引き抜いたって役に立たないっすよ」


「そんなことはないでしょう、この県では有名な方ですし」


「昔の話っすよ。今じゃ、誰も覚えてないですって」


 笑いながら手を振り、ついでにスカウトもさりげなく断る。


「多分好美も同じ理由だろうけど、アタシは今の職場が気に入ってるんすよ。追い出されるまでは頑張るつもりっす」


「そうか……。

 ムーンリーフさんは人材に恵まれてるね。確か友人同士なんでしたっけ?」


「大半が小学生からの付き合いっすね」


「そういうのも珍しいよね。やっぱり色々と恵まれてて、羨ましい」


「ハハ、課長もこんな大手で役職貰えてるじゃないっすか。給料もガンガンでしょ」


「ガンガンどころか散々だよ」


 軽口を叩きながら商品の補充を終えると、実希子は課長に挨拶をして売場から出た。


   *


「オラーっ、もうちっと気合入れてバット振れーっ!」


 車の中で昼食を取って店に戻ると、接客をしている茉優らと代わって売場に立つ。


 そうして全員に昼休憩を行き渡らせたあと、実希子はこうして南高校ソフトボール部の練習にコーチとして参加する。

 監督の美由紀もいるので毎日ではないが、比較的よく顔を出していた。


「実希子ちゃんが来ると、部員の張り切り具合が違うわね」


 自分も練習用ユニフォームに着替えている美由紀が、腕を組んだまま笑う。

 美人の部類に入り、部員と一緒に体を動かすこともあってスタイルも悪くない。


 なのに彼氏ができない。

 正確にはたまにできたりはしているみたいだが、すぐに別れて練習後に飲み会に連行されて愚痴を聞かされる。


「単純に監視の目が増えるからだけじゃないっすかね」


「そんなことはないわよ。実希子ちゃん、教えるのもそうだけど、周りの人間をやる気にするのが美味いのよ」


 褒められてなんだが、実希子は苦笑を張り付けた顔を左右に振る。


「だとしても元々の自分の能力じゃないっすね」


「というと?」


「先輩も知っての通り、そういうのは葉月が得意なんすよ。アタシはその真似をしてるだけっすね」


「謙遜ね」


 そこまでは笑っていたはずの美由紀が、急に鬼の顔になる。

 部員が手を抜いたのかと思いきや、彼女が鋭い視線を突き刺しているのはグラウンドの外だった。


「部活の練習中はイチャイチャしに来るんじゃないわよ!

 監督特権で別れさせるわよ!」


 怒鳴られた男子は慌てて逃げだすも、怖がっているというより楽しそうだ。

 美由紀の人となりはすでに高校内で知れ渡っており、一種の名物と化していた。

 もっとも当の本人は、いまだに真剣に部員は恋愛禁止を掲げているのだが。


「部活に青春を捧げる年代にチャラチャラと……嘆かわしいわ」


「美由紀先輩だって、後半はチャラチャラしてたじゃないっすか」


「あれはリハビリの一環よ」


 高校時代に大きな怪我をして、一度は部を辞めようとした美由紀。

 葉月らの説得で部には戻ったが、その後は彼氏とのラブラブ高校生活を満喫していたはずである。


「大体、男なんてろくなもんじゃないわ。この間のお見合いだって……」


 部活終了間際になって愚痴が始まりそうなところで、タイミングよく実希子は鳴り出した自分のスマホに救われた。


   *


「あのな、結局は他人の評価より自分の意思だぞ」


 先輩の愚痴から逃げられたと思いきや、つい先日も利用した居酒屋で実希子はかなり年下男性の悩みを聞くはめになっていた。


 どうしてこんなことになったんだかと思い返せば、美由紀の話でも出ていたお見合いが発端だった。


 まったく乗り気でなかった実希子は下心ありありの大学生を適当にあしらい、葉月たちとの雑談に興じるつもりでいた。ところが、ろくでもない男どもの中に真面目そうながら陰気な奴が混じっていた。


 なんとなく放置できずに会話していると悩み相談をされ、挙句にはまた話したいと頼まれた実希子は連絡先を交換した。

 以来、たまにこうして二人で呑んだり食べたりする仲になった。


「実希子さんは有名なソフトボール選手でしたよね?」


「自分じゃそう思えないんだけどな」


 笑ったあとで、掌に顎を乗せた実希子は目だけで天井を見る。


「アタシはただ大好きな友達と一緒に遊びたかっただけなんだ。それだって十分な理由だよ。部活も進学も就職もな」


「それで今の環境なんですね」


「ああ」


 実希子に釣られたのか、向かいに座る青年もまた屈託のない笑顔を作る。


「じゃあ、実希子さんはとても幸せですね」


「ああっ」


 ジョッキに入っていたビールを呑み干し、ニカっとする。

 誰に何を言われても、実希子は幸せだった。


「大好きな友達と一緒に働けて、コーチとしてだけどソフトボールもたまにやったりして――って、何でお前がアタシ以上に嬉しそうにしてんだよ」


「いや、なんか実希子さんって素敵だなって思って」


「ぶっ――」


 たまらず吹き出しかけた実希子の前で、眼鏡をかけた大学生が顔を真っ赤にする。振っていた両手を落ち着かせて布巾を掴みつつ、弁解を始める。


「そ、そういう意味じゃなくて、単純に憧れるっていうか……」


「わかってるよ! うわっ、なんかあっつくなってきた」


 手でパタパタを扇ぎながら、実希子は酔い覚ましに冷水を喉に流し込んだ。

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