第137話 妻の看病と家事

 時が過ぎるのは早いもので、新年を迎えたと思っていたら、もう半月ほども経過してしまった。

 冬休みが終了した葉月は元気に学校へ通い始め、春道も仕事に追われる日々を送る。今日もいつもと変わらない日がやってくると思っていたら、唐突な異変に襲われる。朝だというのに、妻の和葉が起きてこないのだ。


 どうしたのだろうと葉月が和葉の部屋のドアをノックすると、近寄らないように室内から声をかけられたのだという。何か危険な事態が発生したのだろうかと不安になった春道は、慌てて妻の部屋のドアを叩いた。


「おい、和葉。大丈夫なのか?」


「春道さんですか?

 すみません。どうやら……風邪を引いてしまったみたいです。私の部屋に入るのであれば、マスクをお願いしますね」


 春道にはもちろん、葉月にも移したくはないのだろう。だからこそ先ほど、愛娘が様子を見ようとやってきた時にわざと遠ざけたのだ。


「風邪って、インフルエンザか? 熱は?」


「熱はそんなに高くないので、インフルエンザかどうかはわからないです。ただ、少し体がだるいものですから……」


「わかった。じゃあ、葉月に事情を説明して、マスクをつけてからまた来るよ」


 廊下からそれだけ言うと、春道は急いでリビングへ戻った。愛娘は食卓につきながら、不安そうに足をぶらぶらさせていた。

 春道が戻ってくるとすぐに顔を上げて、和葉がどうなってるのかを質問してくる。


「和葉……ママはどうやら風邪をひいてしまったみたいでな。葉月に移したくないから、部屋へ入るなと言ったんだ」


「風邪? ママ、大丈夫なの?」


 登校前に不安がらせても仕方ないので、まずは「大丈夫だよ」と言っておく。


「俺が家にいるし、具合が酷くなるようならすぐに病院へ連れて行くから心配するな。それより、葉月の朝食なんだが……」


「じゃあ、葉月が作るよ。オムレツとパンでいいー?」


「ああ、助かるよ。俺は和葉の看病をしてくる。後片付けは俺がやっておくから、葉月は朝食をとったら登校するんだぞ」


 心配そうにしながらも、一応は「うん」と返事をしてくれる。

 この場は葉月に任せて、まずは妻の状態を確かめるべく、マスクを口元に装着してから和葉の部屋へ戻る。


 ノックしてから「入るぞ」と声をかけ、ドアを開ける。

 電気をつけ、ベッドで横になったままの和葉の側へいく。


「すみません……体調には気を遣っていたはずなのですが……」


「気にするな。風邪なんて誰だってひくだろう。それより、目立った症状とかはないのか?」


「ええ……特には。熱も38℃もありませんし、咳や鼻水などもないです。本来ならこの程度は問題ないのですが……」


 これが夏とかなら、素直に寝込んでなかったかもしれない。

 けれど今は時期的にインフルエンザのシーズン。自分が発症していた場合を考え、無理をしないことを決めたのだろう。

 何せ今の和葉は、安定期に入ってるとはいっても妊婦なのだ。


「とりあえず、今日はゆっくり休んでろ。家のことは俺がやるから」


「ですが、春道さんはお仕事が……」


「気にするな。1日くらい遅れたところで、何とでもなる。俺の心配をするより、まずは体調を戻すのを最優先に考えてくれ」


「そうですね、わかりました。迷惑をかける期間が少なくて済むよう、しっかり休んでますね」


「ああ。それじゃ、俺は葉月の様子を見てくるから。学校へ行くのを見届けたら、また来るな」


 リビングへ戻ると、葉月が作ったばかりのオムレツをダイニングテーブルへ運んでいる最中だった。病人の妻の部屋から出てきたばかりなので、まずは洗面所に行って丁寧に手を洗ってからマスクを外す。


