第139話 希望と絶望のバレンタインデー

 前日から、葉月の通う小学校の教室内――とりわけ男子がやけにそわそわしていた。どうやら、今日のバレンタインデーに女子からチョコを貰えるかどうかを気にしてるみたいだった。

 本来ならお菓子の持ち込みは禁止なのだが、この日だけは大半の教師が見逃してくれる。それでも怖い先生に見つかれば没収されてしまうので、チョコレートを持ってきた女子は慎重に行動する。


「朝から騒々しいよな。そんなにチョコが食いたいなら、自分で買えばいいのにさ」


 ぶっきらぼうに言ったのは実希子だ。今日も朝の会が始まる前に、好美や柚と一緒に葉月の席へやってきていた。

 女子4人で集まってるからなのか、何人かの男子がこちらをチラチラ見てくる。気になって声をかけてみても、何でもないと返される。同じような展開が、朝から何回かあった。


「実希子ちゃんは、まだまだ子供ね。バレンタインデーは、男と女がより親密になれる一大イベントじゃない」


「はいはい。柚はこういうイベントは張り切るよな。運動会に、男子との手繋ぎ競争とかがあったら、余裕で1位になれるんじゃないか」


 からかい半分の実希子に、柚は真顔で「相手によるわ」と返す。


「嫌いな男子がパートナーだったら、事前にお腹が痛いといって棄権するもの。好美ちゃんだってそうよね」


「私にその手の話を振らないで。期待してる答えは絶対に言わないわよ」


 明らかにチョコレートを持ってきてる感じの柚とは違い、好美は葉月と一緒に登校中の時点から持ってきてないと言っていた。

 元から男子がどうのという話題には、つまらなさそうな反応しかしていなかった。

 それでも最近は、ほんの少しではあっても、そうした会話に応じてくれるようになった。


 それが嬉しくて柚なんかは、何度も自分の意見に同意してくれるよう求める。

 けれどそのたびに、今みたいに玉砕して終わる。懲りないといえばそれまでだが、室戸柚からすれば、恋愛話ができる仲間が欲しいのだろう。

 葉月はまだわからない状態だし、実希子はまったく興味がない。3人の中で唯一、可能性がありそうなのが好美だった。だからこそ執拗に色恋の話題を振ってみたりする。


「そんなこと言わないでよ。ちょっとは考えてみたりするんでしょ?」


「残念ながら全然ね。実希子ちゃんはチョコを持ってきたの?」


「まっさかー。そんな金があるなら、自分用のおやつを買ってるって」


 ケラケラ笑う実希子の声が教室に木霊すと、何人かの男子がガックリと肩を落とした。その様子を見て、柚がニヤリとする。


「がさつなわりには、実希子ちゃんも人気があるのね。女らしくしたら、ファンクラブでもできるんじゃない?」


「うえーっ。そんなのいらないって。それにアタシが女らしくなったら、逆に気持ち悪いだろ」


「それもそうね」


「ちょっと待て、柚。あっさり納得されても、それはそれで腹が立つぞ」


 教室内で、実希子と柚の追いかけっこが開始される。よくあることなので葉月は面白くて笑うが、好美は呆れるようにため息をついた。


「男子も女子も、チョコレートひとつで、よくここまで盛り上がれるわよね。葉月ちゃんもそう思うでしょ?」


「そうだねー。でも、葉月はチョコ持ってきたよー」


 何気なく放ったひと言だったのだが、次の瞬間には教室内が一気に静かになった。何が起きたのだろうと思ってるうちに、今度は騒がしくなる。

 そこかしこで、葉月が誰にチョコレートをあげるつもりなのかという話題で盛り上がる。当然、この手の話が大好きな柚も、全速力でこちらまで戻ってくる。


「やるじゃない、葉月ちゃん!

 で、誰にあげるつもりなのっ!?」


 顔を真っ赤にした柚が興奮気味に質問してくる。すぐ側には興味がないと言ってたはずの実希子までいて、興味津々に目を輝かせている有様だった。

 そんな2人に、葉月ではなく好美が注意をする。


「あのね……葉月ちゃんはチョコレートを持ってきたと言っただけよ。誰かにあげるなんて、ひと言も口にしてないわ」


「そ、そうか。お腹が空いた時のために、こっそり持ってきたんだろ。葉月は食いしん坊だな」


 何やら勝手に話が進んでしまってるので、チョコレートを持ってきた目的を素直に告げる。


「違うよー。チョコはあげるために持ってきたんだよー」


 再びザワめく教室内。中には自分の髪の毛を手で直したりする男子までいた。

 どうしてこんなに騒いでるのかわからず、きょとんとしている葉月に実希子が詰め寄ってくる。


「だ、だ、誰だよっ! い、いや、ちょっと待て。こうやって皆で騒いだあと、友達にあげるチョコだったってオチになるんじゃないか?」


「え? 実希子ちゃんもチョコレートが欲しかったの? じゃあ、あとであげるね」


「――っ!

 ア、アタシたちへの友チョコじゃないとすると……あ、あげるのは……男子か?」


 何故か、実希子が声を震えさせる。

 ますますもって意味がわからないが、とにかく質問には答えようと思った。


「うんっ。でも、いつあげればいいかわかんないから、どうしようかなーって思ってたんだー」


「そ、それは、ほら。下駄箱とかに置くとかさ。まあ、直接渡してもいいんだけどさ」


「そっかー。じゃあ、まだ先生来てないし、渡しちゃうねー」


 そう言って葉月は、机の横にかけていたランドセルを開けて、中から小さな箱に入ったチョコレートを取り出した。

 数日前に母親の和葉と一緒に買い物へ出かけた際、自分のお小遣いで購入したものだった。可愛らしい正方形の入れ物の中に、ボール型のチョコレートが2つほど入っている。バレンタインセールをやっていたスペースで、ひと目見た瞬間に気に入ったものだった。


 それを持って、葉月は教室の中をとことこ歩く。全員の視線が集まる中、立ち止まったのは仲町和也が座っている席だった。

 周囲からは、やっぱりなという声が聞こえてくる。


「え、あの……お、俺に……?」


 慌てた様子の和也が人差し指で自分を差しながら、声を裏返させる。


「うんっ。はい、どうぞ」


 両手に持ったチョコレートの箱を笑顔で差し出す。

 和也はやや緊張気味に受け取ると、ありがとうと言ってくれた。


「そっか……やっぱり葉月ちゃんは仲町君のこと……でも、いいの。私なら気にしないで」


「え? 柚ちゃん、何を言ってるの?」


 どうして柚が涙ぐんでるのか、いまいち理解できない葉月は小首を傾げた。


 えっ、と驚く柚に代わって、実希子が口を開く。


「あ、あのさ。葉月はどうして、仲町にチョコをあげようと思ったんだ?」


「だって、お世話になった人にチョコレートをあげるんでしょ? ママが言ってたよー」


 昔は悲しい思いもさせられたが、最近では学校内の行事などで和也にはお世話になった。だから、チョコレートをあげてみようと思った。

 改めてそう説明すると、周囲にいる人たちが何故か微妙そうな顔をする。


「あ、あれ? 皆、どうしたの」


「何でもないわよ。それより早く席につかないと、先生が教室に来るわよ」


 ひとりだけ冷静な好美に促されて、教室内で立っていた皆がそれぞれの席に戻る。その際に何故か、多くのクラスメートが和也の肩をポンと叩いていた。


   *


 学校が終わり、葉月は帰宅路を歩いていた。今日はいつものメンバーだけでなく、たまたま部活の練習がなかった和也も一緒だ。何故だか、とても嬉しそうな顔をしている。


「和也君、嬉しそうだねー」


 人が笑ってると、自分まで楽しくなってくる。和也に話しかける葉月も、自然に笑顔を作っていた。


「え? あ、ああ……まあ、いいことがあったからな」


 和也が顔を赤くする。


「へへっ。葉月からチョコを貰えたのが、自分ひとりだけだったからだろ。単純な奴だな、お前も」


「佐々木に言われたくねえよっ!」


 和也と実希子の会話を聞いていた葉月は、思わず首を傾げる。


「どうして、葉月からチョコを貰ったのが、和也君だけだと嬉しくなるのー?」


「えっ、いや、それはだな……」


 単純な疑問に対する明確な答えが得られず、ますますわけがわからなくなる。歩きながらきょとんとしていたら、今度は好美が口を開いた。


「皆揃って帰宅中。葉月ちゃんとの一件で仲町君が浮かれている。これは、何かの前兆かしら」


「やめてくれ……本当に嫌な予感がしてきた」


 表情を曇らせた和也が視線を地面に落とす。

 すぐ後ろを歩いてる好美がフフっと笑い、和也の隣にいる柚が一生懸命慰める。


 葉月は実希子と一緒にグループの先頭を歩く。特に一番前がいいという理由はないが、いつも自然にこんな形になる。今日は和也が一緒なのでやや変則的だが、本来はそこが好美のポジションだった。


 実希子も好美らとの会話に加わる中、ひとり意味がわからない葉月はぼーっと前を見る。すると、よく利用するスーパーから、買い物袋を手に持った父親の春道が姿を現した。


「あ、パパだーっ」


 背後で「げっ」という声が聞こえたような気がしたが、そんなことは気にせずに全速力で突進する。背中にタックルされるのは予測済みだったのか、春道は慌てもせずに「おかえり」と言ってくれる。


「えへへ、ただいまーっ」


 元気に返事をしたあとで、葉月はあることを思い出す。


「そうだ。パパに朝あげようとしたのを忘れて、ランドセルに入れちゃったのがあるのー」


「ん? 何だ、それは」


 胸のあたりで抱えるように持ち直したランドセルを開け、中に忍ばせていたチョコレートの箱を取り出す。


「はいっ。これ、パパのチョコレート」


「今日はバレンタインデーだったな。ありがとう」


 差し出したチョコレートを、春道が笑顔で受け取った。


「それね、葉月がお小遣いを貯めて、買ったんだよー」


 葉月が全力でチョコレートについての説明をしている間に、取り残された形になっていた好美らが追いついてきた。

 気づいた春道が、皆にもおかえりと声をかける。


 普通に応じていた好美らの視線が、春道の右手に持たれた箱のところで止まる。気になった様子で、中身について質問する。


「ああ、これはたった今、葉月から貰ったチョコレートだよ」


「そうなんですか。それにしても……ずいぶんと豪華そうですね」


 大人の財力があればさほどでもないだろうが、小学生のお小遣いで買うには勇気がいるような高級感がラッピングから滲み出ていた。


「葉月、パパのために奮発したんだー」


 事情を説明する葉月に「そうなのね」と言ったあと、好美が横目で和也を見た。


「王道かつベタな展開ね。ここまで見事にハマると、いっそ清々しい気分になるんじゃない?」


「……そんなわけ、あるか……」


「だ、大丈夫よ。私も、仲町君にいいチョコを用意してるから、ほらっ」


「ありがとう。室戸は優しいよな……」


 がっかりした感じを強く放出したままの和也を見ながら、実希子が呟く。


「仲町も相当、鈍感だよな」


 珍しく意見が一致したようで、実希子の言葉に好美が何度も頷いていた。

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