 その後、もう一度洗った手をペーパータオルで拭く。ペーパータオルなら1枚1枚使い捨てなので、誰かが風邪を引いた時に重宝する。

 そう言って和葉が常備していたのだが、そのとおりに活躍してくれそうだった。

 一応うがいもしたので、ある程度は大丈夫なはずだ。


   *


「いただきます」


 両手を顔の前で合わせてから、葉月の作ってくれたオムレツのフォークを伸ばす。

 焼いたパンはジャムを塗って食べる。

 和葉に鍛えられたおかげで愛娘の料理の腕は、出会った頃からは考えられないほど上達していた。オムレツもサラダもかなり美味しい。


「葉月は本当に料理が上手になったな。これなら、夜も和葉にはゆっくりしてもらえそうだ」


「えへへ。じゃあ、今日の晩御飯は葉月とパパで作ろうね」


「ああ。頼りにしてるぞ」


 和葉の症状は単なる風邪みたいで、今のところは悪化しそうな感じもない。もしかしたら、疲れからきてるのかもしれない。

 不安そうな葉月に、つい先ほどそう説明したばかりだ。最悪の展開にはなりそうもないが、万が一というのもあるので、こまめに和葉の部屋へ顔を出すつもりでいた。


「ママ、すぐによくなるかな」


「当たり前だろ。俺が看病するんだからな」


「そうだね。ちょっと羨ましいかも」


「羨ましがる必要はないだろ。葉月が風邪をひいても、きちんと看病してやるさ。その代り、俺が寝込んだ時はよろしくな」


 自分で作ったオムレツを美味しそうに頬張りながら、葉月が元気に頷いた。


 その後も父娘だけの朝食を続け、時間になったところで葉月が学校へ向かう。

 和葉に代わって、今日は春道が玄関まで見送る。


「気をつけてな」


「はーい。いってきまーす」


 いつでも元気な葉月が、開けた玄関のドアから飛び出していく。猪突猛進そうでいて、意外に気配りをするタイプなので、一時期の和葉みたいな過保護ぶりを発揮しなくても大丈夫だった。

 現在の問題は愛娘よりも自分にある。

 そう判断した春道はリビングへ戻らずに、2階の仕事部屋へ向かった。


 部屋に入るなりPCを操作する。仕事のためではなく、いつも使ってる検索サイトでおかゆの作り方を調べるためだった。

 風邪の際に元気になれるアレンジを加えたようなのもあるが、料理上手でない春道がいきなり挑戦したところで失敗する可能性が高い。まずは普通のおかゆを作ろうと決める。


 無地のA4のコピー用紙に、プリントアウトしたおかゆの作り方を持って階段を下りる。走ったりすれば、部屋で寝てる和葉がうるさがるかもしれないので、なるべく足音を立てないようにした。


「おかゆを作るためのお湯を沸かしながら、朝食の後片付けをするか」


 上着の袖をまくり、洗剤をつけたスポンジでキッチンに運んでいた食器を洗う。その間にもステンレスの片手鍋に、お湯を入れて火にかける。

 ぐつぐつと音がしてきたところで、炊飯器に残っていた米を入れる。

 作ろうとしてるのは五分粥だ。これは米ひとつに対して、10倍もの水を使ったものらしい。


 食べさせてもらったことはあっても、自分で作った経験はない。

 上手く作れるだろうかとドキドキしながら、手順が記載されている用紙を見ておかゆを作る。少

 し時間ができれば洗いものも並行して行っておく。

 言葉にするのは簡単だが、いざ自分でやってみるとかなりの重労働だった。


「この他にも、掃除や洗濯があるんだよな。本当に大変だ」


 だからといって、風邪をひいた妊婦の和葉に無理はさせられない。

 なんとかおかゆを完成させ、小皿に梅干しをひとつ置く。あとは葉月の作ってくれたオムレツも少しだけ持っていく。

 食欲が普通にあるのなら、食べたいと言うかもしれないからだ。

 それらをお盆に乗せて、ベッドで横になってるであろう和葉のもとへ運ぶ。


   *


 ドアの前に立ってノックをすると、中から「どうぞ」と返ってきた。

 中に入ると、ベッドに腰掛けて上半身を起こしてる和葉がいた。


「寝てなくて大丈夫なのか?」


 マスクで隠れてる口を、不自由に動かしながら声をかける。


「少しなら大丈夫でしょう。それより、朝ご飯を持ってきてくれたのですか?」


「ああ。俺が作ったおかゆだから、味は保証できないけどな」


 持っていたお盆を、近くにあった小さなテーブルの上へ置く。


「フフ。きっと大丈夫ですよ。食欲もありますし、ベッドから降りて食べさせてもらいます」


「ああ、ちょっと待て。せっかくだから、そのままでいろよ」


 怪訝そうな表情を見せる和葉の前で、春道は持ってきたスプーンで美味しそうな湯気を立ち昇らせているおかゆをすくった。

 味見をするわけではない。行動の意味を示すように、春道はおかゆを乗せたスプーンを和葉の口元まで運んだ。


「なっ――!?

 な、な、何を、その……するつもりなのですか?」


「そ、そんなに恥ずかしがるなよ。こっちまで照れるだろ」


「は、恥ずかしがって当たり前です。は、春道さんの行動で、余計に熱が上がったらどうするのですか」


「それは駄目だから、早く食べてくれ」


「ど、どうしても、食べさせるつもりなのですね。

 わかりました。私も覚悟を決めます」


 そう言ったあとでつけていたマスクを外し、何度か深呼吸をしたあとで遠慮気味に口を開いた。


 さすがに「あーん」というのは恥ずかしすぎてできなかったが、春道はスプーンで和葉におかゆをひと口食べさせた。


「あ、美味しいですよ。普通におかゆです」


「普通におかゆって。俺は葉月みたいに独創的な料理を作ったりしないぞ」


 プリンバーグなるものを作ったことはあるが、あんなのは例外中の例外だ。春道が勘弁してくれよと言うと、和葉はおかしそうに笑う。


「わかってますから、そんな顔をしないでください。あら、オムレツも作ってくださったのですね」


「これは葉月だよ。朝食はあの子が用意してくれたんだ」


「そうなのですか。胃の方は大丈夫そうなので、是非、食べさせてください」


 ああと返事をして、スプーンでオムレツを少しだけすくう。

 最初のうちは2人とも照れていたが、次第にそうするのが当たり前のように食べさせられるようになった。


   *


 途中で和葉に聞いたりしながら、洗剤を使って洗濯機を動かしたりした。

 洗濯中にリビングなどの掃除を済ませ、今度は昼食の準備にとりかかる。

 和葉には朝作ったおかゆの残りを食べさせたが、春道は自分の分を用意してる暇がなかった。

 いくら慣れてないとはいえ、時間がかかりすぎる。和葉なら、これらはすべて午前中に終えていたはずだ。


 ヒイヒイ言いながら動き回っていると、葉月が真っ直ぐ帰宅してきた。母親を心配して、友人と遊ぶ予定を入れなかったらしい。

 気にしないで出かけてこいと言いたいところだが、今の春道には娘の気遣いは素直にありがたかった。


 それからは人手が増えたのもあって、なんとか無事にこなせた。夕食も葉月がメインで作り、昼の分もめいっぱい食べられた。

 和葉には鍋焼きうどんを用意した。日中に買い物へ出かけた際、購入してきたものだった。


「いつも、ありがとう」


 鍋焼きうどんを入れていた食器を下げに和葉の部屋へやってきた春道は、だいぶ元気を取り戻した妻にお礼を言った。

 いきなりだったので、当の和葉はわけがわからないといった感じで目をパチクリさせる。


「今日1日、和葉の代わりをしてみて、大変さとありがたさがわかったよ。葉月にもかなり手伝ってもらって、ようやくなんとかなった程度だもんな」


「そういうことですか。気にしなくていいのですよ。それが私の仕事ですから。春道さんにそこまでされてしまったら、逆に居場所がないと拗ねるかもしれませんよ」


「それは大変だ。なんとしても早く元気になってもらわないと。和葉の美味しい手料理も食べたいしな」


「フフ。もう平熱に戻ってますし、明日は大丈夫ですよ。どうやら風邪というより、単なる疲労からくる発熱だったのでしょうね」


 病院にも行かず、安静にしてるだけで体調が回復してるのだから、きっとそうなのだろう。なにはともあれ、大変な事態にならなくてひと安心といったところだ。


「色々とストレスもあるだろうしな。辛かったら、少しは頼ってくれよ。俺は和葉の夫なんだからさ」


「ええ、ありがとうございます」


 お礼を言ってくれたあとで、和葉が春道の名前を呼んだ。


「どうかしたのか?」


「私……春道さんと結婚できて、とても幸せです」


「そ、そうか。でも、それを言うなら、俺の方だけどな」


 お互いにマスクをつけたままで笑い合う。

 色々と苦労もしたが、改めてパートナーの大切さを実感できた1日だった。

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